よりどりインドネシア

2021年09月22日号 vol.102

食彩インドネシア(1):インドネシア料理への素朴な疑問集(松井和久)

2021年09月22日 21:10 by Matsui-Glocal

●はじめに

食との出会いは一期一会。これは私の人生における信条のひとつです。人間は生きるためには食べなければなりません。でも、自動車に入れるガソリンや電気のように、ただ食べればいいというものではないと思うのです。楽しく食べる、美味しく食べる、その時々の食べた記憶が人生の一部になるはずです。

私のアジアとの付き合いももう36年になりますが、途中で飽きることもなく続いているのは、インドネシアをはじめとする様々な食との出会いです。とくに、アジアに関しては、学問的な興味・関心は別として、いや、それ以上に、食の魅力が私をアジアに惹きつけてやまないと心底思います。

実際、アジアだけでなくアフリカも含めて、これまで行った場所で食べた料理で、これは無理とか二度と食べたくないとか感じた料理は、幸か不幸か、皆無でした。単に運がいいのか、たまたまなのかは分かりませんが。

1985年8月、インドネシアに初めて着いた翌日の朝、西ジャワ州チマヒ郊外のインドネシア語の先生宅で食べたクパッ・タフ(豆腐をココナッツミルクのスープに入れたもの)の味は忘れられません。こんなに不味いものがあるのか、と。ところが毎朝、クパッ・タフを食べ続けていると、数日後には朝食ならクパッ・タフでなきゃ、という状態に変わってしまうのです。無理しているわけではなく、順応性が高いのかもしれません。そして、クパッ・タフが思い出の料理となり、急に食べたくなったりするのです。

このクパッ・タフを皮切りに、これまで36年間、様々なインドネシア料理と出会い、食べてきました。「食との出会いは一期一会」をモットーに、たとえ満腹でも、もうその料理と出会えないかもしれないと思えば、いかなる時も食べました。一日5食を食べる日もありました。

こうして、自分の体を人体実験場にしながら、インドネシア滞在中にコレステロール値が大きく上がり、帰国時の検診で日本の医者に「上位5%に入る値」と言われて大きく落ち込んだものの、再びインドネシアで食べまくる、という日々を送りました。それから今に至るまで、高脂血症とは長い付き合いになりました。食べる量を半分にし、炭水化物をとらない生活を一週間続けたことがありましたが、なぜか指の震えが止まらなくなり、ペンで文字がちゃんと書けない状態になりました。さすがにこれは危険だと悟り、前のように食べ始めたら、すぐに治りました。それ以来、また食べ続けています。

36年もインドネシア料理を食べ続けていると、時代とともに料理が変化してくるのが分かります。かつてあった料理がなくなったり、逆に新しい料理が生まれたり、元の料理のバリエーションが増えたり、違う形態へ変化したり、同じ名前の料理でも地域によって似ても似つかぬものであったり、私が見てきただけでも、インドネシア料理は36年間で多種多様な展開を見せました。

その背景には、3つの要素があります。第1に、経済発展が進んで、人々が過去よりも豊かになってきたことです。食べるだけで精一杯だった日々から、どうせ食べるならば美味しいものを食べたいと選択できる日々へ変化したことで、食が単一のものからバラエティに富むものへ変わる契機になりました。

第2に、人々が自由を享受できるようになったことです。32年にわたり中央集権だったスハルト政権下では、言論の自由は制限され、出自や所属社会によって人生が運命付けられてしまう空気が濃厚でした。1998年5月にスハルト政権が崩壊し、民主化が始まると、インドネシア料理に様々な新しい試みが生まれ、シェフやパティシエなどが若者の新たな職業選択先として認知されるようになりました。若者たちが起業する動きも多くなり、小食堂やレストランの起業が人気となりました。

第3に、スハルト政権崩壊後の地方分権化の動きです。食の革新の動きがジャカルタなどの大都市に限らず、地方でも起こり始めました。そして、消滅していた地方のローカル伝統食が見直されて復活し、そのオーガニック的な価値を認める風潮も相まって、地方グルメブームが起きました。コーヒー、お菓子、ケバブなどのフランチャイズ・フード起業が地方都市から始まり、一部は全国展開、東南アジア展開へと拡大しました。

