よりどりインドネシア

2023年08月07日号 vol.147

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第67信 結婚はしたけれど ~正妻の座と商号を賭けた料理バトルコメディ『何でも一緒』~(轟英明)

2023年08月07日 22:42 by Matsui-Glocal
2023年08月07日 22:42 by Matsui-Glocal

横山裕一様

今回紹介するドラマシリーズ『何でも一緒』(Saiyo Sakato) ポスター。一夫多妻とパダン料理とミナンカバウ社会の母系制を絶妙にミックス。名脚本家ギナ・S・ヌルの意欲作。imdb.comから引用。

7月も8月も、東京首都圏のみならず日本全国各地でうだるような暑さが続いています。東京での日中最高気温が37度近いとか、ギラ!(gila, クレイジー!)と叫びたくなる猛暑です。今少し涼しいであろうインドネシアへ帰りたいなあと想う毎日を過ごしています。

さて、前回第65信では少し言及しただけで、執筆時には全編を観終わっていなかった『永遠探しの3日間』(3 Hari Untuk Selamanya)を先日ようやく全編観終わりました。主人公二人に共感する要素が私にはほとんどないと前回書きましたが、2000年代のインドネシア映画界を牽引したリリ・リザ監督作品だけのことはあり、ロードムービーとしては上出来の構成であると改めて感じました。ラストシーンでの再会した二人の間に漂う気まずさが非常に秀逸で、タイトルのselamanya「永遠の」が皮肉のようでもあり、なかなか忘れがたい終わり方です。ただ三点ほど気になったことがあり、以下追記します。

まず前回も指摘したアディニア・ウィラスティ演じるアンバルがバタック人と設定された点についてです。横山さんは見落とされていたようですが、彼女が英国留学についての書類をチラっと見る場面にはっきりAmbar Napitupuluと名前が書かれています。ナピトゥプルはトバ・バタック人の氏族名です。しかし、今回じっくり見直したものの、彼女がバタック人と設定された理由は、実のところ判然としませんでした。より正確を期せば、彼女の母親は自分が名家の出身であることに誇りを持っている富裕なジャワ人なので、父親がトバ・バタック人なのでしょう。つまり彼女はジャワとバタックのミックスというわけです。が、映画内ではこの点が強調されることはありません。ジャワ島内のロードムービーなのに、なぜ彼女をバタック人ミックスにわざわざ設定する必要があったのか、その理由は明確に示されません。なお、前回私は早合点して、ニコラス・サプトラ演じるユスフもアンバル同様バタック人と書いてしまいましたが、彼をバタック人と見なせる描写は皆無なので、おそらく彼はジャワ人なのでしょう。少なくともバタック人ではなさそうです。ここに訂正いたします。

あくまでひとつの仮説にすぎませんが、アンバルをバタック人ミックスという設定にしたのは、ジャワ人とバタック人の狭間にあることに起因するアイデンティティ・クライシスが彼女の悩みの根源にはあるから、なのかもしれません。ただ、物語内ではありきたりなバタックらしさやジャワらしさは特に明示されないので、だいぶ根拠の薄い仮説ですし、そもそも彼女の悩みというのも有閑階級特有の贅沢なものと突き放して見ることも可能です。

「インドネシアの大学はレベルが低い!」と言い放つスノッブな台詞が象徴的なように、彼女は物質的に何不自由ない恵まれた生活環境にあります。それゆえ、民家での宿泊直後にはいとこのユスフから「世間知らずの甘ったれ」と評されてしまうのですが、その後彼女は泣きながら自分は甘ったれなんかじゃないと否定し、自分の人生をどう生きればいいのか迷っていることも明かします。

実際甘ったれた、何とも贅沢な悩みには違いありませんが、しかしこれは前回私が推したガリン・ヌグロホ監督のデビュー作『一切れのパンの愛』(Cinta dalam Sepotong Roti)とも共通するテーマです。物質的に豊かな世代特有の悩み、すなわち精神的な欠落感をどうやって埋めていくのか、その過程に焦点をあてることにリリ・リザ監督の関心はもっぱら向いており、その原因や結末にはさほど興味はないのでしょう。そういえば、私が失敗作と評価する、第5信で取り上げた『フンバ・ドリームス』(Humba Dreams)も途中で映画制作という目的そのものは放棄されてしまい、自分のルーツに(中途半端に)回帰する話でしたね。

