よりどりインドネシア

2023年01月08日号 vol.133

いんどねしあ風土記(42):首都ジャカルタのバタック世界 ~ジャカルタ首都特別州・北スマトラ州~(横山裕一)

2023年01月08日 12:03 by Matsui-Glocal
2023年01月08日 12:03 by Matsui-Glocal

多民族国家インドネシアで、3番目に人口が多い民族がスマトラ島北部に分布するバタック民族である。キリスト教徒が多く、ジャワ文化などにはない苗字を重要なアイデンティティとする独自文化を持つ。バタック民族は首都ジャカルタにも多くが進出していて、バタック民族による集落もある。遥か故郷を離れながらも独自文化を展開する年末年始の過ごし方を通して、バタック世界を垣間みる。

●ジャカルタのバタック集落

東ジャカルタのストヨ少将通りは片側3車線の幹線道路で、日中車などで通ると一見どこにでもありそうな街並みに見える。創立者にバタック民族も名を連ねるインドネシアキリスト教大学が確認できるくらいだ。しかし大通り沿いに歩いてみると、ジャカルタにしては珍しく酒販売店が4軒も並んでいることに気づく。外からでも数多くのウィスキーやワインなどの瓶が見える。明らかに非イスラム、とくにキリスト教徒が多い地区であることが窺える。

東ジャカルタ・チリリタン地区

ここ東ジャカルタのチリリタン地区の一部はバタック民族が多く住む集落として有名でもある。約200~300メートル四方の狭い範囲ではあるが住宅が密集し、小規模ながら13ものキリスト教会がある。12月だったこともあり、住宅の玄関にはクリスマスを祝う飾りが多く見受けられる。なぜこの地域にバタック民族が集まったのかは不明だが、地元の住民によると1970年頃から集落が形成され始めたという。バタック民族だけの特徴には限らないが、故郷を離れジャカルタに移り住んだ者を頼って同郷の者が次々と訪れ、近所に住み着いていくようなことが繰り返されたものとみられる。

東ジャカルタのバタック集落は狭い地域に教会が密集している

バタック民族が北スマトラからジャカルタに居住するようになったのは20世紀初頭頃といわれている。オーストラリアのインドネシア研究者ランス・キャッスルの著書『ジャカルタの民族プロファイル』(1967年)によると、バタック民族のジャカルタ居住者は1930年には1,300人だったのが、インドネシア独立後の1961年には28,900人まで急増している。その後も増え続け、2010年の国勢調査では、32万6,000人ものバタック人がジャカルタの住民となっている。

バタック集落の街並み

ジャカルタのバタック民族総数からみればごく一部ではあるが、チリリタンの集落はジャカルタでは最大のバタック集落であり、バタック文化を垣間見ることができる。冒頭の酒屋に並んで、集落入口の大通り沿いにはバタック民族の伝統料理レストランや屋台が約10軒並んでいる。レストランの看板にはバタック語でレストランや居酒屋を意味する「ラポ」(Lapo)の文字が掲げられている。郷土の焼きそば料理「ミーシアンタル」などがメニューに並ぶ。

バタック集落入口に並ぶバタック料理店。看板にはラポ(LAPO)の文字が。

また、北スマトラ独自のお菓子や調味料をはじめ、ミントの香りが強い当地独自のコーラ飲料ブダックも屋台などで販売されている。揚げ物屋ではやはり北スマトラ特有の黒餅米を団子状に揚げたものや緑豆の揚げ物などが並んでいる。揚げバナナも当地特有で野球のグローブ状の形で揚げられている。

バタック料理店の向かいに並ぶ屋台。バタック地方独自の調味料やお菓子などが並ぶ。

屋台のおばさんはやはりバタック民族で、北スマトラ州カロ地方の出身。25年前にジャカルタに来て、バタック集落に住み着いたという。一方、向かいの「ラポ」で客寄せをしていた22歳の青年は、3ヵ月前に北スマトラ州シマルグン地方から集落に移り住んだばかりだという。

「ジャカルタで仕事を探しに来ました」

遥か故郷を離れたここには、狭い地域ながら確実にバタックの世界があった。独自の文化や生活環境をジャカルタで展開し、第二の故郷にしているかのようでもある。キリスト教徒が多いため飲酒、豚肉や犬肉を食べる習慣を持ち、ストレートな物言いや金銭感覚に鋭い特徴を持つといわれるバタック民族。これらバタック民族独自の文化や風習は、北スマトラの独特な地形風土と民族往来の歴史から培われてきている。

●北スマトラ州、バタック世界へ

北スマトラ州地図。中央にあるのがトバ湖(引用:Google Maps)

