よりどりインドネシア

2024年04月23日号 vol.164

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第79信:こういうオトナの恋愛映画を待っていた! ~倦怠期にある夫婦の危機を描く『結婚生活の赤い点』~(轟英明)

2024年04月23日 00:54 by Matsui-Glocal
2024年04月23日 00:54 by Matsui-Glocal

今回紹介する『結婚生活の赤い点』(Noktah Merah Perkawinan)劇場公開時ポスター。観客の想像を掻き立てる見事なデザイン。imdb.com より引用。

横山裕一様

3月末から4月初めにかけて肌寒い日が続き、全国的に桜の開花が昨年より遅れましたが、ちょうど新学期の入学式に合わせて満開となった地域が東京首都圏近辺では多かったようです。残念なことに私の長男の中学校入学式の日は強風を伴う雨だったため、桜の樹の下で記念写真を撮ることができなかったのですが、週末に家族で連れ立って近所の桜の街路樹の下でアイスクリームを食べながら花見ができました。この原稿を書いている時点ではすでに葉桜となってしまいましたが、最近のますますの円安傾向も手伝って、インドネシア人を含め多くの外国人観光客が桜を見るために来日するようになっています。コロナ禍は遠くになりにけり、ですね。

さて、前回第78信で横山さんが再度取り上げた『オジェック運転手はつらいよ』(Tukang Ojek Pengkolan、以下『オジェック』)ですが、私はこれまで未見でした。横山さんの記事を読んでほんの一本エピソードを見ただけですが、まあ普通のシネトロン(テレビドラマ)という感想です。ただ、どこかで見たことがあるような設定だなあと感じたので、記憶をたどってみて思い出したのは、『オジェック』放映開始よりも前の2000年代にトランスTVで放映されて大人気だった『バジャイ・バジュリ』(Bajaj Bajuri)でした。タイトルが示すように、インド製の小型オート三輪車「バジャイ」運転手のバジュリが主人公。彼を取り巻く個性豊かなキャラクターとの掛け合いが視聴者の笑いを誘い、タイトルを変えながら断続的に数年間制作された人気番組です。庶民が多く住むカンプンを舞台にし、タクシー運転手が主人公、登場人物それぞれがキャラ立ちしていることなど、二つの作品はよく似ている気がします。果たして横山さんは未視聴でしょうか。

『バジャイ・バジュリ』(Bajaj Bajuri) ポスター。天然ボケの妻オネンを演じたリケ・ディア・ピタロカは闘争民主党所属の国会議員としても有名。imdb.com より引用。

横山さんがご指摘した、登場人物が同じ台詞を繰り返したり、出身地特有のなまりや特徴ある発音をしたりすることなどは、『バジャイ・バジュリ』でも見られます。視聴者に登場人物を印象付け、より身近に感じてもらう、典型的な作劇術であり、長寿番組となった要因の一つでもあるのでしょう。とは言え、『オジェック』の3,000エピソード突破は偉業には違いありません。誇張されたメロドラマではなく、劇的な展開で幾度もどんでん返しを繰り返して視聴者を虜にする韓流ドラマでもなく、視聴者の身近にいそうな登場人物が織りなす小ネタを、マンネリを怖れずに延々と繰り返す庶民派下町コメディが、なぜこれほど長期間に渡りインドネシア人視聴者に支持されているのか、過去の類似作品と何が同じで何が違うのか、考察してみるべきでしょうか。もっとも、現実には3,000エピソードどころか、1,000エピソードを観るだけでも時間的に無理なので、精緻な分析は難しいのですが・・・。

代わりとは言っては何ですが、ここで少し視点を変えて、三輪タクシーやバイクタクシーを含め、タクシー運転手を主人公にした映画にはどのような型があるか考察してみたいと思います。

「タクシー運転手もの」というジャンルが成立するのか不明ながら、タクシー運転手が主人公の映画は世界中どこにでもあるのではないかと思うほどありふれています。おそらくは、舞台となった国や地域の世相を生き生きと描写するうえで、様々な職業や階層の人々と交わるタクシー運転手を主人公にすることは、ストーリーを自然に展開しやすい利点があるのでしょう。マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』、ジム・ジャームッシュ監督の『ナイト・オン・ザ・プラネット』、崔洋一監督の『月はどっちに出ている』等々、こうした作品のリストを挙げていくのはかなり容易です。