ところで、「甘ったれ」のアンバルは恋愛とセックスにおいて自由奔放に振舞っていて、それはすでに長くベッドを共にしていないにもかかわらず、自分の娘(アンバルの姉)には性的関係にある男性との結婚を強要する両親の偽善ぶりに対する反動のようでもあり、奥手そうな年上のユスフをからかう素振りも見せます。一方で、そうした自分の行為に虚しさも感じているらしく、それが後半でのマリア像への告白につながっています。このあたりのアンバルの心理描写の細やかな変化こそが本作の一番の見どころで、青春ロードムービーとしての完成度が高いことに疑問の余地はありません。

繰り返しとなりますが、『永遠探しの3日間』は、ジャワ人母とバタック人父を持つミックスだから「自分探し」「永遠探し」をするという描き方は全くしていません。その代わり、インドネシアに馴染みのない外国人観客にも伝わりやすい、豊かな世代特有の普遍的な悩みを描くことには成功していると言えます。

『永遠探しの3日間』(3 Hari untuk Selamanya)ポスター。imdb.comより引用。

さて、もう1つ気になったのは、仮面夫婦であるアンバルの両親のうち父親はほとんど描写されない一方で、母親は甥であるユスフに実家由来の貴重な食器の輸送を託した点です。実の娘アンバルは運転できるのだから彼女に頼めばいいのに、わざわざ甥に頼むのは何故なのか。ジョグジャカルタ到着後のアンバルの母親とユスフの会話場面においても、アンバルの母親は実の娘よりも甥のほうに信頼を置いているように見えてしまいます。一体なぜ?

以下、完全に私の深読みですが、女子よりも男子を尊ぶバタック人夫の価値観を内面化している母親は、もし甥が自分の息子であったなら、という願望ゆえに大事な食器の輸送をユスフに託したのではないでしょうか。バタック人の価値観云々は置いといても、本当は息子が欲しかったのに娘を二人産んだ現実に納得していないという設定はありえそうです。実際、険悪とまではいかないにせよ、自分の娘との関係がさほど良好ではないことは、ラストシーンでアンバルの姉が母親に放つ「母さんはいつ結婚したの?(するの?)」という台詞が示すとおりで、母親は憮然とした表情でその場を立ち去ります。

また、アンバルとユスフはいとこの関係と設定されているだけで、父親同士母親同士の関係性は明らかではないものの、ユスフの父親がユスフに厳命している様子からはアンバルの母親の兄がユスフの父親であると推測されます。ここでトバ・バタック族において「母方交差イトコ婚」が理想的な婚姻であることを思い起こすなら、アンバルとユスフが旅の終わりに肉体関係を結ぶのは理に適っているように錯覚しそうになります。もっとも、伝統を重んじ気位の高いアンバルの母親がバタック人と結婚したからと言ってもジャワ人であることには何ら変わりなく、その意味で疑似「母方交差イトコ婚」が一夜限りの関係に終わるのは自然なことと言えなくもありません。

このように本作は基本的には青春ロードムービーの体裁をとりつつ、合間に見せる家族関係の描写にはそれなりの奥行きが感じられます。細かい設定をいろいろ推測してみたくなるのも、本作の魅力のひとつと言えそうです。

最後の三点目。気になったのは内容そのものではなく横山さんから指摘されたタイトルについてです。どうやら横山さんは私が自分で『永遠探しの3日間』と日本語題をつけたように勘違いされているようですが、前回言及したように同作はアジアフォーカス・福岡国際映画祭で上映済み、福岡市図書館にフィルムが収蔵されており、国立映画アーカイブのホームページにも『永遠探しの3日間』と記載されております。

https://www.nfaj.go.jp/event/%e6%b0%b8%e9%81%a0%e6%8e%a2%e3%81%97%e3%81%ae3%e6%97%a5%e9%96%93%ef%bc%88104%e5%88%86%ef%bc%89/

