よりどりインドネシア

2022年11月23日号 vol.130

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第52信:旧日本軍プロパガンダ映画がインドネシア映画界に及ぼしたもの ~日本ドキュメンタリー映画『いまはむかし』より~(横山裕一)

2022年11月23日 17:25 by Matsui-Glocal
2022年11月23日 17:25 by Matsui-Glocal

轟(とどろき)英明 様

早いもので今年もあと1ヵ月。本稿が発行される11月22日には今年の映画界の総決算でもある2022年インドネシア映画祭の授賞式も予定されています。前稿まで私たちが話題に挙げた『ドキドキするけどいい気分』(Ngeri-Ngeri Sedap)など、どの作品が最優秀作品賞に選出されるか楽しみなところです。

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さて今回は先日ジャカルタの国際交流基金で開かれた上映会での作品、日本人監督によるドキュメンタリー映画『いまはむかし―父・ジャワ・幻のフィルム―』について話したいと思います。

ドキュメンタリー映画『いまはむかし』チラシ(©️いせフィルム)

『いまはむかし』上映会(国際交流基金ジャカルタ日本文化センター)

タイトルにあるように、本作品の伊勢真一監督の父親、伊勢長之助氏はかつて日本軍が東インド(現在のインドネシア)を占領した際、当時の軍政宣伝部の一員として派遣されプロパガンダ映画を制作していて、本作品では息子である同監督が父親の足跡、作品の痕跡を辿るドキュメンタリーです。プロパガンダ映画が及ぼしたもの、さらには現代のインドネシア人に残る戦争の記憶をも掘り起こし、双方の国民にとって心に留めるべき貴重な記録映画でもあります。今回は同作品を通して、日本軍のプロパガンダ映画がその後のインドネシア、そしてインドネシア映画界にどのような影響を与えたかについて考えてみたいと思います。

日本映画社ジャカルタ支社時代の伊勢長之助氏(右側)

ジャカルタで取材中の伊勢真一氏(右端)(いずれも©️いせフィルム)

なおこの作品は2021年作品で、同年9月から東京の映画館などで上映され、現在に至るまで日本各地で自主上映が続いています。今後も日本各地での上映会など轟さんを含め読者の方も鑑賞する機会の可能性が高いのですが、内容について諸々触れざるを得ないことご了承ください。ただ内容を知って鑑賞しても作品の映像を通して訴えられるもの、感じとられる制作意図は変わらず大きいものだと思われます。

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まずは作品の背景となる、当時の日本軍によるプロパガンダ、宣伝・宣撫活動がどのようなものだったかを、慶應義塾大学の倉沢愛子名誉教授による『日本軍政下のジャワにおける映画工作』(東南アジア-歴史と文化-No.18, 1989)などを参考にまとめておきたいと思います。

日本軍は1942年3月、東インドに侵攻して現在のインドネシアの地域をオランダに代わって軍政支配しましたが、その後軍隊を南太平洋へ転戦させています。このため兵力の手薄になった東インドを統治するには占領下の民心を掌握する必要に迫られ、住民に対する宣撫工作、いわゆるプロパガンダの実施が急務でした。占領地における対住民の思想戦略の重要性は1941年に大本営陸軍部の極秘資料『対南方思想戦ノ参考』にもすでに以下のように方針づけられています。

「大東亜新秩序建設の本義からみても、今回の戦争が作戦(展開する)地域の原住民を戦争の対象にしないことは明白である。つまり、今回の戦争における思想戦の価値が重大である理由でもある・・・すなわち対敵宣撫、対占領地宣撫においては、あらゆる手段を尽くして余すところなく民心把握を完璧にし、戦争目的の完遂に寄与すべきである」

このため、東南アジア侵攻においては日本軍内の宣伝部は重要な位置を占めていて、東インドのジャワ島を占領した帝国陸軍第16軍でも宣伝部が住民宣撫のための活動を大々的に展開させました。

