よりどりインドネシア

2023年01月08日号 vol.133

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第55信:エルネスト・プラカサ監督論 ~コミュニケーションのすれ違いから生まれる笑いと涙~(轟英明)

2023年01月08日 12:03 by Matsui-Glocal
2023年01月08日 12:03 by Matsui-Glocal

横山裕一様

新年あけましておめでとうございます。本年2023年もよろしくお願いします。

前回第54信では、ジョグジャ・ネットパック・アジア映画祭で横山さんが鑑賞された『旋律のリアカー』の紹介をしていただき、ありがとうございました。同映画祭はインドネシアで継続開催されている著名な国際映画祭としてはおそらく唯一のイベントで、随分昔から気になっていたのですが、私はまだ一度も参加したことがありません。ちょうど私の長女がジョグジャカルタの大学に通っているので、『旋律のリアカー』(Roda-Roda Nada)を見る機会があったか訊いてみましたが、彼女が観たのは日本でも非常に人気の高い香港のウォン・カーワイ監督による1994年の作品『恋する惑星』(原題『重慶森林』)だけでした。30年近い前の、香港映画がまだ熱気を帯びていた時代の作品を彼女はかなり気に入っていました。一応『旋律のリアカー』の予告編を紹介しましたが、少しは気に留めてくれたようで、独立系の映画も頻繁に観られる環境にあるジョグジャなら今後別の機会に見てくれそうです。ともあれ、いつか機会があれば『旋律のリアカー』本編を私も是非観たいですね。

今回、後半で取り上げる『不完全な私:キャリア、愛情そして体重計』(Imperfect: Karier, Cinta & Timbangan)のポスター。エルネスト・プラカサ監督作品としては『となりの家をチェックしろ』と並ぶ完成度の高さ。filmindonesia.or.idより引用。

さて、今回は第53信の続きで、華人コメディアンであるエルネスト・プラカサの監督作品を中心に論じます。論旨を展開していくなかで、前回第54信における横山さんの『となりの店をチェックしろ』(Cek Toko Sebelah、以下『となり』)と『ゾクゾクするけどいい気分』(Ngeri-Ngeri Sedap、以下『ゾクゾク』)、2作品へのコメントを返していくつもりです。まずは彼の経歴をざっと振り返ってみましょう。

エルネスト・プラカサは1982年ジャカルタ生まれの華人です。スハルト政権全盛から崩壊、さらに改革時代が始まる時期はちょうど彼の幼少から思春期と重なり、自作内で直接の政治的な言及こそ少ないものの、その時期の個人的体験が彼の人格形成とネタの源流になったことは、長編監督第一作『残念至極』(Ngenest)ほかに描かれているとおりです。

2001年にラジオ番組のDJから芸能界に接近したエルネストは、2011年に始まり、現在も続いているコンパスTVの人気番組『スタンダップ・コメディ・インドネシア』で3位に入賞します。その後は、単独でのコメディ・ツアーで各都市を周って成功をおさめ、2013年からは映画にも脇役や助演として出演するようになります。そして2015年の年末に公開された先述の『残念至極』で監督デビューを果たします。大ヒットの目安と言われる観客動員100万人には及ばなかったものの、78万人を超える興行成績を記録し、批評家筋からも好評、監督デビュー作としては上々の成功を成し遂げます。

『残念至極』ポスター。インドネシアでは動画配信サービスVidioで配信中。filmindonesia.or.idより引用。

『残念至極』は副題が「時には人生を笑い飛ばす必要がある」とあるように、ジャンルとしてはライトコメディに分類できますが、華人を主人公にした「華人もの」でもあり、主人公が自己同一性に悩む視点からは「アイデンティティもの」でもあります。

なお、インドネシア映画史において華人ものがいつから制作されたのか、その作品を定めることは実はかなりの難問です。戦前の黎明期から華僑や華人は技術・人材・資本・配給・興行とあらゆる面で映画産業に深く関わってきましたが、『白蛇伝』や『梁山伯と祝英台』など中国大陸の伝統的な物語をそのまま映画化した作品や、当時は蘭領東インドと呼ばれたインドネシアの現実社会からは著しく遊離した娯楽作が多かったためです。一応、上海からインドネシアに渡ったネルソン・ウォンはじめウォン兄弟による1928年の無声映画『ジャワの百合』(Lily van Java)をその嚆矢とすることは可能かもしれませんが、フィルム現物が残っておらず、内容の確認に限界があるため、華人ものの起源確定は永遠の課題と言えそうです。