横山さんがご自身で日本語題をつけ、日本語文献や資料で広く一般に流通している日本語題を採用されないのは、それなりの考えがあってのことだと思いますが、研究者や映画ファン、そして本誌の読者が作品名から検索する際の便宜を考えれば、すでに日本公開済みの作品は日本公開時のタイトルでできるだけ統一するのがよろしいかと思います。タイトルへのこだわりは私にもないではなく、日本での公開題名に不満を抱く作品も存在しますが、自分の一方的な想いよりは映画紹介や映画批評という広い意味での公益にこの連載においては尽くすべきというのが私の信条です。この点ご理解ください。

以上、『永遠探しの三日間』についてのコメントはここまでとします。どこの国の映画にもロードムービーというジャンルはありますが、インドネシアのように広大で多種多様な文化を内包する多民族国家でこそ、もっとこのジャンルが活性化して欲しいと私は思っています。それこそ、「サバンからメラウケまで」主人公たちが旅する映画があってもいいのではないでしょうか。飛行機での長距離移動が当たり前になりつつある現代だからこそ、『永遠探しの3日間』のような寄り道だらけでどこかダラダラとした、しかしながら濃密な旅をスクリーン上で見せる、そんな作品がもっとあったらなと思います。ロードムービーの面白い作品があったら、横山さんからまた紹介していただけると幸いです。

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さて、本論に入る前にもう1つ、前回第66信へのコメントです。インドネシアで公開されたばかりの超大作伝記映画三部作『ブヤ・ハムカ』(Buya Hamka)を私はまだ観る手段がないため、Netflix で観られる『ファン・デル・ウィック号の沈没』(Tenggelamnya Kapal Van Der Wijck, 以下『沈没』)について何点かコメントさせてください。

『ファン・デル・ウィック号の沈没 延長版』(Tenggelamnya Kapal Van Der Wijck : Extended)ポスター。imdb.com より引用。

『沈没』について、私は第17信ですでに言及したので繰り返しとなってしまいますが、本作を一言で紹介するなら、まあとにかく呆れかえるほどのメロメロドラマ、というものです。

時代設定が植民地時代だからというだけでなく、作品内のあらゆる要素が過剰で、ほとんど時代劇といってもいい趣です。オーバーすぎる俳優の演技、古臭い言い回しの堅苦しいインドネシア語(原作執筆時の時代背景を考慮するならより正確にマレー語と呼ぶべきか)、感情から何から全てを台詞で説明するわざとらしさ、豪華絢爛すぎてクラクラしそうな美術、主人公たちの悲劇を盛り上げるために実際の豪華客船沈没事件を組み合わせるご都合主義。極めつけは主人公の富裕ぶりで、植民地時代にあれほどの豪邸に住み自動車を乗り回す様子には、いくらフィクションとは言え、記者や作家の実際の生活がそれほど豪奢ではなかった現実を考えると、相当盛りすぎではないかと思えるレベルです。ツッコミどころ満載、おまけにクサくて冗長な作品、それが『沈没』という作品です。

『ファン・デル・ウィック号の沈没』の一場面。どこの王侯貴族?と見まがうほどの豪華なインテリア。imdb.com より引用。

「映画の基本は荒唐無稽であること」と私は考えていますし、事実そうした作品はホラーやアクションを含めて大抵は楽しく見る方ですが、メロドラマは元来苦手なこともあり、『沈没』の過剰さには正直なところ辟易しました。おまけに上映時間が2時間44分の大長編なので、最後まで見るのは苦行に近かったです。

ですから、前回横山さんが『沈没』をじっくり鑑賞した上で詳細に分析されていたのには率直に感心しましたし、いずれ動画配信サービスでも観られるであろう『ブヤ・ハムカ』三部作の予習としてもしっかり再見すべきと、横山さんの論考を読んで思いました。

現在少しずつ『沈没』を見直しているところですが、初見時に私は原作者ハムカの意図を正確に汲み取れず、またストーリー展開に疑問を感じた箇所もあったので、いくつか関連論文を探してみました。記事末尾の参考文献およびサイト一覧にまとめましたが、ミナンカバウ社会については社会学者・加藤剛さんの一連の論文が非常に参考になります。

