よりどりインドネシア

2022年10月23日号 vol.128

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第50信:民族伝統風習と近代化社会の狭間から生まれる笑い ~コメディ映画『ドキドキするけどいい気分』~(横山裕一)

2022年10月23日 11:38 by Matsui-Glocal
2022年10月23日 11:38 by Matsui-Glocal

轟(とどろき)英明 様

今年は雨季への移行が早いのか、ジャカルタでは10月に入る頃から朝はいい天気でも午後に雷を伴う大雨が続く毎日です。日本はすでに肌寒くなった頃でしょうか。轟さんも秋から冬を久々に迎えられるかと思いますが、お身体にお気をつけください。

さて轟さんからのお勧めでもある『ドキドキするけどいい気分』(Ngeri-Ngeri Sedap)をNetflixインドネシア版でようやく観ることができました。公開時に観たかったもののタイミングを逃しただけに非常に楽しみにしていましたが、期待通りでした。前回轟さんが紹介されたように、来年の米アカデミー賞へのインドネシア代表作品に選ばれたのも頷けます。個人的には今年の新作の中では今のところ一番良かった作品です。轟さんが次回触れられる前で恐縮ですが、私も今回はこの作品について話したいと思います。

映画『ドキドキするけどいい気分』ポスター(引用:Imajinari)

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作品は「コメディドラマ」とジャンル分けされていますが、いかにも笑わせようとするようなよくある大袈裟、ドタバタコメディ作品とは異なり、登場人物が真剣に行動する中に面白さが滲み出てくる、上質コメディの部類に入るものかと思われます。そこに地方文化色、民族色が巧みに絡められ、単なるコメディという範疇には収まらない域にまで作品の質が高められています。

舞台は観光地でも有名なスマトラ島の北スマトラ州トバ湖畔で、トバ・バタック民族の伝統風習を巡って対立する親子関係が描かれます。トバ湖畔の一軒家に父母と娘が暮らしていますが、3人の息子は大学卒業後、ジャワ島の都会から戻らず故郷に顔も見せない。バンドゥンに住む長男はバタック民族の伝統文化を解さないスンダ民族の女性と結婚したいと言い、ジャカルタ在住の次男は折角法学部に進学させたのに法曹界に就職するどころかコメディアンになってしまった。さらにトバ・バタック民族では末の男の子供が親と同居し面倒をみる伝統風習があるにもかかわらず、末っ子の三男はジョグジャカルタでジャワ民族の老人と暮らしている。民族の伝統風習を重んじる父親はイライラが高まり、母親は可愛い子供と会えず寂しさが募ります。

こうしたなか、主人公の父親は近く予定されている伝統行事に参加させるために息子たちを呼び戻そうと妻と一計を諮ります。二人が喧嘩のフリをして離婚しようと演技するところからドラマにコメディ色が強く帯び始めます。一報に驚き、急ぎ帰郷して離婚を思いとどまらせようとする息子たち、少しでも長く息子たちを故郷に留まらせるため説得されるも頑なに振る舞う両親。物語の本質は一見深刻なものでもあり、登場人物の行動はそれぞれ必死であるにもかかわらず、たった一つの嘘を巡り、それを隠そうとする者、振り回される者の姿が観客である第三者から見るとこの上もない可笑しさに溢れ、コメディの舞台が作り上げられていきます。喜劇王であるチャールズ・チャップリンの名言に「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」という言葉がありますが、まさにその世界が表現されています。

さらに物語の展開も巧みで、終盤、両親の嘘がバレた後、父親と息子たちが本音をぶつけ合った末に、母親までもが夫に対する不満をぶちまけて離婚を本当に宣言してしまうシーンがあります。まさに「嘘から出たまこと」への急展開は観る者にニヤリとさせてしまうコメディ脚本の妙です。しかし、ニヤリとしたのも束の間、今まで両親と同居を続けてきた従順そうな妹も、実は恋人がジャワ民族だったために父親から反対され諦めたこと、兄たちが全て家を出てしまったために料理学校を経て料理人になる夢を捨てていたことを告白し、涙のシーンに転換します。彼女もバタック民族の伝統風習、家族関係の中で悩んでいた一人であったことがわかります。