バタック民族が分布する北スマトラ州は、東海岸はマレーシアとの間を挟んだマラッカ海峡に面し、西はインド洋に面してインドを臨む。古来より海路による民族往来が盛んだった地域である。そして中央高地には世界最大のカルデラ湖として有名なトバ湖がある。7万4000年前、人類滅亡の危機を招いたともいわれている「スーパーボルケーノ」と呼ばれる大噴火でできた湖だ。南北約100キロ、東西約30キロの巨大な湖を中心に肥沃な土地が生まれ、農耕を中心に栄えた地域である。トバ湖周辺は平地にみえる地域でも海抜900メートルはあるため、朝夕は肌寒くなり、丘陵地であることを改めて感じる。一帯は近年、良質なコーヒーの一大生産地としても有名である。

トバ湖。右奥がサモシル島。

サモシル島から見ると湖の周囲に外輪山が取り巻く。

バタック民族は地域によって文化や言語が多少ながら異なるため、6つの部族に大きく分けられる。トバ湖周辺(トバ湖内のサモシル島を含む)から南部に広がる地域に居住するトバ族、その南部に位置するアンコラ族、マンダイリン族、トバ湖北西部のパクパク族、北東部のシマルグン族、そしてトバ湖北部からアチェとの境界に広がるカロ族である。

バタックの古代王朝は7世紀頃、ソリ・マガラジャ王朝としてスマトラ島西海岸に興り、その後16世紀に都を中央高地のトバ湖の南岸に移してバッカラ王朝が立てられた。バッカラ王朝のシシガマガラジャ王12世はオランダ植民地政府に対して抵抗し続けたが1907年に戦死、同時に王朝も滅んだ。シシガマガラジャ王12世はインドネシアの国家英雄に認定されていて、ジャカルタの目抜き通りであるスディルマン通りから南へと続く幹線道路の名前に冠されてもいる。

バッカラ王朝が中央高地で約400年間栄え続けた背景には、地形的に西海岸からのインド人、東海岸からのムラユ人らの攻撃を受けにくく、独自文化を発展させることができたためとみられている。しかし交易、文化的には、王朝を中央高地へ移す以前からインド人やムラユ人、さらにはミナンカバウ民族(西スマトラ州)らの影響も強く受けていて、特に南部のアンコラ族やマンダイリン族、北部のカロ族やパクパク族ではイスラム教化も進んだ。

19世紀後半にドイツのプロテスタント教会がトバ湖周辺を中心にキリスト教の布教を進め、他地域では主にオランダによる布教が進められた。バタック民族イコールキリスト教徒のイメージが強いが、バタック民族全体の約半数を占めるトバ族やシマルグン族がほぼキリスト教徒であるためで、アンコラ族やマンダイリン族はイスラム教徒が大半を占めていて、カロ族やパクパク族も約半数がイスラム教徒である。イスラム教徒でジャワ民族であるジョコ・ウィドド大統領の長女がメダン市長(バタック民族)と結婚したが、彼はバタック民族でもマンダイリン族出身でイスラム教徒だったためである。

バタック民族の大きな特徴は西スマトラ州のミナンカバウ民族と同様に氏族名、苗字を持つことである。「マルガ」と呼ばれるバタック民族の苗字は自らの出自を表すアイデンティティとして重要なだけでなく、同氏族間の連帯を強める役割も大きく担っている。バタック地方の伝説では、かつてシラジャ・バタックという人物がバタック民族の始祖といわれていて、その子孫たちの名前が現在のバタック民族が持つ氏族名である「マルガ」になったといわれている。氏族名は『タロンボ』(Tarombo)という家系図にまとめられ、バタック民族たちの氏族名がどの系統でどんな地位の出自だったかを知ることができる。父方の「マルガ」が代々引き継がれていき、バタック民族の父系社会を支えるシンボルでもある。

「タロンボ」(引用:https://batakpedia.org/marga-tarombo-dan-tutur/

このため、氏族名「マルガ」はバタック民族の証、誇りでもある。「マルガ」は合計約500種類あるといわれ、6部族によって使用される氏族名が異なることから、「マルガ」から氏族や出身地を知ることもできる。現在でも初対面のバタック民族同士が自己紹介する際には、お互いに「マルガ」を確認するところから始まる習慣がある。日本では同じ苗字でも血縁や出自などの関係が全くない場合が多いが、バタック民族では「マルガ」が同じ場合、元を辿れば同じ祖先であると考えられていることから、初対面で親戚関係にない相手でも「マルガ」が同じであることを知ると強い仲間意識を抱き、助け合う関係になる場合が通常である。