当然ながら、インドネシア映画にもタクシー運転手を主人公とした作品は何作かあります。ラノ・カルノとメリアム・ベリナ主演の社会派もの『タクシー』(Taksi)は1990年の作品。理想主義者のインテリ主人公がタクシー運転手として社会の厳しい現実と格闘する様を、あるシングルマザーの歌手との交流を通して描いています。『バジャイ・バジュリ』や『オジェック』の牧歌的なコメディとは異なって、巨大都市ジャカルタの光と影をかなり生真面目に描いているのが特徴です。

また、レザ・ラハディアン主演の『タクシードライバー日誌』(Something in the Way)は2013年と比較的最近の作品ですが、先述の『タクシードライバー』に鼓舞されたかのような、セックスと暴力とモラルが混在する巨大都市ジャカルタで生きる孤独なタクシー運転手を主人公にした物語です。描写の激しさゆえか、本国インドネシアでは一般公開されず、ベルリンや福岡など海外映画祭のみで上映された問題作。よって私も未見です。一方で、『オジェック』同様、オジェック運転手二人組を主人公にした『アプリにおまかせ』(Sesuai Aplikasi)というコメディが2018年には劇場公開されています。『いきなりダンドゥット』(Memdadak Dangdut)で歌手としての才能も見せてくれたティティ・カマルが、本作でもいかにも実際にいそうなダンドゥット歌手を楽しそうに演じて笑わせてくれるのが見どころです。インドネシアではNetflixで見られます。

『タクシー』(Taksi)ビデオCDジャケット。公開当時トップスターだったラノ・カルノとメリアム・ベリナの共演作。imdb.com より引用。

『アプリにおまかせ』(Sesuai Aplikasi)ポスター。よく練られた脚本とは言い難いものの、格差社会ジャカルタの人間模様を喜劇としてまとめた作品。imdb.com より引用。

こうしてインドネシア映画を何作か挙げるだけでも、タクシー運転手を主人公とした作品は実に多様性にあふれていることが分かります。すぐには思い浮かびませんが、バイクタクシーやタクシーが普及する前には庶民的な交通手段として長年親しまれたベチャ(輪タク)曳きを主人公とした映画も、過去を遡ればおそらく見つかるのではないでしょうか。客を乗せて走る乗り物そのものは時代によって変化しても、物語の型は実はそれほど変化しておらず、ある種の共通性や連続性が見つかるかもしれません。

現代のインドネシア、とりわけジャカルタのような超過密巨大都市ではオジェックの存在なしで人の移動がスムーズに進むとは想像しがたく、また特別な資格や大きな資本を必要としないで誰でも始められる職業としてオジェック運転手ほど適したものはないでしょう。庶民の生活に密着した必要不可欠な職業だからこそ、『オジェック』が長寿番組として親しまれてきたことは間違いないだろうと思いますが、さてAIによって人間の仕事が代替されると言われる近未来においても、広義のタクシー運転手を主人公とした作品は成立しうるでしょうか。今はまだ若年人口が多く、労働力過剰なインドネシア社会において、オジェック運転手のように誰でもできそうな職業は確実に必要とされていますが、今後高齢化社会に突入し人口増加率も低下、高等教育がより広範に普及していくうちに、オジェックを含めたタクシー運転手の社会的地位は変化していくかもしれません。それこそ今の日本におけるタクシー運転手がほとんど高齢の男性であるような時代がインドネシアに到来した時、果たしてどんな映画が作られているでしょうか。そんなことを想像しながら、今後も作られるであろう「タクシー運転手」ものの面白い新作がインドネシア映画界から出てくることを期待したいものです。

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さて、本題に入る前にもうひとつ、横山さんが第74信で論じられた『サジャダの片隅を濡らす涙』の解釈についてです。「ジャワ民族の特性云々は明らかに薄められている」との私の第77信での指摘に「言語だけで民族特性を測るのはどうか」と横山さんは第78信で反論されていますが、いささか論拠に乏しいと言わざるをえません。そもそも民族的特性とは何でしょうか。それは実のところステレオタイプの別名に他なりません。日本人は勤勉だ、日本人は性的に放埓だ、インドネシア人は怠惰だ、インドネシア人は時間にルーズだ、等々いくらでも事例を挙げられます。ジャワ人は感情をあまり表に出さず、激しい言い争いをしないで問題解決を目指すというのも限りなくステレオタイプに近いのではないでしょうか。

