よりどりインドネシア

2022年11月23日号 vol.130

海は語る(太田りべか)

2022年11月23日 17:25 by Matsui-Glocal
2022年11月23日 17:25 by Matsui-Glocal

2022年11月9日にジャカルタ・コンベンション・センターでの国際ブックフェア開会式で、レイラ・S・チュドリ(Leila S. Chudori)の長編小説 Laut Bercerita(『海は語る』)がインドネシア出版社連合(IKAPI)による最高賞「ブック・オブ・ザ・イヤー」に選出された。この小説は2017年に出版されて以来53刷、13万部を売り上げ、2022年8月に発売されたハードカバー版も11月までに1万2千部が売れたベストセラーだ。2020年には東南アジア作家賞を受賞している。また、プリタギタ・アリアヌガラ監督、レザ・ラハディアン主演で短編映画化されている。

『海は語る』は、スハルト政権末期の1997年から1998年にかけて当局の手により拉致された民主活動家たちとその家族や友人たちの物語だ。前回、“消えた詩人”ウィジ・トゥクルの娘フィトリ・ンガンティ・ワニを取り上げたときにも書いたが、「行方不明者と暴行被害者のための委員会」(KontraS)によると、この時期に拉致された活動家は23名、そのうちの1名は死亡が確認され、9名は生還、13名は現在に至るまで消息不明だ。『海は語る』では、この設定はこのままに、架空の人物たちを登場人物として語られていく。

主人公のビル・ラウトが、手足に重しを着けられ、銃殺されて海に沈められる場面から始まるこの小説は、2部構成になっている。第1部は死に至るまで、そしてその後のビル・ラウトの物語がラウト本人の視点から語られる。第2部は、ビル・ラウトの妹アスマラ・ジャティの視点からの物語だ。

Laut Bercerita

●拉致被害者の手記

著者がこの小説を書くきっかけとなったのは、1998年3月に拉致された後、解放されて生還した活動家のひとりネザル・パトリア(Nezar Patria)に、拉致された体験を綴るよう依頼したことだった。このときにネザルが書いた手記は、2008年2月『TEMPO』誌のスハルト特集号に、「オルデ・バルの拷問の殿堂にて」というタイトルで掲載されている。

1996年7月27日、インドネシア民主党(PDI)党首メガワティ・スカルノプトゥリを排除しようとする「メガワティ降ろし」騒動の中で、PDI前党首スルヤディ派とそれを後押しする国軍が党本部を襲撃、それに対抗したPDIのメガワティ擁護派と一般庶民の一部がジャカルタ市中で暴徒化した。治安当局がこのときの暴動を煽ったとして違法団体に指定した組織の中に、インドネシア学生連合(SMID)も含まれていた。SMIDの主な活動家たちは指名逮捕の対象となった。ネザルはSMIDの事務総長だったため、潜伏を余儀なくされた。

1998年1月18日にジャカルタのタナ・ティンギの人民民主党(PRD)の活動家たちが賃借していた民家で爆発事件が起きて以来、陸軍特殊部隊コパススの「薔薇チーム」は、要注意人物として9名の活動家たちをリストアップし、拉致を計画していたといわれている。その9名の中にネザルも含まれていた。

1998年3月13日の夜、ネザルと3名の活動家は、潜伏先の東ジャカルタの集合住宅に突然やってきた屈強な男たちによって連れ去られる。1996年7月以来潜伏先を転々とし、10日前にその家に移ったばかりだった。ネザルの手記には、連れ去られたときから苛烈な拷問を受けた後にジャカルタ首都圏警察署に移され独房に入れられるまでのようすが記されている。

『海を語る』の主人公ビル・ラウトが拉致され拷問を受ける過程は、ネザルの手記に沿ったものだ。2013年に、著者は他の拉致被害者で生還した活動家たちにもインタヴューを行っている。つまり、この小説はフィクションではあるものの、大きな部分が事実に基づいて書かれていると思われる。

