よりどりインドネシア

2023年10月08日号 vol.151

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第70信:ホラーより怖い心理サスペンススリラー ~今年1番の傑作『スリープコール』~(横山裕一)

2023年10月08日 10:46 by Matsui-Glocal
2023年10月08日 10:46 by Matsui-Glocal

轟(とどろき)英明 様

10月に入ってジャカルタの空は曇りがちの日が多くなり、雨季が近づきつつあることを予感させます。まだ各地では雨乞いの儀式をするなど干ばつが続き、恵みの雨が待たれるところです。一方で、エルニーニョ現象の影響が続いた反動で、今年の雨季が大雨続きにならないことを祈るばかりです。

前号で轟さんが取り上げた『沈黙の自叙伝』(Autobiography)が日本でも劇場公開されたのはとても喜ばしいことです。インドネシアの現代政治文化を暗喩しているとはいえ、テーマの核心は普遍的でもあり、是非多くの方に鑑賞してもらいたいと思います。原題『自叙伝』に邦題では『沈黙の』が追加され、日本では漫画原作の映画『沈黙の艦隊』のイメージに引っ張られてしまう感じがしましたが、作品自体を考えれば、全体を通して感じられる緊張感、静謐感から『沈黙の』と追加するのも妥当かなとも思われます。

私は2つの面から暗喩に満ちた非常に魅力ある作品だと思います。政治スリラーと心理スリラーの面です。政治スリラーについては轟さんが指摘されているように、主人公の一人、退役軍人で県知事選挙に立候補するプルナは権威と暴力を兼ね備え、スハルト長期独裁政権を象徴的に暗喩しています。もう一人の主人公でプルナに仕える若者・ラキブは現代の若者の代表的な存在です。暴力を伴う権力をラキブは拒否しますが、その手段はプルナを射殺するという暴力であり、さらにラストシーンではかつて初対面でプルナに拒否されたコーヒーを飲みたいと主張し、ガラスに映った自らを見つめる姿は、第二のプルナを自ら見出そうとしているようでもあります。歴史は繰り返すのではないかという危機感をはらんで物語は閉じます。

長期独裁政権を退陣に追い込み民主化の時代に入って25年、インドネシアでは権力を傘にきたあからさまな暴力はなくなったものの、権力者の汚職は続き、経済開発優先の名の下に庶民の声が蔑ろにされる傾向は変わらず、権威主義は民主化前に戻りつつあるとの指摘も出ています。ラストのガラスに映ったラキブの微妙な表情は、現代の若者に対してこれまでと同じ道を歩むのか、それとも新たな道を模索するのかと問いかけているようにも受け取れます。折りしも来年は大統領選挙と総選挙が行われますが、政治家の中には民主化以前も権力側だった者も多い一方で、有権者の約4割が1998年の政変時に中学生以下、あるいは民主化後に生まれた若い世代です。民主化以前を知らない世代が何を選ぶのか、まさに本作品はタイムリーな問いかけをしています。

もう一つの心理スリラーの面とは、主人公のラキブの内面的な移ろいを通して、人間の心理傾向や弱い特性を警鐘を込めて問いかけている点です。プルナの権力、威圧感に対して、当初ラキブは畏怖や不安感を感じます。その後恐れは権威者に仕える誇りと憧れに変わり、気がつけば自らも他者に威圧感ある態度を示すようにまでなります。しかし、プルナの暴力を目の当たりにしてラキブは失望以上に恐怖に駆られ、反発や怒りと共にプルナを殺害します。プルナ亡き後、安堵を手にしたラキブは翻って権威を選択することを予感もさせる終わり方をしています。ラキブ役を演じたケフィン・アルディロファは記者会見で「作品は典型的なインドネシア人の思考や行動傾向が示されている」と話していますが、これも世界共通の心理特性でもあります。「インドネシアらしさ」を映しながらも、世界に普遍的な人間の心理傾向を浮き彫りにした面からも、本作品の魅力に広がりを感じます。

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さて、今回は9月下旬に公開され、久しぶりに見応え十分で唸らされた作品を紹介したいと思います。日々の生活から精神的に追い詰められるOLの行末を描いた心理サスペンススリラー映画『スリープ・コール』(Sleep Call)です。都会の喧騒の中、職場の複雑な人間関係や家族関係、さらには時間や支払いに追われて、孤独感やストレスが高まる日々・・・現代社会ではインドネシアのジャカルタでもこういう状況が訪れているのだと感慨深くもなる作品です。サブタイトルはあくまでも私個人の感想が含まれていますが、ミステリアスな構成、驚きを伴う謎解きなど、ゾッとするとともに現代に生きる人間のやるせなさを感じさせます。なお、前号で轟さんが取り上げた『沈黙の自叙伝』も今年1月の一般公開ですが、前年度のインドネシア映画祭で表彰されているように前年度作品であるため、それを除いて今年一番とさせていただきました。

実は今回この作品を取り上げるか非常に迷いました。近いうちに必ず動画配信されることが予想されるうえ、サスペンススリラーだけにネタを明かしてしまうと、轟さんをはじめ今後観る機会のある方が鑑賞する際の興味、楽しみを大きく損なうためです。しかし、この快作を多くの方に気に留めておいてもらい、是非観てもらいたいため、取り上げることにしました。このため、謎解きに関する本質部分は避けて、曖昧な表現に留まることをご了承ください。

映画『スリープコール』劇場公開ポスター

物語はジャカルタで一人暮らしの、オンラインによる違法金融業者に勤める女性ディナが主人公です。数人の同僚とともに、電話を通じた貸金の勧誘や滞納者に対する厳しい督促を告げる日々です。ストレスの溜まる仕事に加えて職場での人間関係も複雑で、ディナは社長とかつて不倫関係にあっただけでなく、現場主任に頻繁に交際を迫られ困り果てます。さらに自らも会社に多額の借金をしていて、返済期限が3ヵ月後に迫っている。借金の原因は母親がいる精神科施設での療養費用で、母親との関係もうまくいっていないようです。

日々積もっていくストレスと、会社と自宅の行き来のみで高まる孤独感を抱え、ディナは出会い系サイトで知り合った男性、ラマと毎夜寝りつくまでビデオ電話で会話する「スリープコール」を繰り返して心を癒しています。ラマは素性も不明で謎めいていますが、煩雑な日常とは切り離された存在として、ディナは魅力を感じ心の拠り所として求めて行きます。そんな折、ディナの身辺が慌ただしくなります。仕事で返済督促をしていた客に帰宅途中後をつけられて脅されたのに加え、この客が自殺してしまう。追い打ちをかけるように、職場の飲み会で酒に酔った挙句、無意識のまま現場主任と一夜を共にしてしまいます。さらには社長から再び不倫関係を求められます。精神的に追い詰められたディナは、心の拠り所であるラマに思いを告げます。

「助けて・・・」

これを契機に不可解な事件が起き始めます。ラマを疑うディナは職場の友人の協力を得てラマの所在を探り始めます。しかし、その先には意外な結末、真実が明らかにされる・・・というものです。

(⇒ 都会に生きる現代人が陥りがちな・・・)

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