2017年にバタック民族のインディーズバンドが『キャベツ』という歌を発表したが、その後幼児が歌う様子がソーシャルメディアを通じて評判となり全国的に大ヒットした。歌う姿が可愛かったこともあるが、曲と共に歌詞の内容が典型的なバタック民族の特徴を捉えていてユニークだったためでもある。

歌詞の内容は、「バタック民族である歌の主人公がシボロンボロン(トバ地方の地名)を訪れた際、大雨に見舞われる。初めての地で途方に暮れていると、ある婦人に出会う。彼女は同じ「マルガ」であるパンジャイタンという苗字だった。彼女は家に招いてくれ、キャベツと犬肉の料理を振る舞ってくれた」というものだ。初めて出会った見ず知らずの者に対しても、同じ苗字(マルガ)であることから、雨宿りだけでなく食事まで出して助けてくれた、という単純だが同氏族間の仲間意識が高いバタック民族の習慣が的確に表現されている。

バタック民族の伝統文化はトバ湖にあるサモシル島に最も多く残されている。火口湖の島という地形的に隔絶された環境のためでもあるが、現在ではインドネシア政府が観光促進のため補助金で伝統家屋集落を保護してもいる。サモシル島にあるシマニンド・フタ・ボロン博物館では王宮でもあった伝統家屋の前で観光客に伝統舞踊を披露しているが、子孫繁栄や無病息災を万物の創造主である神に祈り、水牛を生贄として捧げるなど、伝統舞踊からもキリスト教が伝播する以前の自然崇拝の独自信仰が色濃く残っていることが窺える。

シマニンド・フタ・ボロン博物館で披露される伝統舞踊(サモシル島)

伝統家屋は「ルマ・ボロン」と呼ばれ、「大きな家」の意味を持つ。舟形の屋根を持つ高床の独特な形状で、家屋の支柱は土台となる支石の上に固定せずに設置されている。これは地震が多い地域であることから耐震のためで、長い歴史の中から生まれた知恵だという。伝統家屋の内部は大広間だけだが、一番奥が家長夫婦のスペースで、以下、未婚の男性、女性、家を持つ前の子供夫婦、客などとそれぞれ居住空間が決められている。現在では、伝統家屋の裏側を現代家屋と接続させて、現代家屋で主に居住している場合が多い。

「ルマ・ボロン」と呼ばれる伝統家屋とそこで暮らす人々(サモシル島)

サモシル島では農業と湖での漁業が盛んで、伝統行事などでは淡水魚の料理が振る舞われる。ここに欠かせないのがトバ湖周辺でしか採れないアンダリマンと呼ばれる胡椒である。アンダリマンは柑橘や山椒のような独特な香りに加え、強い辛味を持つ香辛料で、生のアンダリマンを前にすると目に染みるほどである。トバ族にとっては様々な料理に使用される、ふるさとの味でもある。

サモシル島の稲作風景

トバ地方特産の香辛料アンダリマン

20世紀初頭頃からバタック民族も「ムランタウ」と呼ばれる、生業を求めて故郷を離れる人々が徐々に増加する。当時のオランダ植民地政府が植民地下の住民の行動制限を緩和したことや貨幣経済の浸透で現金収入が必要となった時期と重なる。西スマトラ州のミナンカバウ民族が「ムランタウ」を始めるのとほぼ同時期だが、バタック民族の特徴は、主にジャカルタ首都圏を目指すことを意味しているという。最もビジネスチャンスがあるとみなされているためだ。

現代バタック民族の特徴として、親は教育熱心で、親の言うことは絶対であるため子供は勤勉だと言われている。高学歴を目指すことから弁護士になる者も多い。これはバタック民族が曖昧さを好まず、はっきりとした物言いをする性格に適合しているためとよく言われるが、それ以上の要因として、ジャカルタなどイスラムが圧倒的多数の社会では少数派のキリスト教徒は企業内での出世などに限界があるのが現実であるため、個人事業主として高収入を望める弁護士などを目指す者が多いのが実情のようである。

一方で、バスやタクシーなどの運転手にもバタック民族が多いのも特徴だ。これは大学に進学できなかった者が上記と同じ理由で一般企業ではなく運転手を選択しているという。このほか、勤勉さを反映して試験を伴う国家公務員も多く、特に財務省国税総局の税務調査の監査人にバタック民族が多いという。バタック民族の計算が得意で金銭感覚に優れた特性が活かされている。

(以下に続く)

  • ジャカルタのバタック・クリスマスナイト
  • 現代のバタック家族
  • トバ・バタック民族の新年「一年の計は元旦にあり」
  • 再びミーゴマック屋台にて
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