断食明け大祭が過ぎました。断食明け大祭レバランは、イスラム教徒の祝賀日というだけでなく、ここで生活する全ての商売人にとっても一つの区切りとなっています。買い付けの際のツケや個人間での借金などを、レバラン前までに清算するのがエチケットとなっているからです。
レバランで「私の間違いをどうか許してください」と挨拶をして罪を清算するように、お金のわだかまりも解消しておくべきだとされています。人々が聖なる月に浮き足立つ時期は、実は借金取りがあちこちへ忙しく動き回る時期でもありました。
しかし、そうは言っても、全員が全員きちんと完済できるわけではありません。特にコロナ禍以降は、身の回りでお金関係のトラブルもより一層増えたように感じています。
お金とはなんなのか?お金は誰のものなのか?お金をめぐる捉え方を考えていきます。田舎の共同体において、富のあり方は実はあまり境界線がハッキリしたものではないのかもしれません。
●お金はみんなで貯める
村で暮らしていて、住民同士がお金をやり取りする機会は大別して4種類あります。
まず、商店での買い物など、お金と物品を交換するもの。
次に、大工仕事や農作業、散髪やマッサージなど、なんらかの労働に対し報酬として支払うもの。
冠婚葬祭にて特定の人/家に対しお祝いやお悔やみとして渡すもの。
そして、アリサンや地区会の活動費など、特定のグループ内で徴収されるもの、です。
4つ目のものは、アリサン(無尽講)なら再分配され、活動費なら自分たちの暮らしのどこかに使われることになります。これらを徴収するのは、それぞれのグループで会計係に任命された人です。会計係が集めたお金を管理し、決められた目的に沿って運用します。
毎月のアリサンの様子
ところで、会計係とは皆のお金を託すのに信用できる人が選ばれるものだという認識かと思います。ここでももちろんそうですが、意味するところは少し異なります。集まったお金に手をつけないことが求められるのではありません。手をつけたとしても、目的の期日までにきっちり同じ金額を揃えられればそれでいい、というのが暗黙の了解です。
一度、こんなことがありました。
とあるグループで積み立て貯金をしていたのですが、それが解約され配られる日、待てども待てども会計係が来ない。やっと現れたと思ったら、どうにも数人分足りない。どうやら、積み立て金を使い込んだものの、その分を補填できなかったようです。結局、足りなかった数人にはどれくらいの金額が足りていないかのメモを渡し、後日それらが支払われました。
この件で、使い込んだことを責める人はいませんでした。なぜなら、多少遅れはしたものの、結局全員にちゃんと預金した金額が戻ってきたからです。終わり良ければ全て良し、です。
みな物資不足や経済的に苦労する時代を経験してきた者同士。それに親やその前の代からの付き合いがあり、そしてこれからも関係が続いていく間柄です。そこには信頼があり、信頼を保つための忍耐も必要となってきます。
インドネシアは国民の銀行口座の保有率が約50%だと言われています。電子マネーなどの利用が進む一方、銀行などとは縁のない、いわゆるタンス預金派も根強いものがあります。ウォノソボでもとくに農村ではそれが顕著で、むしろ、支払いは現金でなければ受け付けない、という農家も少なくありません。そのため、仲買人がバッグいっぱいの札束を持って商品の買い付けに訪れる姿が見られることも。
多額の現金は、高価な装飾品や車などに替え、またお金に困るようになったらそれらを売ってお金にするといったことも一つのライフハックです。インドネシアでは中古車の需要が高く、多少年数が経っていてもそれなりの額で売れるからこそできることかもしれません。
毎月決まった金額が給料として入るという生業の人はごく限られており、それですら、今年の県の最低賃金は月額193万1,285ルピアです。
ちなみに州都であるスマラン市は283万5,021ルピア、ジョグジャカルタ市は215万3,970ルピア。中部ジャワ州は全体的に他地域より低い傾向にあり、西ジャワ州の州都バンドゥン市は377万4,860ルピア、東ジャワ州の州都スラバヤ市は434万5,479ルピアとなっています。最低賃金はあくまで企業の指標であり、インフォーマルセクターなどはその保障の限りではありません。
アリサンのように、一度にまとまった額が手に入るシステムは、そうした生活をサポートするものとして機能しています。最終的に齟齬がなければそれで良く、融通が利く運営がなされているのは、無理せず持続できることが最も重要視されているからだといえます。
(以下に続く)
- 激烈なインフレのなかで
- 貸し借りと喜捨
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