よりどりインドネシア

2022年12月24日号 vol.132

ウォノソボライフ(58):タン・ジンシン ~ジャワ人と華人を行き来した生涯~(神道有子)

2022年12月26日 11:25 by Matsui-Glocal
2022年12月26日 11:25 by Matsui-Glocal

これまで、ウォノソボ出身の人物について何度か取り上げてきました。ミネラルウォーターブランドAQUAの創設者であるティルト・ウトモ、1965年の一大クーデター9月30日事件で犠牲になった陸軍将校S・パルマン。彼らはウォノソボに生まれ育ち、長じてからは主に勉学のために環境の整った都市部へと活躍の場を移し、そしてそこから台頭していった、という共通点があります。

そのようにして、各地へ散って活躍したウォノソボ出身の人物は、果たしてどれくらいいるのでしょうか。ウォノソボから出た者の、ゆかりのある人物についての興味は尽きません。

今回ご紹介するタン・ジンシン(Tan Jin Sing)も、そうした人物の一人です。最終的にジョグジャカルタの知事となったのですが、ジャワ、華人、英国、そしてオランダといった複数の民族や文化を渡り歩く、彩り豊かな人生を送りました。その軌跡と時代背景を追っていきます。

(編集者注:読者の指摘に基づき、本稿の筆者とここに掲載されていた引用元の写真を吟味した結果、読者の指摘どおり、タン・シンジン本人でないことが判明しましたので、削除いたしました。お詫びして訂正いたします)

●ジャワ下級貴族に生まれたものの・・・?

タン・ジンシンという中華風の名前から、華人であると思われがちですが、実はジャワ人の両親のもとに生まれています。

1760年、正確な日付はわかりませんが、タン・ジンシンは、ウォノソボはモジョトゥンガ郡にあるカリベベル地区で誕生しました。父はカリベベル村の村長でしたが、タン・ジンシンが生まれる6ヵ月前に亡くなっています。待望の男児誕生ではあったものの、決して手放しで喜べる状況にはありませんでした。大黒柱がいなくなっていたことに加え、父が長く病に臥せっていたため、闘病に使った借金がかさんでいたのです。また、母も身重の体でそんな夫の世話をし続けたことでかなり衰弱していました。出産を終えた後には体調を崩し、とても育児をできる状態にはなかったということです。

母であるラデン・アユ・パトラウィジャヤ(Raden Ayu Patrawijaya)は、マタラム王家の血をひく下級貴族でしたが、生家を頼ることはもはや叶いません。そこで赤子は夫の旧友であった華人のウイ・テ・リオン(Oei Tek Liong)に引き取られることになりました。ウイは赤子をスマランにある儒教寺院に連れて行きます。そこにいた占い師に赤子の手相を見てもらうと、こう告げられました。

「この子は賢く偉い人物になるだろう。しかし、養父であるウイの姓を使えば赤子と一家の運命は不幸に見舞われる。この近くに、約1ヵ月前に男児が生まれたタン夫妻がいる。赤子を一度彼らの子にして育ててもらいなさい。7ヵ月になったら、あなたの養子として連れ帰るといい」

こうして、養子のさらに養子に出された赤子には、タン・ジンシンという中国名が付けられました。ウイはタン夫妻に充分な養育費を与えます。

ウイは結婚して10年になりますが、未だ子宝には恵まれませんでした。妻に養子を取ることを話すと、大変喜んだとのことです。

7ヵ月になったタン・ジンシンをウイ夫妻は自宅に迎え、盛大な祝賀会を催しました。ようやく幸せな家庭に収まったかに見えたタン・ジンシンですが、2歳になる頃、ウイ夫人が病死してしまいます。大変なショックを受けたウイはタン・ジンシンの実母を呼び寄せます。タン・ジンシンの世話をさせる目的でしたが、共に暮らすうちに再婚の流れとなりました。こうして、タン・ジンシンは実母からジャワ語やジャワの伝統文化を、ウイの用意した家庭教師から中国語や中国文化を学ぶという生活を送るようになったのです。

しかし、それも長くは続きませんでした。タン・ジンシンが11歳になる頃、実母も病死してしまいます。2度も妻となった人を失ったウイは、悲しみから逃れるようにマグランへと引越しました。2年後、華人女性と再々婚します。これが地元の名士たちと繋がりのある顔の広い女性で、タン・ジンシンのために優秀な家庭教師をたくさん付けてくれました。おかげで、彼が17歳になる頃には、ジャワ語や中国語に加えてオランダ語と英語にも堪能な青年となりました。この能力を活かし、ウイの商売を手伝うようになります。

ところで、ウイはクドゥ地方(Karesidenan Kedu: 植民地時代の行政区分で、現在のマグラン県、トゥマングン県、クブメン県、プルウォルジョ県、ウォノソボ県がこれに含まれた)のカピテン・チナ(Kapiten Cina)でした。

カピテンとは?

