よりどりインドネシア

2022年10月23日号 vol.128

ジャカルタの思い出の乗り物たち(2):バジャイと消えていった仲間たち(松井和久)

2022年10月23日 11:36 by Matsui-Glocal
2022年10月23日 11:36 by Matsui-Glocal

前回、『よりどりインドネシア』第119号の第1回では、ジャカルタで走っていた2階建てバスの全盛時代の話を書きました。第2回では、1人または2人で乗る乗り物として、バジャイとその仲間たちを取り上げます。

バジャイ(Bajaj)が現れるのは1975年からですが、それは、人を前に乗せて走る輪タクであるベチャ(Becak)の代替交通手段としてのことでした。自動車の台数がまだ少なかった当時、市内の人々の交通手段と言えばベチャであり、その数は9万台以上に上りました。

ベチャの運行は個々のベチャ曳きに委ねられるので秩序が取れず、また、「ベチャ曳きは非人間的な扱いを受けている」という批判が大きく、当時のジャカルタ首都特別州のアリ・サディキン州知事は、ベチャに替わる交通手段を導入しようと、様々な乗り物を試しました。そのなかで、現在に至るまで主要な役割を果たしてきたのがバジャイなのです。

本稿では、バジャイ以外に、ベモやヘリチャなど、時代とともに消えて行ったバジャイの仲間たちについても触れることにします。

以前のジャカルタのバジャイ。ボディはオレンジ色だった(今は青)。(出所)https://www.thehindu.com/news/international/world/the-ubiquitous-bajaj-remains-an-indonesian-icon/article4841323.ece

●インド由来のバジャイ

バジャイは元々、インドのバジャージー・オート(Bajaj Auto)社が製造・販売するオート三輪です。インドをはじめ、南アジア各地で人々の足となってきたオートリキシャーは、基本的にバジャイと同じものです。

もちろん、細かく見ると、インドのオートリキシャーにはメーターが付いていたり、エンジンの大きさや馬力がインドネシアのバジャイよりも大きかったりと、スペックの違いが色々あります。

1971年、アリ・サディキン州知事(当時)は、3年以内にベチャの台数をその時点での9万台以上から3分の1へ減らすと宣言し、バジャイやその仲間であるヘリチャの導入を開始します。ヘリチャについては後述しますが、1975年に初めて、インドからバジャイを輸入しました。

ホテルインドネシア前のロータリーを走るベチャ(1968年)(出所)https://news.detik.com/x/detail/investigasi/20180208/Kisah-Para-Rambo-Jakarta/

バジャイの輸入独占権を持っていたのは、エディ・タンシル(Eddy Tansil)という華人系の実業家でした。彼は父親と一緒に、1970年代初めから、ブカシのタンブン地区でバジャイの製造を行い、独占的に販売していました。余談ですが、実は、この男、1994年にインドネシア開発銀行(Bapindo)不正融資事件に関係して禁固17年の刑を受けた後、刑務所職員を買収して1996年に脱獄し、中国・福建省へ渡った後、今も行方不明のエディ・タンシルと同一人物です。

エディ・タンシルがバジャイの製造・販売から手を引いた後は、中ジャワ州テガルでバジャイの製造・組立を行うようになり、インドからの輸入はなくなりました。当初のバジャイはエンジンが160 cc、ガソリンを燃料とし、時速40~70キロで走ります。ボディの色はジャカルタではオレンジ色(現在は青色へ)、バンジャルマシンでは緑色です。ジャカルタなどでは、タクシーと同様に乗り降りしますが、バンジャルマシンでは、市政府によって決められた場所で乗り降りするようになっているとのことです。

1990年2月27日、駐日大使も務めたことのあるウィヨゴ州知事(当時)は、ベチャの廃止・代替とバジャイの営業区域を制限する政策を発表しました。当時、ベチャはまだ3万台走っており、バジャイは1万4632台へ増えていました。営業区域を制限されるバジャイの運転手約3,000人は独立記念塔広場(モナス)に集結し、州知事庁舎へデモ行進の後、営業区域制限の撤回を求めました。しかし、州知事側は「ベチャの代替として住宅地域など住民生活圏での営業が前提なのに、バジャイが大通りや幹線道路を走っているのが問題」と運転手の要求を拒否しました。この営業区域制限政策は現在まで引き継がれています。

●青バジャイへの転換と四輪車化

ジャカルタ市民の足として親しまれてきたバジャイですが、ガソリンを燃料として走るため、排気ガスが環境汚染につながるとして、燃料をガソリンから圧縮天然ガス(CNG)へ替える動きが進んでいます。

燃料をCNGに転換した青バジャイ。(出所)https://www.merdeka.com/uang/dulu-bajaj-diharuskan-pakai-bahan-bakar-gas-sekarang-terlupakan.html

2007~2012年のファウジ・ボウォ州知事(当時)の時代に、「青空プログラム」(Program Langit Biru)の下、バジャイや市バスのCNGへの転換が打ち出されましたが、2008年時点でCNGへ転換したバジャイはわずか500台でした。CNGステーションの数がまだまだ少ないことがその原因でした。

CNGへ転換したバジャイのボディの色は、以前のオレンジ色から青色へ変わりました。「青バジャイ」(Bajaj Biru)とも呼ばれます。青バジャイ化は2014年に5,000台、2015年に2,000台と進められ、2016年内にすべてのバジャイを青バジャイにすることが定められました。それでも、CNGステーションの拡充はスムーズに進まず、青バジャイの運転手にはガソリンを入れて走っている者も少なくないようです。

そして、バジャイをオート三輪から四輪車へ替える動きも進んでいます。バジャイ・キュート(Bajaj Qute)と呼ばれる車体で、2012年にインドのバジャージー・オート社が発表したBajaj RE60を輸入しています。バジャイ・キュートはCNG利用でエンジンは216 cc、最高時速70キロで走りますが、ガソリンも利用できる構造になっています。

バジャイ・キュートは、従来のバジャイ1台につきバジャイ・キュート1台で代替、という形で導入されているため、急速な普及には至っていませんが、少しずつ認知されているようです。実は、2000年代に、このバジャイ・キュートと同じような国産車「カンチル」(Kancil)が開発されていました。鉄道車輛製造の国営企業であるPT. INKAで組み立てが行われ、バジャイの代替として期待されましたが、バジャイの運転手がカンチルを好まないなど、市場開拓が思うように進まず、バジャイ・キュートに遅れをとっているのが現状のようです。

青バジャイ(左)とバジャイ・キュート(右)。(出所) https://www.liputan6.com/otomotif/read/3034835/selain-bemo-angkutan-umum-ini-calon-dimusnahkan

カンチル。(出所) https://www.liputan6.com/news/read/90545/kancil-melaju-di-jalan-jalan-ibu-kota

(以下に続く)

  • 1年余で消えていったトヨコ
  • バジャイと同様に期待され、消えていったヘリチャ
  • バジャイもいずれ消えてゆく運命なのか
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