よりどりインドネシア

2022年05月23日号 vol.118

新型コロナワクチンのハラール認証問題(松井和久)

2022年06月07日 01:01 by Matsui-Glocal
2022年06月07日 01:01 by Matsui-Glocal

2022年4月14日、インドネシア最高裁判所は「政府はイスラーム教徒に対してハラールの新型コロナワクチンを用意する義務がある」との決定を下しました。この決定は、同年2月7日、インドネシア・ムスリム消費者財団(Yayasan Konsumen Muslim Indonesia: YKMI)という団体から出されていた異議申立を認めるものでした。

インドネシア・ムスリム消費者財団は、ワクチン準備とワクチン接種に関する大統領令(Perpres)2020年第99号がハラール製品保証に関する法律2014年第34号に反するとの異議申立を最高裁判所に起こしました。

具体的には、(1)当該大統領令が宗教大臣を関与させずに策定されたこと、(2)インドネシア・ウラマー協議会(MUI)がハラーム(Haram:禁断)としたアストラゼネカのワクチン及びハラール認証をまだ受けていないファイザーとモデルナのワクチンの使用を認めていること、(3)MUIによるハラール認証を受けたジフィヴァックス(Zifivax)の使用を認めていないこと、(4)ハラーム製品を忌避するイスラーム教徒の権利を侵害したことを理由に、当該大統領令の撤回を求めたものです。

MUIがファトワ(宗教見解)を出してハラール認証した新型コロナワクチンは、現在までに4件です。すなわち、ファトワ2021年第2号に基づくシノバック(Sinovac)、2021年第53号に基づくジフィヴァックス(Zifivax)、2022年第8号に基づくメラプティ(Merah Putih)、2022年第9号に基づく北京生物学的製品研究所(BIBP: Beijing Institute of Biological Products Co.Ltd)です。この4件のうち、メラプティは国産ワクチンで、そのほかの3件は中国製のワクチンです。

他方、ハラール認証を受けていないファイザー、モデルナ、アストラゼネカの新型コロナワクチンの使用をMUIが認めているのは、緊急事態であるため、との理由です。国家食品医薬品監督庁(BPOM)が緊急使用許可を出しています。

ハラール認証された4件のうち、実用化されているのはシノバックのみです。シノバックのワクチン導入の背景については、過去に『よりどりインドネシア』第86号(2021年1月22日発行)の以下の拙稿をご参照ください。 

 新型コロナワクチン接種は拙速だったか(松井和久)https://yoridori-indonesia.publishers.fm/article/23582/

そこでも書きましたが、シノバックのコロナワクチンの臨床実験での有効率は65.3%と発表されたものの、その根拠となる被験者数がわずか1,620人で、うち540人のみを分析対象としました。新型コロナ感染拡大という緊急事態で急いており、当時確保できるワクチンがシノバックだけだったという事情も踏まえれば、政治的決断だったと解釈できます。そして、シノバックのワクチン利用を認めるのと合わせて、ほぼ同時期にMUIからシノバック製ワクチンに対するハラール認証が出されたのでした。筆者は、このプロセスは拙速だったのではないか、という疑問を上記拙稿で提示しました。

それにしても、インドネシアはなぜ、新型コロナワクチンのハラール認証にこだわるのでしょうか。イスラーム教徒の立場からすれば、もちろん、ハラール認証を受けた製品であることの安心感は必須でしょう。しかし、世界のイスラーム教徒の多い国々では、感染拡大を抑える目的で、ハラール認証を求めないのが多数派となっています。

たとえば、マレーシアは、2020年末に「新型コロナワクチンはハラールである必要はない」と表明しました。アラブ首長国連邦(UAE)、サウジアラビア、エジプトなどでも、同様の表明がありました。こうした各国と比較すると、ワクチンのハラール認証を求めるインドネシアは、世界で最も厳格なイスラームというイメージを漂わせます。

最高裁判所の「政府はイスラーム教徒に対してハラールな新型コロナワクチンを用意する義務がある」との決定に見られるように、インドネシアが新型コロナワクチンのハラール認証をこれほどまでに重視するのはなぜなのでしょうか。それほど、今のインドネシアにイスラーム主義の影響が強まっていることの現われなのでしょうか。そうだとすると、イスラーム主義の浸透に批判的な闘争民主党の国会議員や政治家が、こぞって新型コロナワクチンのハラール認証に積極的な姿勢を示していることは、いったい何を意味しているのでしょうか。

最高裁判所決定は司法上の最終決定であり、政府はそれに従わなければなりません。そして、この決定は、おそらく現在のワクチン接種の進め方や進み方に影響を与えるだけでなく、新型コロナ以外のワクチンや他の医薬品についても適用される可能性が高いと見られます。ハラール認証を強いることで、結果的に、助けられる命も助けられなくなってしまうのではないか、という心配さえも出てきます。

