よりどりインドネシア

2020年12月22日号 vol.84

消えた詩人(太田りべか)

2020年12月23日 17:30 by Matsui-Glocal
2020年12月23日 17:30 by Matsui-Glocal

2020年10月29日から11月8日まで、Ubud Writers & Readers Festival: KEMBALI 2020がオンラインで開催されていた。そのプログラムの中に作家のエカ・クルニアワン(Eka Kurniawan)氏のインタビューがあり、インタビュアーがエカ氏に、昨年教育文化省からの「2019年度文化伝統芸術匠賞」受賞を拒否した経緯について尋ねていた。

2019年10月にエカ氏が同賞の受賞を拒否した際、その理由として、エカ氏は自身のFacebookアカウントや『コンパス』紙デジタル版の記事で、現政権は言論の自由や著作権や出版・書籍販売活動を守る意志がなく、出版や文筆に携わる人々の支援になんらの関心も持っていないことなどを挙げている。

KEMBALI 2020のインタビューでは、口頭であり英語だったこともあって、もっと直截に、「授賞は政府のリップサービスに過ぎない」と切り捨てている(ちなみに2018年アジア競技会の金メダリストへの政府からの報奨金は15億ルピア、銅メダリストは2億5,000万ルピアだったのに対し、「2019年度文化伝統芸術匠賞」の賞金は5,000万ルピアだったそうだ)。

そして言論の自由や出版・著作活動に携わる人の人権の保護に対する政府の関心の低さの例として、“消えた詩人”ウィジ・トゥクル(Wiji Thukul)の件に言及していた。1998年の反政府デモと暴動以降消息を絶ったウィジ・トゥクルについて、文筆家たちが連名で現政権に調査を要請し、政府もウィジ・トゥクルの一件を含めたスハルト政権時代の人権侵害についての調査を公約したにもかかわらず、なんの進展も見せていない、と。

「あるのはただひとこと。抗え!」(hanya ada satu kata: Lawan!)というフレーズで名を馳せ、詩人としての創作活動よりもむしろ社会活動家として知られていたウィジ・トゥクルは、1996年以降当局にマークされて潜伏を余儀なくされ、1998年のスハルト退陣前後の混乱期を最後に消息不明となる。その生死は今も知れない。

ウィジ・トゥクルは、どんな詩を書いていた人だったのだろう。週刊誌『テンポ』が取材記事をもとに編集した「新体制の暴風」シリーズ第1冊『ウィジ・トゥクル ― 消えた詩人の謎』(Wiji Thukul: Teka-teki Orang Hilang)と、ウィジ・トゥクルの全詩集『草の根の唄』(Nyanyian Akar Rumput)に拠って、消息を絶つまでの詩人の足取りをたどってみたい。

●ベチャ漕ぎの息子

1963年8月26日、中ジャワ州ソロに生まれる。本名はウィジ・ウィドド。三人兄弟の長男として、カトリック教徒の質素な家庭で育った。父親はベチャ漕ぎだった。学校へ行きながらも、家計を助けるために映画のチケットのダフ屋などをして働き、国立中学校卒業後、ソロのインドネシア・カラウィタン(ガムラン)高等学校舞踊科に入学する。

ランプは灯さねばならず、灯すには油がいる

腹は満たさねばならず、満たすには中味がいる

でも父ちゃんはただのベチャ漕ぎ!