そうした傾向があることは誰しも完全には否定できませんが、一方で反証も非常に容易です。特定の民族に属する全員が同一の行動を必ずとることはあり得ないからです。要するに「ジャワ人」「ジャワ民族」という主語が大きすぎます。

『サジャダ』において、育ての親であるアリフとユムナはジャワの文化的精神的中心地と言っても差し支えないソロに住んでいることが物語においてはっきり明示されますが、実のところ生まれも育ちも100%ジャワ人であるとは示されません。確度の高い推定ですし、彼らはジャワ人と考えるのが映画の見方としてなるほど自然ですが、ではどうして彼らは日常生活で全くジャワ語を使わないのか、その不自然さに横山さんは全く答えていません。私は、『サジャダ』が「インドネシア人ムスリムとして規範の物語」であるからジャワ語やジャワの文化を感じさせる諸要素が慎重に排除されていると解釈し、その論拠も数点挙げています。一方で、横山さんは自らのジャワ人に対するステレオタイプをそのまま登場人物の行動原理に当てはめているだけではないでしょうか。ジャワ人の「民族特性」のみで本作のストーリー展開を説明するのはやや性急と思われます。アリフとユムナが生みの親であるアキラと激しい言い争いをしないのは、単に彼らの性格にすぎず、或いは生活環境や階層が背景にあると主張することは十分に可能です。舞台はジャカルタでもバンドゥンでも、育ての親がジャワ人でなくとも、観客の紅涙を搾り取ることを目的としたこのメロドラマは問題なくちゃんと成立しうるからです。そうした互換性や普遍性が『サジャダ』にはあるからこそ、昨年の国内映画観客動員数第3位を記録したのかもしれません。

とは言え、ジャワ人の民族特性云々を横山さんが主張することも無論不可能ではなく、であればこそ、メロドラマの苦手な私よりもこの手の作品を多く観ているであろう横山さんには、他の作品と比較参照する形で自説の補強をいずれしていただきたいと思います。こうした解釈の違いを披露することこそが映画批評の醍醐味ですから。

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さて、ここからが今回の本題です。前回第77信の最後で、「そろそろ結婚ネタも尽きつつある」と書いてしまいましたが、Netflixで検索してみれば、まだまだ結婚を題材とした作品で未見のものがありました。そのうちの3本ほどを今回は紹介してみたいと思います。

まず1本目は、『リアムとライラ』(Liam dan Laila)からいきましょう。英語タイトルはズバリThe Weddingと直球。『結婚しちゃった』(Get Married)シリーズや第67信で論じた『何でも一緒』(Saiyo Sakato)のニリナ・ズビルが主演女優を務めています。『何でも一緒に』よりも前の2018年の作品ですが、彼女自身がミナンカバウ人であることを意識したキャスティングのようです。本作はフランス人男性リアム(ジョナサン・セラーダ)とミナンカバウ人女性ライラ(ニリナ・ズビル)がネット上で知り合って結婚に至った実話に基づきます。ライラとの結婚を決意したリアムがミナンカバウの地にたどり着くところから物語は本格的に始まり、様々な障害を乗り越えて結婚式を迎えるまでの二人の悪戦苦闘ぶりを描いています。このようにあらすじを説明すると面白そうな気がするのですが、実際に出来上がった作品はシリアスドラマともコメディとも言えない、何とも中途半端な出来栄え。率直に言ってだいぶガッカリしました。と言うのも、私自身がリアムの立場だったことがあるからです。私がアチェ人の妻と結婚する際にも、劇中のリアムと似たような経緯とドタバタを経験しているだけに、どうしてこうも盛り上がりに欠ける脚本のうえ、平々凡々な演出が最初から最後まで続くのか、心底理解に苦しみます。