私が一番疑問に感じたのは、ミナンカバウ成人男子のムランタウ(西スマトラ外への出稼ぎ及び移住)という慣行は20世紀初頭に始まったわけではなく、それ以前から存在したにもかかわらず、『沈没』において主人公ザイヌディンのような混血者(マカッサル人母とミナンカバウ人父とのミックス)との婚姻が忌避されて同族同士の婚姻が強制、しかもザイヌディンに対してミナンカバウ社会があからさまに差別し排除するという物語前半の展開でした。故郷から離れた土地へ移住し、その土地の異性と知り合って結婚するのはむしろ自然なことであって、『沈没』のように頑迷なまでに婚姻においてミナンカバウ族の血に拘るのは、どうにも違和感が拭えません。現代の価値観から過去の価値観を安易に裁くことは避けるべきですが、原作が書かれた当時、そうした描写にどの程度リアリティがあったのか。作品全体を覆う過剰感同様、差別描写も悲恋物語を盛り上げるために、文字通り「盛り過ぎ」たのではないか。

そう思いながら調べてみたところ、私の推測に反して、どうもかつてのミナンカバウ社会においては同種族婚や同郷婚の比率が非常に高いことがわかりました。たとえば1970年時の調査ではジャカルタ在住ミナンカバウ人の種族内婚率は86%に上っています。とすれば、原作が出版された1930年代後半時点では種族内婚率はより高かったと推測されますし、ましてザイヌディンとハヤティが出会ったのは西スマトラの村落地域という伝統社会なのですから、二人の婚姻が周囲から猛反対されたことは不自然ではないと言えます。

また、最近出版された『インドネシア独立への悲願』という本の中で、著者の長田周子さんはミナンカバウ社会のことを「排他的」「閉鎖的」と表現されていました。初めて目にした時はだいぶきつい表現ではないかと訝しく思いましたが、ミナンカバウ出身のインドネシア独立運動家マジッド・ウスマンと戦前に結婚してパダンに住んだことのある著者の体験記として同書は非常に貴重な記録です。『沈没』の主人公ザイヌディンに対するミナンカバウ村落社会の理不尽な対応は、なるほど長田さんの経験と一部重なりあうと見るべきなのでしょう。

『インドネシア独立への悲願 アミナ・M・ウスマン108歳の証言』表紙。花伝社ホームページより引用。

「異郷の地へ出稼ぎに行く習慣が根付いているから異種族婚にも寛容なのではないか」というのは単なる私の思い込みに過ぎなかったようです。若干恥ずかしくはありますが、横山さんの論考をきっかけに思い込みが正されたのは、私にとってちょっとした知的興奮でもあります。

また、原作者ハムカはミナンカバウ社会の母系制に対する疑問を『沈没』という悲恋物語の中に入れたという横山さんの指摘についても、初見時に私は気に留めていませんでした。こちらも関連論文を読んでみたところ、なるほどハムカにはそのような意図を持っていた事実が確認できました。

非常に大雑把な見取り図を提示するなら、ミナンカバウの母系制はイスラームの父系原理と対立するものであり、父親の自己取得財産を子供が相続できるようにすべきであるとハムカは考えていたようです。ハムカは『沈没』原作出版以降も自身の考えを繰り返し著作の中で述べていますが、私が興味深いと感じたのは、故地である西スマトラ州のミナンカバウ社会からは前向きな反応をあまり得られず、母系制を支える慣習法(アダット)とイスラームの教えは何ら矛盾しない、現状維持が良いという意見が多数を占めた事実です。これについて加藤剛さんが調査されたのは1970年代から80年代のため、2020年代の現在ではミナンカバウ社会の一般的な意識は変化しているのかもしれず、留保は必要です。ただ、西スマトラの外に広がる外部世界との接触と交流が一層加速拡大した結果、自らのアイデンティティが強化されるのは十分にありうることで、今もなおミナンカバウ社会の母系制とアダットは私たちが予想する以上に強固に維持されているのかもしれません。

映画の『沈没』のくどい語り口には正直ウンザリしつつも、無視できない作品でもあると感じるのは他にも理由があります。それは、『沈没』が提示する価値観や生活様式や物語展開がすぐれて「近代」、インドネシア語でザマン・モデルン(zaman modern)を体現している点です。