 

だから家宝のベチャが金を持たずに

帰ってきたら

母ちゃんはまた父ちゃんに喧嘩をふっかける

 

(「ベチャ漕ぎの唄」(1984年)より)

●ラウとの出会い

高校在学中に、教会でキリスト誕生物語の劇を上演することになり、そこでウィジはラウ・ワルタと出会う。ラウは、1970年代に詩人レンドラが率いるベンケル劇団の団員として活動していたことがあり、ソロのウィジの住む村の隣村でジャガット劇団を主宰していた。1981年、ウィジはジャガット劇団に加わった。

そこでラウはウィジに新しい名を与えた。ウィジ(wiji = biji:種)・トゥクル(thukul = tumbuh:育つ)である。以来、ウィジは本名のウィドドを捨ててウィジ・トゥクルを名乗るようになる。

劇団の活動に打ち込み、頻繁にラウの家に出入りするようになったトゥクルは、高校を中退する。一つには経済的な事情が理由だった。家具屋でニス塗りの仕事をすることになったが、仕事のほうにはあまり熱心ではなかったようだ。

ラウは演劇だけでなく、音楽や文芸などの活動でも近隣の若者たちを教え導いた。トゥクルの場合は音楽も踊りもだめで、「r」がうまく発音できないこともあって、滑舌もひどかった。けれどもラウは、トゥクルに詩作の才能があることに気づく。それからラウはトゥクルに詩を書くよう仕向けた。さらに発音と発声についても、厳しく特訓した。滑舌の悪さをからかわれてきたせいか引っ込み思案だったトゥクルも、次第に自信を持って人前で話せるようになってきた。ラウは、団員の若者たちに度胸をつけさせるために、近隣の村々を回って流しで自作の詩を朗読させた。そういった活動を通して、相変わらず「r」はうまく発音できないままだったが、トゥクルは臆せず人前で話したり詩を朗読したりできるようになった。

詩作にも熱心に取り組み、紙に書いた詩を劇団の溜まり場の掲示板に貼ったり、音楽の伴奏をつけてもらって仲間の前で朗読したりした。ラウによると、当時のトゥクルの詩は自身や身の回りのことを主題にした内省的なものが多く、批判や風刺を含んでいることもあったが、政治臭はなかったという。このころの初期の作品は残っていない。

1981~82年にかけてソロで放送されていたラジオ番組の「詩の部屋」のコーナーにも、トゥクルは熱心に詩を投稿した。同コーナーでインタビューをされたとき、トゥクルは「自分にとって詩を書くことは、神に近づくために教会やモスクへ行くのと変わらない行為だ」と話したという。

このころ、劇団の仲間と牛の糞に生えるマジックマッシュルームを採って、ナシゴレンや卵焼きに混ぜて食べていたという逸話も残っている。

●はじめての詩集

1985年ごろ、トゥクルはソロの中部ジャワ芸術センター(PKJT)から、はじめての詩集『ペロの詩』(peloはr音が正しく発音できないこと)を発行する。謄写版印刷20ページほどの小冊子だった。

当時PKJTは若者たちの劇団や詩の朗読などの発表の場「ミニ・ステージ」フォーラムを運営していて、トゥクルもそこでの発表や討論に積極的に参加していた。当時の運営者シリヤントによると、若者たちの中ではトゥクルがもっとも目立つ存在だったという。

1985年、PKJTは謄写版印刷機を入手した。そこへトゥクルが詩を書きつけた紙束を持ってやってきて、それを印刷してほしいと頼んだ。シリヤントは引き受け、無料で印刷した。100部ほど刷った『ペロの詩』を携えて、トゥクルは詩の朗読の流しをしながらソロの街を巡った。詩集は無料で配ることもあり、売ることもあった。シリヤントによると、『ペロの詩』に収められた詩は、ラジオ番組に投稿していた初期のころの作品に比べると、社会批判なども取り上げるようになっていたが、まだ政治的な要素は見られなかったらしい。

やはり1985年、トゥクルはインドネシア・カラウィタン芸術アカデミーの仮面芸術コースを受講している。試験的に開講された1年間のプログラムの一つで、無料で受講することができた。そこでトゥクルは、伝統的なものからコンテンポラリーなものまで、仮面製作の理論と実践を学んだ。

(以下に続く)

  • 社会問題への目覚め
  • 結婚
  • JakerとPRD
  • 逃避行
  • 1998年
  • その後

 

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