よりどりインドネシア

2023年10月08日号 vol.151

クレテック発明者とクレテック王(太田りべか)

2023年10月08日 10:45 by Matsui-Glocal
2023年10月08日 10:45 by Matsui-Glocal

前回、クレテック(kretek:丁子入り煙草)をめぐるラティー・クマラ(Ratih Kumala)作の小説 “Gadis Kretek”(『クレテック娘』)を紹介した。今回はクレテックをめぐる実話的側面を少し覗いてみたい。

●クレテック発明逸話の謎

前回にも書いたが、クレテックの発明についてはいくつか説があるようだ。なかでももっとも広く知られているのは、19世紀にジャワ中部北海岸近くの町クドゥスに住んでいたジャマリまたはジャムハリという男が胸に痛みを覚え、丁子オイルを塗ると息苦しさが消えたので、試しに刻み煙草に丁子を混ぜて吸ってみたところ、息苦しさの発作が起きなくなり、その噂が広まって「薬用煙草」として知られるようになった、という説だ。

この逸話の出どころはよくわかっていないらしいが、ジャムハリという人物の正体と生涯を追った『ジャムハリ クレテックの発明者——埋れた100年の歴史とその足跡を追って』(“Djamhari Penemu Kretek: 100 Tahun Sejarah yang Terpendam dan Lika-Liku Pencarian Jejaknya”)の著者、歴史学者でジャーナリストでもあるエディ・スプラトノによると、ジャムハリの名が最初に書籍に現れたのは、1934年にジャワおよびマドゥラの労働監督官だったオランダ人Van der Reijdenが、オランダ植民地政府の要請により作成したインドネシアの煙草産業に関する報告書だ。その後何冊かにおおよそ上述のようなジャムハリによるクレテック発明の逸話が記載されたが、いずれもジャムハリはクドゥスの人で、1870年から1880年ごろにクレテックを発明し、1890年ごろにクドゥスで亡くなった、としているという。

ところがこのジャムハリという人物についての詳細は、それ以外には、喘息のような気管支系の持病があったらしい、ということぐらいしかわかっておらず、墓所がどこにあるかも不明だ。なかには、ジャムハリは実在の人物ではなく、そのクレテック発明逸話も単なる作り話にすぎないとする向きもある。

20世紀前半にやはりクドゥスでクレテック製造を始めて、インドネシア初の大規模煙草製造を実現して富を築き、「クレテック王」という異名をとったニティスミト(Nitisemito)の評伝『クレテック王M. ニティスミト — 独立以前最大のプリブミ富豪実業家』(“Raja Kretek M. Nitisemito: Pengusaha Pribumi Terkaya Sebelum Kemerdekaan”)には、ジャムハリに関する逸話がもう少し詳しく書かれている。それによると、手作りの「薬用煙草」が次第に近隣の人々の間で評判となり、ジャムハリは本格的に丁子入り煙草の製造を始めたという。まだ家内工業規模ではあったものの、一般市場に向けてクレテックの量産を始めた。ところがその後の消息はわかっておらず、ジャムハリの工場の所在地も、そこで作っていたクレテックがその後どうなったかもわからない。

「クレテック王」ニティスミトの孫のひとりヌスジルワン・スマジは、実際には最初にクレテックを作ったのはニティスミトその人だ、と主張する。1935年から1938年の間にクドゥスを訪れたジャーナリスト、パラダ・ハラハップがジャムハリの名に言及しているという。だが、それは当時すでに盛んになっていたクレテック製造の事業主たちがニティスミトに対するクレテックの特許使用料の支払いを義務づけられるのを防ぐために、故意に作られた伝説ではないかとヌスジルワン・スマジは推測している。その証拠に、ジャムハリについて詳しいことはなにもわかっておらず、その子孫も存在していないというのがヌスジルワンの言い分だ。

●ジャムハリの足跡

『ジャムハリ クレテックの発明者——埋れた100年の歴史とその足跡を追って』の著者エディ・スプラトノは、有名でありながら謎の人物ジャムハリの足跡を追おうとするが、それは藁の山の中から1本の針を見つけ出すような作業だった。

ジャカルタやクドゥス、ジュパラの公文書館などに保管されている植民地政府によるクドゥスの住民の出生や死亡に関する記録を調べても、それらしい人物は見つからない。ジャムハリの名は常に「ハジ(Haji)」の称号を伴って称されているので、それを手掛かりにエディはオランダのデン・ハーグに飛び、そこの公文書館に保管されている19世紀後半から20世紀初頭にかけてのオランダの在ジッダ領事館の記録を調べることにした。