オランダはジャワ島で支配を広げていくとともに、各エスニックグループで代表を選出し、その人物を通して統治していく方法を採りました。華人の場合も、選ばれたリーダーによって人頭税を徴収させていたのです。それがカピテン、またはカピタンと呼ばれる役職でした。元々はポルトガル語で船団長を意味するCapitaoからきています。

また、カピテンは華人コミュニティ内では、華人たちの出生届、婚姻届、離婚届、死亡届、土地の権利書や遺産相続などを管理する立場にありました。この徴税や人頭管理の役割は後に拡大され、オランダと華人の繋がりを強めていくこととなります。

ウイの兄弟もジョグジャカルタのカピテンであったり、スマランの知事であったりと、同様の役職にありました。

タン・ジンシンは25歳で上述のジョグジャカルタのカピテンの娘と結婚すると、5年後にウイが亡くなったのを受けて、1793年、養父の後を継いでクドゥ地方のカピテン・チナとなりました。タン・ジンシン33歳のときでした。さらには、義父が病がちになると、1802年、義父のビジネスとジョグジャカルタのカピテンの役割も継ぐことになります。ここでジョグジャカルタへ移住し、クドゥ地方をあとにするのでした。

●ジョグジャカルタ王家と英国政府

ジョグジャカルタに移ったタン・ジンシンは、親戚を通してジョグジャカルタ王宮の人々と少しずつ親交を深めていきます。その頃の王家は、少しゴタゴタしていました。

当時の王ハメンクブウォノ二世は大変感情的な人物だったとされ、実の弟や子供たちとの確執を生んでいました。さらにソロ王家とも仲が悪く、ピリピリしていたようです。

ほぼ時を同じくして、オランダ植民地政府にとある危機が訪れます。欧州で起きたナポレオン戦争を契機に、1811年、ジャワ島に英国軍が侵攻、オランダは撤退を余儀なくされたのでした。

ハメンクブウォノ二世は前年の1810年にオランダのゴリ押しによって王位を息子のスロジョ王子(ハメンクブウォノ三世)に譲っていました。しかしオランダがいなくなると、ハメンクブウォノ二世は王位の返還を迫り、さらには親オランダ派だった重臣を不当に処刑してしまいます。それどころか、実の息子であるスロジョ王子に対する殺意さえほのめかすようになりました。こうした暴挙に反感を覚え、スロジョ王子にシンパシーを感じた一人がタン・ジンシンです。

1811年11月、オランダ人官吏に代わり、英国人のクロウフォードがジョグジャカルタのレジデント(Karesidenanを治める役職)になりました。彼は地域の有力な華人としてタン・ジンシンを招き、様々な話をしました。また、スロジョ王子も、母親に勧められてタン・ジンシンを呼び、身の上相談をするようになります。このあたりから、タン・ジンシンは、英国政府とジョグジャカルタ王宮の協力者という形になっていくのでした。

クロウフォードは、王宮内の事情を聞くために、度々タン・ジンシンと会うようになります。そして、クロウフォードの上司であるジャワ副総督のラッフルズともタン・ジンシンは交流を持つようになりました。タン・ジンシンはラッフルズを、これまでの西洋人とは違い、人民に目を向ける人だと評しています。ラッフルズも彼を大変信頼し、その後に起こる政変にも助力を乞うことになるのです。

スロジョ王子から勝手に王位を奪ったハメンクブウォノ二世に対し、英国政府は何度かクレームを入れました。しかし、ハメンクブウォノ二世はこの要求を常に拒否します。王家のことに外国が口出し無用、というわけです。ラッフルズが直接王宮へ出向いてもその対応は変わりません。いよいよスロジョ王子の身の上が危うくなってきました。

王宮内で親英国なのは、スロジョ王子、それにスロジョ王子の息子で父をサポートしていたディポヌゴロ王子、そして自身が王位に就きたいと願っているハメンクブウォノ二世の弟ノトクスモです。また、王家ではないものの度々王宮に出入りしているタン・ジンシン。ラッフルズは、彼らに護衛をつけることを勧めました。親英国であることがバレてしまったからです。

一方、ハメンクブウォノ二世もキナ臭さを感じ、こっそりとソロの王家であるパクブウォノ四世へ連絡を取ります。いざとなったら、ジョグジャカルタ王家に対し軍事協力をしてくれるように要請したのです。

ソロでは軍事訓練が活発になり、この動きはラッフルズも把握していました。ソロ王家とジョグジャカルタ王家が何やら不穏なことをしていたため、スロジョ王子側も警戒度を上げざるを得ません。タン・ジンシン自身も数人の護衛を付けて日々を過ごしますが、武器を持った不貞の輩に誘拐されかけるなど、危ない目にも逢いました。

いよいよジョグジャカルタ王家と英国政府の全面衝突までのカウントダウンが始まります。

(以下に続く)

  • 王宮襲撃
  • ボロブドゥール遺跡の発見
  • 英国の引き揚げとともに
  • その足跡は、今
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