ともあれ、表現の自由が拡大したスハルト政権期崩壊後にジャンルとしての「華人もの」が定着したのは確かでしょう。これまでの連載で言及したことのある『娼館』(Ca-Bau-Kan)、『写真』(The Photograph)、『ギー』(Gie)、『スシ・スサンティ ラブオール』(Susi Susanti : Love All)、『牌九』(Pai Kau)、『アホックと呼ばれる男』(A Man Called Ahok)などが該当します。これ以外にも華人を主人公とした作品はあるものの、コメディタッチの作品はエルネストの『残念至極』が公開されるまでは、ほぼなかったのではないかと思われます。

これはインドネシアの華僑・華人が経験してきたマイノリティとしての悲哀と差別を映画でちゃんと描こうとすれば、どうしてもシリアスにならざるを得ない、ある種の社会的制約や暗黙の了解があったためでしょう。実際に1998年5月暴動で深刻な被害を受けたジャカルタ在住華人、とりわけ女性たちに対する性的暴行や殺人を想起するならば、コミカルな華人ものというのは、その記憶が生々しい時期には制作側も観客側も二の足を踏まざるを得なかったと推測されます。

たとえば、スラバヤ出身の華人であるエドウィン監督の長編第一作『空を飛びたい盲目のブタ』(Babi Buta Yang Ingin Terbang)は完全なインディペンデント映画として企画制作されたため、撮影終了までに何年もかかり2008年にようやく完成公開されていますが、インドネシア華人に対する差別が鮮烈なイメージで脈絡なく続いていく非常にアイロニーな作品でした。端的に言って、予備知識なしで見始めた観客を思わず引かせてしまうほどのイメージの連鎖であり、劇場公開したら間違いなくセンセーショナルを巻き起こすこと必至の問題作です。なにしろ、スティービー・ワンダーの名曲“I Just Called to Say I love You”を暴動で焼かれる華人商店の映像に掛け合わせるという過激さで、インドネシア映画では稀に見る異化効果を十二分に発揮しているのですから。

よって、本作に対する観客の評価が極端に割れたというのももっともですが、今やインドネシアを代表する映画監督として国際的にも認知されつつあるエドウィン監督にとっては、自らのアイデンティティを問う作品を長編第一作として監督する行為は通過儀礼の一種としてもおそらく避けて通れなかったのでしょう。ただ、エドウィン監督作品は稿を改めて、十分な分量をもって論じたいと思わせる作品ばかりなので、今はエルネスト作品へ戻りましょう。

『空を飛びたい盲目のブタ』(Babi Buta Yang Ingin Terbang)ポスター。異才エドウィン監督の記念すべき長編第一作。少々劇薬で観客を選びます。目下動画配信サービスでは観られません。filmindonesia.or.idより引用。

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2010年代に入ってエルネストが本格的に芸能界で活躍し始め人気を得るようになった背景には、改革時代の初期よりも政治と社会の安定度が増し、華人もインドネシア国民であるという国民的合意が得られるようになった面が大きいと思われます。1998年5月暴動の集合的記憶が薄れているという別の問題は無視できませんが、華人自身による自虐的なコメディを受容できる社会環境が整いつつあったのでしょう。

とは言え、実のところ私自身は『残念至極』をコメディとして高く評価しているかと言えば微妙なのです。エルネスト自身の体験を基にした自己言及的華人コメディが劇場公開されてまずまずの成功を収めたことの社会的かつ映画史的意義に全く異論はないものの、では純粋なコメディとして面白いかどうかと自分自身に正直に問うてみると、うーん、と言わざるを得ません。

『残念至極』の原題Ngenest はジャワ語のNgenes(とても悲しい)とエルネストの呼び名Nestをひっかけ合わせた造語らしく、「エルネストのようにする」という意味もおそらくは含まれています。この場合の「エルネストのように」というのは、副題の「時には人生を笑い飛ばす必要がある」を含むのでしょう。言い換えるなら「時には自虐ネタが必要」といったところでしょうか。

この二重の意味をもつタイトルが示すように、本作は、華人差別をテーマとしながらも、それを乗り越えるためには華人ではない原住民(プリブミ)と何が何でも結婚して負の連鎖を乗り越えなくてはいけない!と過剰に思い込むエルネストの奮闘と神経衰弱ぶりを、過剰にシリアスにはならないトーンで、始終軽やかに描いています。マイノリティゆえの差別とそこから生じるコンプレックス、さらには神経質な様子を戯画的に描いているという点では、アメリカ映画の巨匠ウディ・アレンに似ていると言えなくもありません。アレンのとりわけ初期作品ではニューヨーク在住ユダヤ系としての自虐ネタが持ち味だったからです。