●登場人物たちのモデル

『海は語る』の登場人物たちは、拉致被害者の活動家たちから想を得て造られたものだが、特定の個人をモデルとして登場人物のひとりとするという方法ではなく、著者が取材した活動家たちの体験を基にして、完全な架空の人物としてそれぞれの登場人物が造形されている。主人公ビル・ラウトも、ネザル・パトリアをモデルとしているというより、複数の活動家たちの体験を混ぜ合わせた上にフィクションの肉付けをして造り上げられた人物だといえるだろう。

ネザルは拉致されて拘束され、拷問を受けたが、後に解放されて生還し、スハルト政権崩壊後に『TEMPO』誌のジャーナリストとなった。一方、小説の主人公ビル・ラウトは殺害され、ラウトの活動家仲間のひとりナラタマは生還して、後に『ジャカルタ日報』の記者になっている。そのように、それぞれの登場人物が、実際の拉致被害者である活動家たちの体験を分け持っている。

実際には消息不明のままの活動家13名は全員男性だが、この小説ではそのうちのひとりは、ラウトたちの学生組織ウィナトラのリーダーだったキナンティという名の女性という設定になっている。

小説の中の拉致被害者のひとり、ガラ・プラナヤは詩人かつ民主活動家で、ラウトにとってはメンター的存在だった。ガラも消息不明となっている。詩人であり活動家であり、おそらくは拉致されたまま消息不明となった人物といえば、やはり真っ先にウィジ・トゥクルが思い出される。だが、この小説の冒頭に引かれたガラの詩とされるフレーズ「死ね おまえは死ぬのだ/そしておまえは 幾度も幾度も生まれ変わる」は、スタルジ・チャルゾウム・バフリの詩から採った、と、著者が後書きの中に書いている。また、レンドラの詩『一山のとうもろこし』が作中にレンドラの詩として引用されているが、ウィジ・トゥクルの詩は引用されていない。登場人物のモデルを特定することを避けるために、あえてウィジ・トゥクルの詩は使わなかったのかもしれない。それでも主人公の名ビル・ラウト(Biru Laut「海の青」の意)は、どこかウィジ・トゥクルの息子の名ファジャール・メラ(Fajar Merah「赤い夜明け」の意)を思わせる。

●ラウト(海)が語る物語

『海は語る』の冒頭を飾るのは、ガラの詩「死ね おまえは死ぬのだ/そしておまえは 幾度も幾度も生まれ変わる」だ。これは、ラウトの25歳の誕生日に、ガラがしわくちゃの紙に書きつけ、黒い表紙のノートに挟んでくれたものだ。著者が後書きで「この小説の魂となった」と書いているこのフレーズは、この物語全編を通じて響きわたることになる。

それに続くのは、ラウトの死の場面だ。3ヵ月近く目隠しをされて暗闇の中に拘束され、連日のように激しい拷問を受けた後、ラウトは牢から連れ出される。

ここでラウトが回想する詩人ガラとのやり取りの中で、この物語におけるもうひとつのキーワードが提示される。「闇(gelap)」と「暗黒(kelam)」の違いである。ガラによると、人生には光と闇があり、闇は自然の一部だ。一方、暗黒はわれわれが諦めた印であり、生をもう維持していくことができないと感じる苦い瞬間だ。

これは、グナワン・モハマド(Goenawan Mohamad)が2004年9月発行の『TEMPO』誌の「はしがき」に、「ジャカルタ、2004年9月10日」というタイトルで書いた文章から発想したものだ。この文章は、同年9月7日にガルーダ機上で毒殺された人権擁護活動家ムニール・サイード・タリブを悼み、ムニールの子どもたちに宛てた手紙という形で書かれている。

アリフ、きみのお父さんは、私たち皆と同じく闇を恐れなかった。でも暗黒を案じていた。闇は生の一部だ。暗黒は、生を完全な闇とみなす絶望のことだ。暗黒は望みを捨てること、暗黒は苦渋、暗黒は諦めだ。