笑いと涙、そこからまた笑いのシーンへと転じる巧みさは、まさに寅さん映画、『男はつらいよ』シリーズに通じるものがあります。おいちゃんやおばちゃんと喧嘩する寅さん、当人同士は真面目に怒っているのに何故か観る者は笑ってしまいます。喧嘩の末、家を出ていく寅さんに妹のさくらが止めようと涙のシーンとなるものの、それを振り切る寅さんにとっては真面目な一言にまた可笑しさを感じてしまう・・・。笑いと涙の転換の妙は同じです。同シリーズを手がけた山田洋次監督は常々「日常の出来事の中にこそドラマがあり、可笑しさが生まれる」と発言していますが、家族の在り方、行く末を案じる日常を描いた『ドキドキするけどいい気分』はその典型的な作品ともいえそうです。親子喧嘩のシーンなのに何故か笑えてしまうという共通点もありますが、笑いだけでなく伝統と現代の齟齬、民族性、地方色という点でも『男はつらいよ』シリーズに通じているともいえそうです。

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『ドキドキするけどいい気分』では、民族の伝統風習と近代化社会に生きる若い世代との齟齬が作品のテーマのひとつであり、現代のインドネシアにおける各地方の多くの民族が抱える問題を的確に捉えています。各地方で構築された集団社会を継続するために作り上げられてきた各民族の生活習慣、伝統風習は、農業から工業へ、貨幣経済、都会への一極集中などといった近代化社会とそぐわなくなってきているのが現状です。伝統風習を守ろうとする親の世代と近代社会で生まれ育った子供たちの世代との対立は世界共通でもあります。本作品ではこうした問題を深刻に描くだけでなく、世代間の齟齬を巧みにユーモアに転換させたこと、また地方色豊かに描いたことで、多くの観客の共感を獲得できたものといえそうです。舞台として選ばれたトバ・バタック民族はハッキリものを言うことで広く知られる民族でもあり、ドラマの核ともなる家族内の口論を含めた各キャラクターや内容が明確に表現でき、観客にとっても理解しやすくなったことも、物語の展開上効果を発揮できた要素の一つだと思われます。

本作品は主人公家族を通してトバ・バタック民族の世界が非常に特徴的に描かれていて、かつて轟さんと話したことがある「地方色豊かな作品」に仕上がっています。前述の通り、バタック民族で末の男の子供が親と同居し面倒をみる風習であること、結婚式など儀式儀礼に関わる者は民族の伝統風習を理解していないとならないことなど、トバ・バタック民族の伝統風習が物語の核ともなっています。また伝統風習を重んじる父親に対して、娘が従順に恋人や夢をあきらめる姿からは、バタック民族における父系社会の強い姿も垣間見えます。それに加えて、世界最大のカルデラ湖であるトバ湖の美しい風景、現在も多くの住民に使用されている伝統家屋「ルマボロン」に親族が集まって重要な話し合いをする様子、市場や伝統料理、さらにはギター片手に陽気に歌う夜の飲み屋など当地ならではの風景が物語を通して自然に登場してくるところも優れていて、バタック世界を感じさせる作品の魅力の一つでもあります。

トバ湖畔(写真上)と伝統家屋ルマボロン(写真下)(いずれも2018年撮影)

言葉に関しては、作品冒頭では現地言語であるバタック語による会話ですが、すぐにインドネシア語主体に切り替えられます。これは実際に現地ではバタック語が主流であるものの、作品の観客対象の大多数がバタック以外の他民族であることから、冒頭バタック語を使うことでバタック世界の雰囲気を印象付け、その後は誰もが理解できるインドネシア語に切り替えたものと推測されます。とはいえ、折に触れてバタック語の単語やバタック訛りが盛り込まれていたり、挿入歌としてバタック語による地方歌謡曲がふんだんに使用されたりすることでスクリーン内でのバタック世界は聴覚的にも維持されていきます。さらにコメディ作品らしく、バタック語を使った言葉遊びも盛り込まれています。わかりやすいものでは、主人公である父親がジョグジャカルタにある三男の滞在先を訪れた際、その家の主人が気を効かせてバタック語の挨拶言葉「ホラス」(Horas)と言おうとしたものの間違えてジャワ語風に「ホルマス」(Hormas)と言ってしまうシーンで、笑いも含めてバタック色が反映されています。

さらに出演俳優も主人公の家族6人は全員、出生地は別でもトバ・バタック民族など同系統の北スマトラ州の民族で固められた徹底ぶりで、より自然に地方色を出そうとした制作陣の意欲が伺えます。

『男はつらいよ』と共通するもうひとつ大きなテーマは普遍的な家族愛です。伝統風習を一方的に押し付けようとする父親。それに強く反発し父親から距離を置こうとする息子たち。作品ではお互いに直接向き合い、それぞれの立場を理解することの大切さが訴えられています。そしてその姿は、頑なだった父親が自ら歩み寄ることで解決の糸口が見出される形で表されています。父系社会が強いとされるバタック民族の伝統風習に対して、現代社会に適応させるための一例が指し示されているかのようでもあります。

(⇒ 以上のように、本作品は魅力ある地方色、民族色が ・・・)

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