ただ、果たして外国人の私がこうした非常に敏感な「差別」というテーマを笑い飛ばしていいのかなあという、なんとも言い難い居心地の悪さを『残念至極』を観ている間に感じてしまうことも否定できません。一応笑えるのですが、やや引きつった表情の笑いとでも言うのでしょうか。

「吊り目」「チナ野郎」と呼ばれて小学校の時から同級生にいじめられてきたエルネストが、自分の子供にはこんな想いはさせたくないと一念発起(?)して、プリブミ女性との結婚を理想とし、それを成し遂げるも、今度は生まれてくる自分の子供が自分に似て吊り目だったらどうしようと悩みに悩んで葛藤する心境は、理解できなくもありません。しかし、スハルト政権下で差別的ニュアンスを色濃く帯びて使用された「チナ」や「プリブミ」という言葉が、現在のジョコウィ政権下では公式文書において使用されなくなった事実が象徴するように、インドネシア社会が成熟しつつある状況では、ややもするとエルネストの自意識過剰ぶりは極端すぎる印象が拭えず、なにかしっくりこない感じが残ります。

『残念至極』の主演ララ・カルメラとエルネスト・プラカサ。filmindonesia.or.idより引用。

『残念至極』の劇場公開時に私は同作に全く注目しておらず、彼の監督作として初めて観たのは『となり』のほうが先なのですが、仮に『残念至極』を先に観ていたとしても、それほど感心はしなかった可能性が高いです。監督2作目がもし『残念至極』同様の自虐ネタ中心のコメディだったとしたら、おそらくずっと彼の作品自体をスルーしていたかもしれません。

しかし、『となり』は、前回第53信で見どころを具体的に挙げて論じたように、決して華人の自虐ネタだけに終わる作品ではありません。むしろ極私的でローカルな自虐ネタの世界を突き破り、多種多様な階層・宗教・種族から構成されるジャカルタ都市住民の様々な貌をコメディというスタイルで見せることに成功し、前作以上のより広範な観客にアピールしうる普遍性を備えた傑作となりました。

ところで、横山さんは『となり』の脇役陣によるギャグを「ゆるい」「滑っている」と評されていますが、これは私がすでに言及したように、エルネストだけでなく複数の脇役もスタンダップ・コメディ界の出身であることと無関係ではないでしょう。誇張された行為、バカバカしい道化、アクションによるドタバタ、徹底的なナンセンスなどなど、ギャグには様々な様式がありますが、エルネストが得意とするのは話芸としてのスタンダップ・コメディであり、「ゆるい」「滑っている」との評価はやや一面的で焦点がずれているように思えます。

それらの小ネタを我々外国人観客が完全には理解できないのは、ひとつには言語の壁、あるいは登場人物同士の関係性や社会的背景を十分に読み取れない面があるからでしょう。日本語字幕があったとしても、それはあくまで翻訳であって、社会的文化的背景までを説明してくれるわけではありません。実際のところ、私自身が『となり』の小ネタ全てとその背景を十全に理解できているかといえばかなり怪しいものです。いわゆるハイコンテクストなコメディと言えるのかもしれません。

にもかかわらず、『となり』を華人コメディの傑作と私が断言したのは、前回挙げた三つの見どころ以外にもうひとつ大きな理由があるためです。それは『となり』のギャグがいずれも意思疎通の不全やコミュニケーションギャップをネタにしており、つまるところ現代インドネシアの都市生活を的確に捉えており、しかも明るく前向きにそれらを描いて観客に多幸感を与えることにも成功しているからにほかなりません。この点は自己言及しまくりだった『残念至極』とは大きな違いで、他者という観客により広く開かれているのがどちらかは言うまでもないでしょう。

『となり』は主人公一家の家業継承問題が本筋ですが、主人公たちの葛藤と悩みの原因は互いの意思疎通がうまくいかないためです。親子間、兄弟間、恋人間、いずれにとっても実はかなりシリアスで敏感な話題を含んでいます。それぞれにとっては人生の一大事と言ってもいいでしょう。