とは言え、敢えて本作の美点を挙げるなら、西スマトラのミナンカバウ社会が舞台なので、主要キャストはミナンカバウ人で固め、言語もミナンカバウ語を使用してリアリズムにちゃんと配慮したことでしょうか。第67信で『ファン・デル・ウィック号の沈没』(Tenggelamnya Kapal Van Der Wijck)を論じた際にも言及したように、異種族との婚姻を避ける傾向が極めて強く「排他的」「閉鎖的」とまで形容されることのあるミナンカバウ社会をしっかりしたリアリティをもって描こうとする制作者の姿勢は、基本的に地方語映画を積極的に推したい私には好ましく感じられました。肝心の脚本と演出があまりに平板なのは心底残念ではあるのですが・・・。

『リアムとライラ』(Liam dan Laila)ポスター。ミナンカバウ人女性と結婚する予定の外国人男性にとっては必見かもしれない作品。imdb.com より引用。

2本目は『結婚同意書』(Wedding Agreement)です。こちらはミナンカバウ社会という地方を舞台にしたローカル色強めな『リアムとライラ』とは正反対の、ジャカルタを舞台とした高学歴高収入イケメン男女を主人公としたロマンスです。両親のために見合いで結婚した新郎ビアン(レファル・ハディ)は、初夜の直前に新婦のタリ(インダー・プルマタサリ)に1年後には離婚するとの結婚同意書を見せます。自分には別に結婚したい婚約者サラ(アグニニ・ハク)がおり、両親のためだけに一時的に結婚したのだと冷たく言い放つビアン。茫然自失のタリでしたが、敬虔なムスリマとしてビアンの言葉は到底受け入れられるものではなく、ともかくも夫のために甲斐甲斐しく食事を作り洗濯をして自分の仕事もこなすものの、自分の私生活に入り込まないで欲しいとビアンからは言われてしまいます。しかし、病気になったビアンをタリが看病したり、一緒に互いの両親を訪問したりしているうちに、徐々に距離を縮めていく二人でしたが・・・。

ここまでのあらすじを読んで、察しの良い方は結末が概ね予想できると思います。あまり意外性のある展開とはいえず、そもそもビアンの身勝手さが何とも許しがたく、私にはどうにもひっかかる話です。こう言ってしまうと、身も蓋もないのですが、敬虔なムスリマが不実な夫を改心させるという筋書きそのものが非常にウソっぽいのです。もちろん、本作は二人のパワーカップルぶりからしてリアリズムのドラマではなく、堂々たるフィクションなので大嘘をついてご都合主義で終わらせてしまうのは普通にありなのですが、イスラーム法では結婚は契約の一種であるという概念が強いのだから、1年も待たずにビアンもタリもさっさと離婚してしまえ!と画面に向かって叫びたくなりました。

以前友人の知り合いが二股をかけて、うち一人とは盛大な披露宴を開いてちゃんと結婚したものの、やっぱりもう一人が忘れられなくて早々と離婚した事例や、日本人とインドネシア人のカップルが周囲から祝福され日本からは多数の来客を招いて挙式、某週刊誌の記事にもなったのにこれまた1年も経たずに破綻した事例などを直接見聞した経験が私にはあります。後者ではどういうめぐりあわせか、二人の結婚の後始末にまで関わる羽目になってしまいました。幸か不幸か、こうした経験のせいで本作のようなウソ話をどうも私は素直に観られないようです。嗚呼。

『結婚同意書』(Wedding Agreement)ポスター。成人男性の夢とはご都合主義の極みでもある。imdb.com より引用。

さて、ようやく3本目、今回是非とも論じたかった『結婚生活の赤い点』(Noktah Merah Perkawinan, 以下『赤い点』)についてです。上述の2本は人に薦めたくなる作品ではなかったのですが、『赤い点』は全くの逆、是非とも多くの人に観て欲しい超おススメの作品です。誇張ではなく、こういうロマンスもの、恋愛映画を私はずっとインドネシア映画で観たかったのです!自分の長年の欲求不満がようやく解消された喜びで、タイピングもスラスラ進みそうな気がするほど今は浮ついた気分ですが、まずはあらすじの紹介から。

(⇒ ユリ(シーラ・ダラ・アイシャ)は結婚カウンセラーであるおばの・・・)

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