よりどりインドネシア

2024年03月23日号 vol.162

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第77信:理想の結婚式を求めて ~『ブライドジラ』と『元・花嫁』から探るインドネシアの結婚事情~(轟英明)

2024年03月31日 01:23 by Matsui-Glocal
2024年03月31日 01:23 by Matsui-Glocal

今回紹介する結婚風刺コメディ『ブライドジラ』(Bridezilla) ポスター。怪獣映画ではありません、念のため。imdb.com より引用。

横山裕一様

3月になって少し寒さがぶり返し、東京首都圏ではみぞれ混じりの雪が降った日もありましたが、この原稿を書いている今はすっかり春の陽気です。ここ数年は全国的に桜の開花時期が早まったと言われており、本号が配信される頃にはちょうど東京で桜が開花するとのこと。私は春の桜よりも寒い時期の梅を好みますが、Tシャツ1枚でも動き回れる季節が到来間近なのは素直に嬉しいものです。

前回第76信で横山さんが紹介された三作品のうち、私が鑑賞済みなのは日本でも公開され世界中で高い評価を得た『マルリナの明日』(Marlina Si Pembunuh dalam Empat Babak)のみです。『オルパ』(Orpa)や『ロテ島の女たち』(Women From Rote Island)は国際市場も意識した作品のようなので、いずれ日本では映画祭などで上映されると睨んでいます。期待して気長に待ちましょう。

なお、『マルリナの明日』は個人的にかなり大好きな作品です。インドネシア映画のオールタイムベストテンを選ぶなら、ベスト・スリーに入れるのは確実、そのくらい私は高く評価しています。

あえて誤解を恐れずにこの傑作を私なりに評するなら、「インドネシア映画における首チョンパものの最高峰であり、クズ男は全員ぶち殺すべしとの熱いメッセージで観客を扇動する、女性連帯ものの最高傑作」というものです。女を抑圧するだけでなくレイプまでするクズ男は、セックスの最中に首をちょん切るべきである!この単純明快なメッセージを含む場面を、気負いなくあっけらかんと、しかも反復する形で2回も撮ってしまうモーリー・スルヤ監督は只者ではありません。前回私が言及したギナ・S・ヌル監督はじめ、インドネシアでは少なくない女性映画人が商業映画で堂々と活躍していますが、彼女はその中でも最も国際的に注目される一人です。昨年は東京国際映画祭で黒澤明賞を受賞しており、私にとって次回作が非常に楽しみな監督の一人です。

https://youtu.be/L2jp07qgwQk?si=noeqflNJ6LNZAlAn グー・シャオガン監督、モーリー・スリヤ監督、黒澤明賞 受賞者記者会見|第36回東京国際映画祭

作品評では横山さんに先を越されてしまいましたが、『マルリナの明日』は実に論じがいのある作品です。女性映画という枠組みに留まらず、「ガドガド・ウエスタン」としても、「首チョンパもの」としても、「スンバ島とそこに住む人々の表象」としても、様々な角度や視点から論じることができます。稿を改めていずれ徹底的に解読したいと思っています。どうかご期待ください。

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さて、本題に入る前にもう一本言及しておきましょう。横山さんが第74信で論じられた『サジャダの片隅を濡らす涙』(Air Mata di Ujung Sajadah、以下『サジャダ』)を私も先日Netflixで鑑賞しました。予想通り、薄いイスラーム風味の、涙がちょちょぎれるメロドラマでした。ただ、過去の類似作品を思い浮かべながら改めてストーリーを振り返ってみると、インドネシア独特のメロドラマの構造が露わになった作品のように私には思えました。メロドラマ研究書を未読のため、確定的なことは言えないのですが、インドネシアのイスラーム風味メロドラマの特色とは、おそらく二つあると考えられます。

