よりどりインドネシア

2023年10月08日号 vol.151

食糧基地プロジェクトは失敗を繰り返す ~背景と理由を振り返る~(松井和久)

2023年10月08日 10:44 by Matsui-Glocal
2023年10月08日 10:44 by Matsui-Glocal

2億8,000万人の人口を抱えるインドネシアの経済開発において、最重視されてきたのは食糧の確保です。1970年代に高収量品種の導入、化学肥料・農薬の投入によるいわゆる「緑の革命」が実施された頃まで、インドネシアは世界有数の米の輸入国でした。それが、あたかも奇跡のように、1984年にコメの自給を達成したことで注目され、当時のスハルト大統領が国際食糧機関(FAO)から表彰されました。インドネシアは食糧難に悩む発展途上国の模範となり、「緑の革命」の成功事例と位置づけられました。

しかし、人口は年率2%程度増加するため、そして乾季の長期化や雨季の不規則化など気候変動への対応のため、コメの自給達成状態の維持が重要な政策となりました。コメの増産は、現在に至るまで、インドネシア農業の最重要政策であり続けています。そのために、「緑の革命」の手法が採られ続けてきました。さらなる高収量を目指すコメの品種改良が続けられ、高収量品種や化学肥料・農薬などの中間財は、農民や農民グループが国営銀行(Bank Rakyat Indonesia: BRI)の低利貸付を理由して入手していきました。

一方、コメの増産が続くなか、国民の食糧への選好が大きく変化しました。もともと、インドネシアには、コメを主食とする人々以外に、キャッサバ、その他イモ類、トウモロコシ、サゴ椰子澱粉などを主食とする人々が多数住んでおり、国民全体の主食に占めるコメの比率は5割程度でした。それが、「緑の革命」によるコメの増産の影響か、主食に占めるコメの比率が9割以上へ大きく増加したのです。コメ以外を主食としてきた人々がコメを食べるようになったのです。このため、コメの消費量も増加し続けることとなりました。

彼らがコメを主食にするようになった理由は様々ですが、想像できるのは、コメが文明化、近代化の象徴と捉えられたことがあります。コメを食べることで、自分たちが未開状態よりも上段へ上がる、という意識で、自分たちの伝統的な食文化を遅れたものと捉えているためです。

日本人がパン食や肉食といった西洋式の食事にあこがれたのと似ているかもしれません。教育が普及したり、メディアを通じて都会の生活スタイルが流布したりしたことも影響します。将来の人口増・消費増を見越したコメの増産は重要政策であり続けました。

他方で、コメ生産の中心であるジャワ島では、土地関係が入り組んでいることもあり、小さな水田が散在し、一つの田んぼで収量を上げるだけでは限界が見えました。加えて、農家の後継者問題が大きくなり、将来的な農業の担い手の確保が課題となっています。また、都市化の進行により、農地が宅地などへ転換されるケースも大きく増えました。これらへの対応のため、ジャワ島の平野部などで農業機械を導入して生産性を上げる試みが続いています。それでも、散在する水田を集約して、大規模な耕地とすることは容易ではありません。

となると、人口密集地のジャワ島ではなく、人口が希薄で未利用の非耕作地が広大なスマトラ、カリマンタン、パプアなどのジャワ島外で、大規模な機械化を伴う農業開発によって食糧生産を行うことを考えるのは決して不自然ではないでしょう。こうして、歴代政権は、幾度も食糧基地プロジェクトを実施し、そして失敗してきたのでした。

現在のジョコ・ウィドド(通称:ジョコウィ)大統領が進めてきた食糧基地(Food Estate)プロジェクトに対して、「失敗」との評価が数多く出されています。与党第一党の闘争民主党(PDIP)のハスト(Hasto Kristyanto)事務局長は「失敗であり、環境に対する犯罪だ」とまで批判しています。これに対してジョコウィ大統領は、実施期間がまだ短いので失敗とはいえない、と返しています。

中カリマンタン州の食糧基地プロジェクトの現場を視察するジョコ・ウィドド大統領。(出所)https://www.bbc.com/indonesia/indonesia-64975831

インドネシアではこれまでなぜ、食糧基地プロジェクトは失敗を繰り返してきたのでしょうか。今回は、少しでもその背景と理由に迫ってみたいと思います。まずは、スハルト政権期に中カリマンタン州で実施された100万ヘクタール泥炭地開墾プロジェクトから見ていきます。

100万ヘクタール泥炭地開墾プロジェクト

スハルト政権下の1995年12月、中カリマンタン州のカプアス県と南バリト県にまたがる100万ヘクタールの泥炭地や湿地を開墾して農地へ変え、コメの生産を行うプロジェクトが大統領決定(Keputusan Presiden)1995年第82号により発表されました。

スハルト大統領は7人の閣僚を集め、「中カリマンタンがインドネシアを救う。新田開発で年510万トンのコメを生産する」と述べ、2年以内のコメの収穫を厳命しました。大統領肝入りのこのプロジェクトは1996年1月、フィージビリティ・スタディ(F/S)も環境影響評価(Amdal)もなしに開始されました。対象地内に居住する1万5,000人の住民は立ち退かされました。

当初計画の新田開発対象面積は580万ヘクタールでしたが、実際の対象面積は146万ヘクタールで、そのうちの4割に当たる58万6,700ヘクタールの新田が開発されました。

泥炭地では雨季に水を排水し、乾季に水を給水する灌漑水路の建設が重要で、総計2,700キロに及ぶ水路建設が計画されていましたが、順調には進みませんでした。実際、ネズミなど獣害、灌漑水路建設の遅れによる用水管理の困難などで、まだ農耕できる用地や設備が整っていなかったり、農耕できてもコメが実らず収穫できなかったりして、ジャワ島やバリ島から入植した1万5,100人の移住者の一部は中カリマンタンを離れ、故郷へ戻りました。また、新田開発の過程で、泥炭地の森林の多くは切り払われたため、泥炭地から空中へ排出される二酸化炭素の量が大きく増加しました(注)。ボゴール農科大学チームは独自に環境影響評価(Amdal)を実施しましたが、その結果は、マイナス効果がプラス効果よりはるかに大きいというものでした。

(注)国際環境NGO FoE Japan (2007),「インドネシア 泥炭地破壊で世界第3位の CO2 排出国に」https://www.foejapan.org/forest/sink/peat.pdf

結局、この100万ヘクタール泥炭地開墾プロジェクトは、スハルト政権崩壊後のハビビ政権下で、1999年7月の大統領決定第80号により中止となりました。本プロジェクトのアイディア自体は、華人系民間企業サンブ・グループがリアウ州の泥炭地で行なった事業が基にありましたが、それをスハルト大統領が強引に進めてしまったものでした。F/Sなど事前調査も環境影響評価も無しに進めるという杜撰なものを一大国家プロジェクトとして実施したのでした。政府内からは、失敗の理由として民間企業の関与がなかったことが挙げられました。

100万ヘクタール泥炭地開墾プロジェクトの跡地。この地で再び食糧基地プロジェクトが行われるかもしれない。(出所)https://pasopati.id/expose/cetak-sawah-di-gambut-kalteng-potensial-hadirkan-petaka-baru

(以下に続く)

  • メラウケ統合食糧エネルギー基地(MIFEE)プロジェクト
  • ジョコウィ政権での食糧基地プロジェクト
  • 食糧基地プロジェクトの進め方と問題点
  • 食糧基地プロジェクトの今後
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