個人主義、自由恋愛主義、職業選択の自由、移動の自由、これらはいずれも伝統的地域社会からは離れた都市で基本的に主張され展開していくのは言うまでもありません。物語の基本線はメロドラマであっても、原作者ハムカがイスラームを軸にした近代主義者であり改革者でありナショナリストであったことを想起するなら、物語の様々な局面において近代的価値観と生活様式が肯定されていることを観客が読み取るのはさほど困難ではないでしょう。ただし、オランダ植民地支配下で原作が出版されたことも関係しているのか、『沈没』ではインドネシア民族主義を高らかに謳うような場面はほとんどありません。しかし、群島各地の各種族がアダット第一主義を掲げて伝統に固執するのではなく、近代的価値観を受容実践し、異種族間の自由恋愛結婚を積極的に認め、それがやがてはインドネシア人という新たな国民の創生にも繋がる、そのような意図をハムカがもっていたとするのは、原作出版以後の彼の経歴から推測可能でしょう。

なお、『沈没』という映画作品の直接的な批評からは離れますが、モデルン「近代的」という言葉のもつ強度と、『沈没』が書かれた時代背景をより深く理解するためには、たびたびの引用で恐縮ながら、加藤剛さんの『オランダ領東インド植民地都市の心象風景―初期バレ・ブスタカ小説を手がかりとして』という論文が非常に参考になります。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/56623/1/KJ00000131978.pdf

上記論文は1919年から1933年にかけて出版されたマレー語の人気小説6編を考察しており、『沈没』にもそれらの作品と共通する要素が含まれていることがわかります。インドネシアの文芸作品を読みたいものの、読解力に自信のない私のような人間にはうってつけの論文で、1910年代から30年代を舞台とした映画を鑑賞する上でも役に立ちますので、横山さんが未読でしたら是非一読してみてください。

**********

さて、ここからようやく本論です。前回からの続きで、今回も結婚コメディを論じるべく、大人気シリーズとなった『結婚しちゃった』(Get Married)連作を取り上げるつもりでした。が、せっかく横山さんがミナンカバウ文化つながりで『沈没』、『ブヤ・ハムカ』、そして西スマトラが舞台のミナンカバウ語映画『オンデ・マンデ』(Onde Mande)まで取り上げてくれたので、その流れに私も便乗して、今回は一夫多妻婚とパダン料理をドッキングさせたドラマシリーズ『何でも一緒』(Saiyo Sakato)に焦点を当ててみようと思います。

実は『何でも一緒』については、『沈没』同様、第17信ですでに言及しています。動画配信サービスGo Playでコロナ禍初期に独占配信されたドラマシリーズですが、Go Play が制作から撤退したらしい現在ではNetflixでも全10話が観られます。ただし、日本で観る場合はVPNアプリを使用する必要があるのでご注意ください。まずはあらすじ紹介から。

『何でも一緒』予告編。https://youtu.be/m8IReoEG2Y0

パダン料理店Saiyo Sakatoを経営するオーナーのダ・ズル(ルクマン・サルディ)が心臓発作で急死します。悲嘆にくれる妻のマル(チュッ・ミニ)と息子のザイナル(チッコ・クルニアワン)、それに娘のアニッサ(フェルギィ・ブリッタニィ)でしたが、ある日、見知らぬ女性アニタ(ニリナ・ズビル)が小学生低学年の男子と共に店へ来訪してこう告げます。

「私はダ・ズルの正式な妻でアニタと申します」

驚愕のあまり何も言えないマルでしたが、アニタが息子ブディの養育費の援助を申し出たところで、激情のあまり二人を店から追い出してこう言い放ちます。

「知っているでしょうけど、あなたに教えといてあげる。今は小学校には無料で行けるわよ!」

最愛の夫の不実を知って嘆き悲しむマルは故郷である西スマトラへ帰郷しようとするも、なんと出発当日の朝、店の目の前に全く同じ店名のSaiyo Sakato がオープンしているではありませんか!ダ・ズルは秘伝のレシピをマルだけでなくアニタにも教えていたのです。

こうして夫を亡くした未亡人二人は、どちらがダ・ズルの本当の妻で、どちらが商号Saiyo Sakato を継ぐか、百日間の売上金額で争うことになります。二人の面子と意地をかけた料理バトルは、周囲の人間と家族を巻き込み、すったもんだの末にどのような結末を迎えるのでしょうか・・・。

『何でも一緒』第1話の一場面。マルたちの店で告白するアニタ。

(⇒ 『何でも一緒』は小難しいアートフィルムではないものの・・・)

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