よりどりインドネシア

2023年01月08日号 vol.133

詩から生まれて詩に還る物語(太田りべか)

2023年01月08日 12:02 by Matsui-Glocal
2023年01月08日 12:02 by Matsui-Glocal

ジョコ・ピヌルボ(Joko Pinurbo)、通称ジョッピン(Jokpin)は、現代のインドネシアの代表的詩人のひとりだ。1999年の処女詩集『ズボン』(Celana)から2022年5月の60歳の誕生日に合わせて出版された最新詩集『エピグラム60』(Epigram 60)まで、個人詩集は20冊に及ぶ。巧みな言葉遊びと軽妙なユーモアと皮肉の入り混じる作風は、若い世代の読者の間でも人気が高い。

そんなジョッピンが発表したはじめての小説が『スリムナンティ』(Srimenanti)である。この小説を読んだとき、なんとなくリチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』を思い出した。どこがどう似ているというのでもないのだけれど、どちらもどこか共通した「臭い」を持つ、ちょっと不思議な小説なのだ。

たとえば、語り手のひとりである詩人「わたし」が、ずっと憧れていた詩人サパルディを思い切って誕生日に訪れる場面。「わたし」は、緑色の瓶に雨と夕暮れを詰めてサパルディに贈る。サパルディは嬉しそうに瓶の中の雨の音に耳を傾け、やがて立ち上がる。

……瓶の中の雨と夕暮れを振り混ぜる。ふいに瓶の栓がはずれて茜色の水が溢れ出し、空中に高く噴き上がる。わたしがまだ呆然と見上げているうちに、茜色の噴水が突然消えた。サパルディがわたしの背を叩く。「ほら!」と声を上げて池を指す。

池の上に茜色の花が一輪開いている。月の光が池を満たし、茜色の花はいっそう燃え立つように見える。

また、もうひとりの語り手である画家スリムナンティが、少女だったころのある朝の場面。小雨の中を歩いていると、空から父親のものとおぼしき声がして、次の瞬間に目の前に青空が一枚舞い落ちてくる。スリムナンティはそれを拾って折り畳み、持ち帰って部屋の天井に広げる。

そんな描写を読んでいると、なぜか『アメリカの鱒釣り』のこんな言葉を思い出す。

アメリカの鱒釣りならどんなにすてきなペン先になることだろう。きっと、紙の上には、川岸の冷たい緑色の樹木、野生の花々、そして黒ずんだひれがみずみずしい筆跡を残すことだろうな……。

(リチャード・ブローティガン/藤本和子訳『アメリカの鱒釣り』より)

『スリムナンティ』も『アメリカの鱒釣り』も小説というより詩に近いので、頭の中のどこかで勝手に結びついてしまうのかもしれない。翻訳家・文芸評論家の鴻巣友季子氏によると、近年の英米の出版界では「ヴァースノベル(詩小説)と呼ばれる表現スタイルがひとつの分野を形づくっている」らしい。ヴァースノベルとは、「詩、または散文詩のような形で書かれた小説のことだ」という。1967年に出版された『アメリカの鱒釣り』は、この「ヴァースノベル」の走りと言ってよさそうだし、ジョッピンの『スリムナンティ』もやはりその範疇に入る作品だろう。実際、この小説の下敷きになっているのは、たくさんの詩たちなのだ。

Srimenanti

●詩から短編へ、そして中編小説へ

『スリムナンティ』の冒頭部のもとになったのは、散文詩「ズボンなしの男」(Laki-laki Tanpa Celana)で、この詩は後に短編小説に書き直されて『コンパス』紙に掲載された。それを膨らませてでき上がったのが、この中編小説『スリムナンティ』だ。この詩から短編へ、そして中編小説『スリムナンティ』への書き変えを追ってみるとなかなかおもしろい。

散文詩と短編「ズボンなしの男」も小説『スリムナンティ』も、サパルディ・ジョコ・ダモノ(Sapardi Djoko Damono)の詩「ある日の朝」から始まる。この詩が『スリムナンティ』全編に通底するイメージにもなっている。

だからある日の朝どうしても泣きたかった

うつむいてあの路地を通り抜けながら。その朝

雨が静かに降って路地がひっそりしていてほしい

泣きながらひとりで歩いていけて だれにも

どうしたのと訊かれないように

(サパルディ・ジョコ・ダモノ「ある日の朝」より)