(グナワン・モハマド「ジャカルタ、2004年9月10日」より)

牢から出されたラウトには、今自分が経験しているのは「闇」なのか「暗黒」なのかわからない。目隠しされ、両手に手錠をはめられたままモーターボートに乗せられて、おそらくどこかの島に連れて行かれる。そして手足に重しを着けられた上に後ろから背と頭を撃ち抜かれて海に落ち、そのまま海底に沈む。ラウトは自分が死んだことを知る。死は想像していたほど劇的なものではなく、「詩人が詩の最後の文にピリオドを打つように」あるいは「電気が突然消えるように」あっけなくラウトを訪れる。

死の中で、ラウトは両親や活動家仲間たちや恋人の顔を見て、木の板をリズミカルに打つ音を聞く。そしてラウトは、海の底から彼らに向けて語り始める。

木の板をリズミカルに打つ音は、ラウトの回想の中で、活動家仲間のスヌが「お化け屋敷」と呼ばれる家の戸を指で打つ音だった。時は1991年、ラウトと仲間の学生活動家たちは、活動拠点としてジョグジャカルタのはずれに一軒の古い家を借りる。民主化を求める大学生の運動がいよいよ高まり、治安当局の監視が厳しくなってきたために、学内での集会などの活動が困難になってきたからだった。

その家を拠点としてのラウトたち学生の民主化運動や、労働者や農業従事者の権利擁護のための活動、活動家仲間たちひとりひとりのこと、そしてラウトと美術学生アンジャニとの出会いと、ふたりの恋が回想されていく。

そういった回想と交互に語られるのは、当局の手で拘束されてからのラウトと仲間たちの日々だ。そこでは容赦のない尋問と過酷な拷問が繰り返される。ここで描写される拷問は凄まじい。

前述のネザル・パトリアの手記で語られた拷問は、暴言や脅迫や殴る蹴るのほか、電気ショックやピストルをこめかみにつけつけられて脅されるなどだった。ラウトたちが経験した拷問は、それらに加えて、ツムギアリを目に入れられて眼球を噛まれる、氷の塊の上に裸で何時間も寝かされるなど、凄惨を極める。おそらくそれらは、現実の世界でネザルが語ることのできなかったことであり、あるいは他の実際の拉致被害者たちが体験したことだったのだろう。そう思うと身の毛がよだつ。

尋問官がラウトに尋ねる。「どうしておまえらは大統領を替えようとするんだ? おまえらガキどもは、なんの関わりがあって大統領を替えたがるんだ?」。それまで黙秘を通していたラウトは、ふいに答えたい衝動に駆られてこう口にする。「もしも僕らがただのガキなら、なぜあなた方はそんなに怖れるんですか?」 もちろんそれに応えるのは激しい殴打だ。

なによりも恐ろしいのは、尋問者たちが拷問を心から楽しんでいるように描かれている点だ。彼らはなにかを聞き出すために拷問しているのではなく、ただ相手を苦しめ痛めつけることだけを目的として拷問している。そこに動かし難い真実があるのではないか。日常の個人的な暴行も、バイオレンス映画も、そして戦争のような国家規模の組織的暴力も、いろいろな理由付けがなされ、ときには大義名分が持ち出されたりするけれど、つまるところは自分でない他人を痛めつけたい、苦しむ姿を見たい、殺したいという抑え難い衝動と本能が根本にあるのではないだろうか。そして性差別的言い方を許していただけるなら、そういう本能と衝動を色濃く抱えているのは、男という種族であると思う(私の偏見によると、男という種族が存在する限り、この世から戦争がなくなることは決してない)。だから、レイラ・S・チュドリという女性がこの小説で執拗に繰り返される拷問を描き、さらに第2部をラウトの妹アスマラ・ジャティという残された家族である女性の視点からの語りとしている点は、非常に意義深いと思う。その語りの中に暴力の本質が露呈されているからだ。

(以下に続く)

  • アスマラ(愛)が語る物語
  • 木曜集会
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