一方で脇役たちが織りなす小ネタのギャグは、私が前回長々と紹介した「トマトは野菜か果物か論争」が典型的なように、取るに足らない、実に些細なことばかりです。人生の一大事どころか、本当にどうでもいいような事柄ばかりです。しかし、互いの意思疎通のズレに起因する感情という意味では、本筋とそれほど大きな違いはない、そんな風に映画作家エルネストは考えたのではないでしょうか。ややシリアスな本筋もコミカルな小ネタの数々を含む脇道も少し距離を取って見れば、ただのコミュニケーション障害にすぎないのではないか。

「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」との名言を残したのは喜劇王チャップリンですが、これを悲劇とまではいかないにせよ、シリアスとコメディの対比として見せたのが『となり』後半の病院での兄弟間のやりとりです。

父コー・アフックが倒れた直後に、兄ヨハンと弟エルウィンは病室で殴り合いの喧嘩を始めそうになるほど険悪な状態となりますが、医師が間に入ってとりなしたことで双方頭を冷やし仲直りしようとします。しかし、二人の間には医師に命じられた守衛が文字通り物理的に入り、なぜか伝言ゲームのように意思疎通を図ることになります。この場面はコント的な単純な仕掛けなのですが、シリアスな話題がコメディに転化してしまう様子が何とも可笑しく、しまいには守衛が「ああ、面倒くさい!あんたら直接自分たちで話し合え!」とその場を去ってしまうオチで締めくくられます。

シリアスもコメディも紙一重、結局はコミュニケーション障害が起きていることが原因なのだ。こうした監督自身の達観が『となり』を凡百のコメディよりもより上質の優れた作品に押し上げていると私は考えますが、如何でしょうか。

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さて、『となり』の大成功によってエルネストはコロナ禍の2020年を除き、その後1年に1作のペースで監督作品を着実に発表するようになります。2017年の『電波が届かない』(Susah Sinyal)、2018年の『ミリーとマメット:チンタとランガじゃないよ』(Milly & Mamet: Ini Bukan Cinta & Rangga)、2019年の『不完全な私:キャリア、愛情そして体重計』(Imperfect: Karier, Cinta & Timbangan)、2021年の『ティカのパズル』(Teka-teki Tika)、そして2022年12月下旬からの公開が現在も続いている『となりの店をチェックしろ2』(Cek Toko Sebelah 2)です。

『ティカのパズル』のみジャンルとしてはミステリードラマに分類されますが、それ以外はいずれもコメディであり、しかもドタバタが基調ではない、コミュニケーションのズレが巻き起こす笑いと涙のシチュエーション・コメディという大枠は『となり』1作目から大きく変わっていません。いずれもアベレージ以上の出来と私は評価しています。

ただ、作品の完成度にばらつきはあります。例えば『電波が届かない』はシングルマザーの弁護士が一人娘との関係に悩み、スンバ島での休暇で娘との距離を縮めようとするも大事な約束を破ったために信頼を失い、仕事でもトラブル発生、さあどうする?!という話です。ジャカルタ中上流家庭の親子間コミュニケーションギャップをSNSネタとからめて描いているのですが、舞台となるスンバ島とその住民の描写がややおざなりな印象が強く、少々残念です。都市住民視点の観光ものとしての限界とも言えるでしょう。

『電波が届かない』(Susah Sinyal)ポスター。インドネシアでは動画配信サービスVidioで配信中。filmindonesia.or.idより引用。

『ミリーとマメット』は日本でも公開された『ビューティフル・デイズ』(Ada Apa Dengan Cinta?)のスピンオフ作品で、脇役二人が結婚して育児とキャリアの両立に悩むという話です。ここでも夫婦間のすれ違いが本筋としてあり、近年都市部で急成長している外食産業の細部と夫婦関係を並行して見せる面白さはあるものの、『となり』ほどには多種多様なキャラクターが活躍しないので、若干の物足りさを感じてしまいます。

『ミリーとマメット:チンタとランガじゃないよ』(Milly & Mamet: Ini Bukan Cinta & Rangga)ポスター。インドネシアでは動画配信サービスVidioで配信中。filmindonesia.or.idより引用。

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『となり』2作目を私は未見のため、目下のところエルネスト監督作のなかで『となり』に匹敵する完成度ということでは、『不完全な私:キャリア、愛情そして体重計』(以下『不完全』)で決まりです。古くて新しいルッキズム(容姿差別)という問題に、ジャカルタ階層社会の様相を巧みに組み合わせた会心作と言えます。

(⇒ 主人公ララは元モデルの母親と・・・)

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