ある雨の朝、「わたし」は路地で若い女とすれ違う。身なりも構わず雨の中を歩いていく女のうつむいた顔つきがあまりに暗くて、「わたし」は声をかけることもできなかったけれど、その女をどこかで見たことがあるような気がした。女は角を曲がって姿を消す。散文詩と『スリムナンティ』では、そこですぐ次の場面に移るが、短編小説の中では、「わたし」は女がサパルディの詩「六月の雨」を口ずさむ声を聞く。

その夜、「わたし」は長く雨に打たれたせいで熱を出し、熱さましの薬を飲む代わりにお気に入りの詩を読むことにした。そしてサパルディの「ある日の朝」に行き当たり、今朝すれ違ったあの女はその詩から出てきたのだと直観する。

散文詩・短編「ズボンなしの男」でも小説『スリムナンティ』でも、この路地の女がもうひとりの語り手として登場する。散文詩と短編では女は小説家で名前はないが、小説ではスリムナンティという名の画家だ。この女は、川の近くの古い家を借りることになった。お化けが出るらしく、それまで長く居ついた住人はいないといういわく付きの家だ。噂によると、その家にはズボンを履いていない男の姿のジンまたは亡霊が棲むという。

散文詩では、そのズボンなしの男に出くわしたら、即座に裸になって「こんばんは」と言うといいらしい。そうすれば男は「ありがとう、お嬢さん」と言ってすぐに消えるという。短編では、即座に詩を朗唱するといいらしい。『スリムナンティ』では、お辞儀をしてサパルディの詩の一節「刹那なるは時、われらは永遠」を唱えるといいという。どれもある詩人の助言によるものだ。

ズボンなしの男(『スリムナンティ』では、「エルテーチェー:eltece: LTC: Laki-laki Tanpa Celana」と呼ばれる)は、性器の先に固まった血がこびりついていて、その顔は女の父親を思い起こさせた。女がまだ子どもだったころのある日、父親はふいに現れた強面の男たちに連れて行かれて二度と戻ってこなかった。散文詩と短編では、父親は勇敢な詩人だった(作品はたいしたものではなかったらしい)。『スリムナンティ』では、父親は役者だったのか、劇場から帰ってきたところを男たちに捕まっている。

「わたし」は紆余曲折を経てその路地の女と再会するのだが、散文詩と短編では、その結果「わたし」は、サパルディの詩さながらに泣きたくてたまらない思いを抱えて、その夜小雨が降って路地がひっそりしているといいと思いながら歩いていくことになる。一方『スリムナンティ』では、「わたし」とスリムナンティは共通の友人が何人もいたこともあって、それほど深い仲にはならないものの、なんとなくどこかで信頼し合う関係になっていく。

読んでいるときの印象では、散文詩と短編「ズボンなしの男」と中編小説『スリムナンティ』のうち、『スリムナンティ』が一番詩的に感じられた。なにを詩というのか、どんなものを詩的とするのかは、読者ひとりひとりのとても個人的な基準によるものだと思う。だからこれはあくまでも私の個人的印象に過ぎないけれど。散文詩「ズボンなしの男」が発表されたのが2002年、同題の短編小説が2013年、そして中編小説『スリムナンティ』の出版が2019年であることを思うと、作者の詩人・作家としての熟成度も、そういう印象を生み出す一因となっているかもしれない。また、亡霊「エルテーチェー」に象徴されるオルデ・バル時代から引きずるトラウマがこの作品のテーマの一角をなしているのだが、『スリムナンティ』が書かれた2010年代後半には、オルデ・バル時代が時間的に少し遠くなったこともあって、そのトラウマを以前より俯瞰的に見つめることができるようになった結果でもあるのかもしれない。

ともあれ『スリムナンティ』は、トラウマや悲しみや焦燥や無力感なんかが描かれていても、どこか軽やかでいながら心が鎮まるような読後感を残す。読んで気持ちのよいこの作品は、サパルディ・ジョコ・ダモノとその数々の詩に捧げられたオマージュであり(この小説が出版された翌年にサパルディ氏は80歳で亡くなっている)、サパルディの詩に加えてジョッピン自身や他の詩人たちの詩がそこここに息づく「ヴァースノベル」だ。詩から生まれて、小説という形に変化を遂げ、詩に還っていった物語といってもいい。

ところで、「ズボンなしの男」だけでなく、冒頭近くに引用した雨と夕暮れの瓶詰めのくだりは、ジョッピンの別の短編「サパルディに一瓶の雨を」(Sebotol Hujan untuk Sapardi)がもとになっている。全部は調べていないけれど、他にもいくつかの自作の短編が『スリムナンティ』の中に取り込まれているかもしれない。

(以下に続く)

  • 愛嬌ある人々
  • 頭の中でさえずる青い鳥
  • 詩の磁場
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