その一環は、現在の中央ジャカルタ・メンテン地区にある『45年闘争博物館』(Museum Joeang 45)でも垣間見ることができます。ここは日本軍政期も含めたインドネシア独立までの経緯がまとめられた博物館で、日本軍政期のコーナーには、当時の日本軍政宣伝部による宣撫活動の一環である、住民向けのプロパガンダポスターが保存展示されています。

日本軍によるプロパガンダポスター(45年闘争博物館・中央ジャカルタ)

(上)日本の誇示、(中)日本語奨励、(下)「正義と崇高のために」郷土防衛義勇軍募集

プロパガンダポスターは合計14枚展示され、日本軍の軍功を誇示するもの、日本軍政を正当化するもの、郷土防衛義勇軍(PETA)への参加呼びかけや日本語習得を呼びかけるものなどがあります。さらには質素倹約や貯蓄、健康増進、愛国(ここではインドネシアの地が対象)、勤労など住民の生活態度に踏み込んだプロパガンダも見受けられます。ポスターはインドネシア語、また日本語併記のものもあり、当時かなりの量のポスターが各地に配布、提示されたことが窺われます。

ラジオ放送での日本語講座もあり、まさに「あらゆる手段を尽くして」宣撫活動、プロパガンダ活動が展開されていたことがわかりますが、なかでも最も有効でインパクトのあるメディアとして位置付けられたのが、映像・音声によるプロパガンダ映画だったといえそうです。この背景には当時の住民の多くが文盲だったことも挙げられます。

占領半年後の1942年10月には暫定的処置として「ジャワ映画公社」が設立されてニュース映画の制作が始まり、翌年4月、日本軍政監部宣伝部の監督・指揮の下で「日本映画社ジャカルタ支社」が設立されました(総支社はシンガポール。また同時に映画配給のための「映配」も設立)。日本映画社はオランダの映画会社のスタジオや現像所を摂取してそのまま使用されています。

当時の日本映画社。左端が伊勢長之助氏(©️いせフィルム)

日本映画社ジャカルタ支社では終戦までに短編や制作途中ものを含めて約130本の国策映画、いわゆるプロパガンダ映画を制作しています。映画内容は前述のプロパガンダポスターと連動するように、大東亜共戦争の目的や共栄圏構想の意義、そのための食糧増産の推進や食料の供出、労務者募集、さらにはジャワ防衛のための郷土防衛義勇軍募集などです。その一方で住民の団結や節約と貯蓄などのほか、日本人と原住民の娯楽なども制作されています。『日本軍政期のジャワにおける映画工作』の倉沢氏の見解では、初期は住民に対するイデオロギー教育色が強い内容で、それに伴い労力の協力などを説得するものでしたが、日本軍の戦況悪化に伴い住民に対する忍耐を求めるもの、防衛精神を高めるものなどに変化してきていることが指摘されています。一貫していえることは、住民たちの闘争精神と労働意欲を高めることが目指されていました。

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この日本映画社に派遣された日本人映画関係者の一人がドキュメンタリー映画『いまはむかし』に登場する伊勢長之助監督です。作品内では伊勢長之助監督が制作したプロパガンダ映画も紹介されています。その一つが作品『隣組』で、地区住民が集まって「最敬礼」を日本語の呼びかけとともに練習して隣組の結束を高める様子が、また『東亜のよい子供』では上半身裸の少年たちが銃剣に模した棒を担いで小走りに行進する姿が映し出され、郷土防衛意識の高揚が宣撫されています。このほか、労働意欲を高めるもの、労務者募集、さらにはマラリア防止策などが同監督によって制作されています。

伊勢長之助監督制作の映画『隣組』(左)と『東亜のよい子供』(右)(©️いせフィルム)

これらのプロパガンダ映画は移動映画として、ジャワ島では各地にまで及んで上映が行われたようです。倉沢氏の聞き取り調査によると、多くの住民から軍政期に1回は映画を見たという回答が得られたとのことです。また同時に映画初体験だった人がほとんどだったことが判っています。

(⇒『いまはむかし』ではジャカルタの下町に住む老人たちが・・・)

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