一つは物語の主要登場人物に悪人がいない点です。みんながみんな、善意のかたまりでできているかのような性格をもち、『サジャダ』ではとりわけこの傾向が顕著です。もちろん、登場人物たちが全く心を乱されず、悩まないというわけではありません。『サジャダ』においては、育ての母ユムナ(チトラ・キラナ)が「私は家政婦じゃない!」と取り乱し、内心の激しい葛藤と生みの母アキラ(ティティ・カマル)への嫉妬を観客に見せてくれます。しかし、義母ムルニ(イェニー・ラフマン)と夫アリフ(フェディ・ヌリル)に諭されて、最終的に息子バスカラを手放すことにユムナも同意します。誰が悪いのでもない、誰かを悪者にするのでもない、全ては善意から発したことなのであり、誰を責めてもいけない。だいぶ浮世離れした設定ではあっても、こうした善意に満ちた世界をインドネシア人観客が求めていることは確かでしょう。

もう一つは、アリフがユムナに諭す場面で使われる ikhlas(イクラース)という言葉です。日本語では「誠意を見せる、真心を尽くす」などと訳されますが、上記の場面では「悲しいことであってもすべてを清く真っすぐな心で受け入れる、覚悟ができている」という意味が妥当でしょう。アキラがバスカラを引き取ることを拒絶するユムナに対して、アリフは「バスカラはアッラーからの授かりもの。アッラーの所有物だ。バスカラが引き取られるとしても、我々は ikhlas でなくてはならない」と告げます。この台詞を字面で読むと、なにか冷たい印象を受ける人もいるかもしれませんが、私見では ikhlas とはイスラーム信仰の核ともいえる重要な概念のように思えます。全知全能なる唯一神アッラーに全てを委ね天命を受け入れること。これこそムスリムが守るべき規範かつイスラーム信仰の核であり、『サジャダ』はいわゆるダッワ(宣教)ものとは異なるものの、紛れもなくイスラームの価値観を強く反映した作品なのです。

フェディ・ヌリル主演のイスラーム風味メロドラマは『サジャダ』以外にも、これまで何回か取り上げた『愛の章句』(Ayat-Ayat Cinta)二部作や『望まれない天国』(Surga yang tak dirindukan)三部作、『限りなく愛に満ちた父』(Ayah Menyayangi Tanpa Akhir)などがあります。いずれも描写に濃淡の差はあっても、悪人がいない世界の中で、困難に直面した登場人物たちが ikhlas であろうとする物語と要約することができそうです。

それらの物語は、およそ現実にはありえない、キレイごとと善意のみで成立する世界で展開していきます。日本人には大袈裟でウソっぽいとして突っ込まれること必至の設定の数々ではあります。が、上記諸作品が多くの観客を動員したのは、インドネシア人観客の欲望を忠実に反映した内容だからではないでしょうか。同様の趣向のメロドラマが現在の日本で制作されたとしても、インドネシアほどの大成功を収められるとはなかなか想像しづらいものがあります。

一方で、他のイスラーム諸国ではメロドラマはどのような形をとっているのでしょうか。インドネシア同様の特色が確認できるのか、あるいは異なる特色があるのか。例えば、現在のイランには神の恩寵と奇蹟を主題とする映画が少なからずあると聞きます。それがメロドラマの形式を踏襲しているのなら、おそらくはインドネシアのそれとは異なるスタイルを持っていると推察されます。この点は今後の課題として引き続き考えてみたいと思います。

『サジャダの片隅を濡らす涙』(Air Mata di Ujung Sajadah)ポスター。階層格差や地域格差は全く存在しない、あるいは見せようとしないスタイルのメロドラマ。imdb.com より引用。

『サジャダ』についてはもう一点、指摘しておきたいことがあります。第74信で横山さんは本作を「ジャワ民族の特性を活かした演出が効果を上げている」と書かれていますが、この点は留保が必要ではないかと思います。というのは、ジャワ民族の特性云々と言うのならば、ジャワの古都ソロを舞台とした本作では登場人物がジャワ語を話すのが筋であるにもかかわらず、ごくごく一部の台詞でジャワ語が使われている程度で、主要登場人物はジャワ語で会話をしないのはおかしいと言わなければなりません。ジャカルタ出身のアキラがジャワ語を話さないのは当然としても、それ以外の登場人物がジャワ語を日常生活で全く口にしないのはリアリズムの観点からは不自然なわけです。