当時ハジ(ハッジ、メッカへの大巡礼)に上るのは、膨大な時間と費用を要するたいへんな行程だった。たとえば1852年8月14日に西ジャワのスムダンを出発した巡礼者は、陸路と海路を経て9月17日にシンガポールに到着。そこで風待ちをして11月30日にシンガポールを出発。マラカ、ペナン島、アチェ、コルカタなどに寄港しつつ、出発から7ヵ月以上をかけて1853年3月28日にようやくジッダに到着している。シンガポールで風待ちをしている間に手持ちの資金が尽きてしまったり、健康を害したり、あるいはハッジの季節が過ぎてしまったりして、やむなくそのまま帰国する人たちも少なくなかった。そういう人たちは「ハジ・シンガプラ」と呼ばれた。

それだけ困難な行程をこなしてハジの称号とともに帰国した人たちは、たいへんな尊敬をもって遇され、経済的に豊かな人たちであったこともあって、社会的影響力も大きかった。そのため、ハジを詐称する人も少なからずいたようだ。そういうハジ詐称者やハジ・シンガプラと本物のハジを区別するため、また当時トルコのオスマン帝国を中心に広がりつつあった汎イスラーム主義に対する警戒のため、オランダ植民地政府はジッダに領事館を置いて、植民地からの巡礼者たちを厳格に管理しようとした。

その巡礼者たちの記録の中にジャムハリらしき人物の名があるかもしれない。だが、結局それらしき人物を特定することはできなかった。

公的記録の中にその足跡を見つけることはできなかったが、クドゥスの煙草産業関係者や商業関係者を訪ね歩くうちに、エディはようやくジャムハリと血縁関係のある老婦人を見つけ出した。しかしその老婦人はジャムハリのことはよく知らず、ジャムハリを知っているのはバンドンのアハマド叔父だと言う。その住所も連絡先も今となってはわからないとのことだったが、エディは粘り強く伝手をたどって、そうやくそのバンドンのアハマドなる人物にたどり着いた。

アハマドはジャムハリの甥に当たり、早くに両親を亡くしたため、西ジャワのタシクマラヤに暮らすジャムハリに息子同様に育てられた。1958年のある日のこと、アハマドはジャムハリに、なぜもう何年もの間クドゥスの親類たちが訪ねてこないのかと、長年疑問に思っていたことを尋ねた。アハマドが子どもだったころには、タシクマラヤとクドゥスの親族の間には盛んな行き来があったのに、それが途絶えてずいぶんになる。ジャムハリはクドゥスの従兄弟に宛てた手紙を書いてアハマドに託し、アハマドをクドゥスへ向かわせた。

アハマドはクドゥスでジャムハリの従兄弟たちに会い、それをきっかけとしてクドゥスとタシクマラヤに暮らす親族が旧交を温め合うようになり、正式に家系図を作るに至った。その家系図や、アハマドおよびジャムハリの10番目と11番目の子などの話をもとにジャーナリストのエディ・スプラトノが再構成したジャムハリの足跡は、おおよそ以下のようなものだ。

  • 1870年代にクドゥスのランガルダレム村で生まれる。
  • 1890年代に結婚。
  • 1912年、ムスリム商人を中心とする組織サレカット・イスラム(SI)のクドゥス支局ウンダアン地区プラウォト支部の役員となる。
  • 1918年か19年ごろ、クドゥスから西ジャワのタシクマラヤへ移住。
  • 1962年、タシクマラヤにて死去。墓所もタシクマラヤにある。

上述のオランダ人労働監督官Van der Reijdenの報告書やその他の文書に記載されているというクレテック発明逸話によると、ジャムハリは1870年から1880年ごろにクレテックを発明し、1890年ごろにクドゥスで亡くなったとされている。エディが見つけ出したジャムハリとは、経歴がかなり違う。ほんとうに同一人物なのだろうか?

“Djamhari Penemu Kretek: 100 Tahun Sejarah yang Terpendam dan Lika-Liku Pencarian Jejaknya”

一方、「クレテック王」ニティスミトは、やはりクドゥスのジャンガラン村で1874年に生まれている(生年を1853年、1863年とする説もあるが、没年は1953年で、近親の人々の話によると90歳ましてや100歳にはなっていなかったということなので、1874年生まれとするのがもっとも信憑性が高いらしい)。そうすると、エディが見つけ出したジャムハリとは同世代で、しかもふたりが生まれた村は隣村といっていいほどの近さだ。だからといって、ふたりが顔見知りだったとは限らないけれど、親族関係から見ると、ふたりの間には少なからぬ縁があった。さらに、ジャムハリの直接の子孫ではないものの、その血縁に繋がる人々が、少なくともエディが取材した時点ではクドゥスに住んでいた。それをニティスミトの孫が「ジャムハリについて詳しいことはなにもわかっておらず、その子孫も存在していない」と断じるのは、いかに祖父世代から時間的隔たりがあるとはいえ、どこか不自然に思える。

そもそもジャムハリは、なぜ生まれ故郷のクドゥスを離れてタシクマラヤに移住したのだろう? そしてクドゥスの親族とかなり長い期間疎遠になってしまったのはなぜだったのだろう?