以下では、新型コロナワクチンのハラール認証問題について、それが純粋に医学的・宗教的な見地から対応されたものではない可能性を検討していきます。

シノバックの新型コロナワクチンが神聖でハラールだと訴える情報通信省のポスター。(出所)https://diskominfo.kaltimprov.go.id/berita/vaksin-covid-halal-dan-aman-masyarakat-tenang

●新型コロナワクチンがハラールか否かの判断

インドネシア・ウラマー協議会(MUI)はどのような基準で新型コロナワクチンがハラールか否かを判断しているのでしょうか。

実はそれは簡単です。ワクチンの製造工程で豚由来の原材料を少しでも使ったものはハラームである(ハラールではない)、と判断しているのです。

筆者はワクチン専門家ではないので詳細は省きますが、ワクチンの製造では、豚由来の原材料が使われる部分が少なくとも2つ考えられます。第1に、ワクチンの大量生産に必要な増殖期の細胞培養において、通常、豚の膵臓から抽出されたトリプシン酵素が使われます。このトリプシン酵素は、精製プロセスを経て最終製品では一切残留物がなくなります。第2に、豚由来のゼラチンがワクチンの安定剤として使用されます。

MUIは、たとえ精製プロセスで一切なくなったとしても、豚の膵臓から抽出されたトリプシン酵素を使用した時点でハラームである、という見解を示しています。ということは、世界中のほとんどのワクチンはハラール認証を受けられないことになります。豚由来のゼラチン使用についても、安定剤として優れていたとしても、ワクチン自体に影響を及ぼさなくとも、製造工程で使ったことでハラールとはいえない、というのがMUIの立場です。

この話は、2001年の味の素事件の話を思い出させます。それは当時、味の素の原料に豚肉が使用されているという噂が流れ、材料としての豚成分の使用はなかったものの、発酵菌の栄養源を作る過程で触媒として豚の酵素を使用していたために、現地法人の社長が逮捕され、味の素が市場から回収された事件です。味の素側の詳しい説明は以下のページに示されています。 

 インドネシアにおけるハラール問題について(味の素株式会社)https://www.ajinomoto.co.jp/company/jp/presscenter/press/detail/2001_01_06.html

2018年、MUIは、麻疹・風疹ワクチンがハラールではないとの見解を示したことで、多くの人々がワクチン接種を拒み、政府の接種プログラムが失敗したことがありました。これもあって、インドネシアでは麻疹・風疹の流行がなかなか収まらず、日本政府がインドネシアへ渡航する邦人へ感染への注意を喚起する事態となっています。保健省は再度、今年2022年から麻疹・風疹ワクチン接種プログラムを進める計画です。

新型コロナワクチンでは、アストラゼネカ製のワクチンがその製造工程で豚由来酵素が使用されたとして、MUIはハラームと認定しました。また、ファイザーとモデルナについては、まだハラールであるとの確証を得ていない、としています。

世界市場での見解によると、ファイザー、モデルナ、アストラゼネカは少なくとも豚由来のゼラチンを安定剤としては使っていないとされています。他方、中国のシノバック、シノファーム、カンジノのワクチンについては、豚由来のゼラチンを使用しているかどうかの公式発表がなく、宗教関係者が懸念している、とのことです(出所:https://health-desk.org/articles/are-there-any-covid-19-vaccines-that-use-pig-fat-or-pork-products

もしこの世界市場での見解が正しければ、なぜMUIは公式発表のないシノバックをハラール認証できたのでしょうか。むしろ、MUIは世界に向けて、シノバックのハラール認証の根拠を示すことで、世界中のイスラーム宗教関係者の不安を取り除くことができるのではないでしょうか。シノバックの販路拡大にも貢献できます。でも、なぜMUIはそれをしないのか。

MUIはハラール認証の根拠を一切明らかにしていません。ワクチンの製造工程でどのような原材料を使ったか、酵素や触媒も含めて一つ一つ細かく検証したのかどうか、大きな疑問が生じます。しかし、MUIはハラール認証を下せるインドネシアで唯一の機関であり、その根拠であり、アッラーの声でもあるファトワ自体の正当性に疑義を呈することは、通常、あり得ないことです。逆に言えば、MUIが何らかの政治的意図をもってファトワを出すことは十分に考えられます。

以上のように考えてくると、MUIによる新型コロナワクチンがハラールか否かの判断については大いに疑問です。そして、実際、その裏側には政治的な動きがあったと考えざるを得ない事象が見られたのでした。それは、ハラール認証されたのに使用を認められていないジフィヴァックス(Zifivax)をめぐる動きに現れています。

(以下に続く)

  • ジフィヴァックス(Zifivax)をめぐる動き
  • インドネシア・ムスリム消費者財団とは
  • ハラールの新型コロナワクチンは何をもたらすか
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