とは言え、別の観点からはジャワ語が排除された本作の作り方は正当化できます。それはつまり、『サジャダ』は規範の物語であるということです。この場合の規範とは、先述したイスラームとしての規範 ikhlasだけでなく、折り目正しい正調インドネシア語を登場人物が話すことそのものも指します。現実にはあり得ない虚構の物語だからこそ、インドネシアという国家が成立して以降、常に規範とされてきた正調インドネシア語が『サジャダ』では登場人物によって話されなければなりません。間違ってもジャカルタ弁の混じった口語インドネシア語やジャワ人にしかわからないジャワ語が登場人物の間の会話を占めてはいけないのです。つまり、『サジャダ』は全くナショナリズムを感じさせない作品であるにもかかわらず、正調インドネシア語の使用が理想の正しいインドネシア人を作るとのイデオロギーをまとった作品とも言えます。ジャワ民族の特性云々は明らかに薄められていると判断すべきでしょう。

さらに付言するならば、ジャワ文化の中心地のひとつである古都ソロを舞台としているにもかかわらず、『サジャダ』の画面や音楽、台詞からはジャワの地方色がほとんど感じられません。そもそもアリフの出身地がソロである必然性はほぼないと言ってよく、単にジャカルタから適度に離れているから舞台として選ばれたのでは、と邪推できなくもありません。また、地方色が薄いというだけでなく、生みの親と育ての親を隔てる階層や地域や所得の格差も『サジャダ』においては全く存在しないかのようです。本来はメロドラマを推進し、観客の紅涙を搾り取る要素でもある、生みの親と育ての親を隔てる様々な差異が全く設定すらされていないのは、観客のどのような欲望に基づくものなのでしょうか。

この点については、先ほどの繰り返しとなりますが、新旧あるいは他国のメロドラマ作品と比較参照しながら、引き続きインドネシアのメロドラマの特色とは何か、考え続けたいと思います。横山さんは私と違ってメロドラマは苦手ではないようなので、他のメロドラマ作品で気づいた点があれば、ご指摘していただけると幸いです。

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さて、前振りはここまでとし、ようやく今回の本題です。第63信以降、主に結婚を題材とした作品をコメディ中心に取り上げてきた流れで、今回は結婚式や披露宴そのものがメインテーマの2作品『ブライドジラ』(Bridezilla)と『元・花嫁』(Mantan Manten)を取り上げます。正直なところ、両作とも作品の完成度としてはそれほど高いとは言えないものの、インドネシアの結婚事情を知るにはそれなりに有益な作品でもあり、紹介してみたいと思います。

まずは『ブライドジラ』から。私は本作を鑑賞するまで知らなかったのですが、ブライドジラとは元々アメリカのリアリティ・ショーの番組名で、bride「花嫁」とGodzilla「ゴジラ」をくっつけた造語を指します。結婚前でハイテンションな、自己中心的で傍若無人で超ワガママなモンスター花嫁のことを意味しています。別に怪獣の名前ではありませんので、念のため。

ダラ(ジェシカ・ミラ)はウェディング・オーガナイザー会社の社長として今日もてんてこまい。ブライドジラと化しているセレブ花嫁ルチンタをなだめた直後に恋人アルフィン(リオ・デワント)から慰めを受けます。しかし、肝心の結婚披露宴会場において、ルチンタはカメラケーブルにつまずき、スロープを転がり落ちてしまいます。この事件は新聞の芸能ゴシップ欄を飾ったばかりか、SNSでもバズりまくりますが、当然ながら会社の評判はガタ落ち。顧客からは予約キャンセルが相次ぎ頭の痛い毎日ですが、そんな時でもダラを優しく見守ってくれるアルフィンはリフレッシュ休暇に彼女を誘い出し、遂にプロポーズします。舞い上がるダラでしたが、崖っぷちの会社をどうにかしなくてはいけません。

そんな時、そうだ、自分の結婚披露宴をセルフプロデュースして、ウェディング業界専門月刊誌のカバー表紙を飾れば失地挽回できるのでは?!と思いつきます。果たしてダラは子供の時から夢見ていた理想の結婚披露宴を自ら実現し、自分の会社を窮地から救うことはできるのでしょうか?

(⇒ 『ブライドジラ』の冒頭は風刺コメディとして・・・)

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