●クドゥスの反華人暴動

いつのことかはっきりしないが、おそらく1918年か19年ごろに、ジャムハリは親兄弟と妻子とともにクドゥスからタシクマラヤに居を移している。ジャムハリは祖父の代から商人で、主にバティックや衣類を扱って手広く商いをしていたようだ。クドゥスだけでなく、周辺の町々や、西ジャワのタシクマラヤ方面にも頻繁に足を伸ばしていたらしい。かなり羽振りも良かったようなので、タシクマラヤに滞在するための家も持っていたかもしれない。移転先にタシクマラヤを選んだのは、おそらくそういう縁があったからだろう。

1918年10月にクドゥスで起きた反華人暴動が、この一家あげての移転の契機となったのではないかとエディ・スプラトノは推測している。

1918年、それまで盛んになってきていたクドゥスのクレテック製造業は、大きな困難に直面していた。「クレテック王」ニティスミトに続いてジャワ人の事業主たちが次々とクレテック製造を始め、華人の事業主たちも参入して競争が激化していたところへ、第一次世界大戦の影響で丁子の入手が困難になったのである。タバコはジャワで採れるが、丁子は主にザンジバルやマダガスカルから輸入していたが、それが困難になり、値段が高騰した。さらにスペイン風邪の大流行が追い討ちをかけ、ジャワ全域での死亡者は100万人に達したという。

クドゥスでもスペイン風邪による死者が相次いだ。その災厄を乗り切るため、クドゥスの華人グループが神に祈りを捧げる行事を企画し、パレードを行うことをクドゥスの県知事や植民地政府の地方役場に申請し、許可を得た。パレードは、1918年10月24、25、28、30日に行われることになった。色とりどりの衣装に身を包んで仮装した華人たちがクドゥスの街中を練り歩き、町の人々の目を楽しませた。パレード第3日目まではこともなく過ぎた。

そのころ、クドゥスの町で高名なクドゥスの塔付近では、モスクの改修工事が進められていた。ムスリムの住民たちが協力し合って昼夜工事を進めていたのだが、川から運んできた砂や石などの建材がモスク前の道に積まれ、道幅を狭くしていた。そんな事情があったので、ムスリム代表者が華人グループにモスク前の道をパレードの進行ルートから外してほしいと願い出ていたが、華人たちはルートを変更せず、モスクの前を通過した。

クレテック製造業やその他の商業をめぐってクドゥスの地元民と華人との間に対抗意識が醸成されていたところへ、その一件があって、ムスリム系住民たちの華人に対する反感が高まった。パレードの中にはターバンを巻いたりしてハジに扮している華人もいて、ムスリム系住民の不快感をいっそう煽った。

10月30日、三人のハジが引く砂を載せた荷車が、モスク前の狭くなった道で華人のパレードと鉢合わせした。どちらも道を譲ろうとせず、荷車を引いていたハジ・サヌシが荷車をパレードの山車にぶつけた。ぶつけられた勢いで、ハジの紛争をした華人が山車から落ちた。騒ぎを聞きつけて地域の住民たちが駆けつけ、華人グループと地域住民たちとの間で乱闘になった。

華人たちは逃げ出し、警察が駆けつけて夜中までにはいったん騒ぎは収まったが、噂は瞬く間に広まり、翌31日の夕方にクドゥス塔のモスクに集合して華人たちを襲撃しようと数人のハジたちが地元民たちに呼び掛けた。危機感を募らせた役人たちや華人の代表者たちとサレカット・イスラム(SI)の主だったメンバーの間で話し合いがもたれ、31日の夜8時ごろには事態が収束したように見えた。ところがその後、川での石の採取作業に戻ったムスリム系住民たちがある華人の家の前を通りかかったとき、「なんだよ、たったのあれだけかよ」という嘲りの声が聞こえてきて、ムスリムたちの怒りに火がついた。ムスリムたちは運んでいた石をその華人の家に投げ込み、それを機に暴動が起きて、クドゥスのあちこちに広まり、多くの華人の住宅や商店が襲撃され、火をかけられた。少なくとも10人が死亡し、クドゥスに住んでいた華人の約半数がスマランへ避難した。

この暴動に関与した疑いで少なくとも69人が逮捕され、そのうちの7人はSIの役員だった。逮捕された面々の公判中にも、植民地政府は疑わしい人物を手当たり次第に逮捕した。その中にはSIのメンバーも少なくかった。ジャムハリが逮捕されたとは記録にはないが、ジャムハリもSIの役員だったので、尋問されたり拘留されたりした可能性は否定できない。おそらくそういう状況の中で、ジャムハリは危機感を募らせて一家そろって移住を決意したのではないかと、エディ・スプラトノは推測している。

(以下に続く)

  • クレテック王の誕生
  • 記憶から消えたジャムハリ
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