インドネシア料理をめぐる食の革新は、逆に言えば、その盛衰の激しさを加速させてもいます。新規参入者が増えて競争が激化するとともに、新製品の開発競争も熾烈です。簡単に起業・参入できる一方で、継続的にビジネスを発展できずに撤退するケースも多くなってきます。それでも、固定客を確保し、名声を得た飲食店や料理は生き残っていくことでしょう。

この連載では、様々なインドネシア料理の歴史や文化などを少し掘り下げて、現在に至るインドネシア料理の意義を確認していきます。その際に、地域的な広がり・相違を横軸に、歴史的な変化・継続を縦軸にしながら、インドネシア料理の豊かな世界を俯瞰していきたいと思います。今のところ、ソト、パダン料理などから始める予定です。連載は不定期に行います。

第1回は、私がこれまでに感じたインドネシア料理にまつわる幾つかの疑問を提示し、それを少し考えてみたいと思います。

●ナシゴレンはどこから赤くなるのか?

インドネシア料理で最も有名なのはナシゴレンでしょうか。皆さんのナシゴレンのイメージは、どんなものですか。ジャカルタ周辺では、ケチャップ・マニスを使った薄黒色または焦げ茶色のナシゴレンでしょう。市販のナシゴレンの素を使えば、ほとんどすべてがこの色のナシゴレンになります。

でも、マカッサルでナシゴレンを頼むと、赤いナシゴレンが出てきます。ナシゴレンは薄黒色または焦げ茶色と思っていた私は、最初にマカッサルで食べた時にびっくりしました。赤い、真っ赤。

マカッサルのナシゴレン(2015年6月4日撮影)

そこで疑問が湧きました。一体、ナシゴレンはどこから赤色になるのか、と。昔、バリで食べたナシゴレンも赤かった記憶があります。それで、マカッサル海峡、バリから東に行くとナシゴレンは赤くなる、という仮説を立てました。

それはあっさり否定されました。スラバヤの若者に人気の食堂「ポジョック」で出てきた大盛りナシゴレンは赤かったのです。でも、スラバヤの他の店では薄黒色または焦げ茶色のナシゴレンが出てきます。どうやら、スラバヤが薄黒色または焦げ茶色と赤色の境なのではないか、との仮説になりました。

マカッサルのナシゴレンの赤色は、トマトソースの赤でした。トマトソースといっても日本のトマトケチャップとは違い、もっと濃い色の赤で添加物が多々入っているものです。マカッサルでは、ナシゴレン・プティといえば中華風の揚州炒飯が出てきますが、ナシゴレンだけだと赤いナシゴレンが出てきます。赤いのを所望するときはナシゴレン・メラと言って注文することもできます。

近年では、マカッサルでも、ナシゴレン・ジャワ(またはナシゴレン・ジャカルタ)というメニューも見かけます。これはまさに、ジャカルタなどでおなじみの薄黒色または焦げ茶色のナシゴレンでした。ちなみに、ジャカルタでもスラバヤでも、ナシゴレン・ジャワという言い方は聞きません。

タンゲランのスカルノハッタ国際空港で食べたナシゴレン(2014年12月27日撮影)

なお、インドネシア東部地域でも、どこでもナシゴレンが赤いわけではないようです。ジャワ人の店では薄黒色または焦げ茶色のナシゴレンが出ます。というか、ナシゴレンやミーゴレン自体、食べられるのはせいぜい県都ぐらいまでで、それ以外はほとんど見かけなくなり、ご飯、スープ、肉か魚、という定食スタイルが一般的になります。

スマトラでも、都市部を除いてナシゴレンはあまり一般的ではなく、様々なおかずが並ぶ、食べた分だけ支払うパダン料理スタイルが普通になります。そう考えると、ナシゴレンは都市部で食べられる料理であり、主に都市部に住む華人系のための中国料理という背景を如実に示しているように感じます。

(以下に続く)

  • ナシ・クニンはいつ食べるのか
  • ジャカルタとスラバヤのガドガドは違う
  • ソト・アヤムとご飯は別々にするか、一緒にするか
  • 鴨は以前、中華料理だけで食べられた記憶
  • チョト・マカッサルにケチャップ・マニス
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