よりどりインドネシア

2023年08月07日号 vol.147

千の業火の夜(太田りべか)

2023年08月07日 22:42 by Matsui-Glocal
2023年08月07日 22:42 by Matsui-Glocal

インタン・パラマディタ(Intan Paramaditha)の新作長編小説が発売された。タイトルは“Malam Seribu Jahanam”。日本語にすると『千の地獄の夜』でも『千の邪悪の夜』でも『千のジャハンナムの夜』でもいいかもしれないけれど、『千の業火の夜』が一番合うような気がする。

主人公のひとり、三姉妹の長女ムティアラが、ラマダン(断食月)のある夜、家の前に黒猫が寝ているのを見つける。近所の人々に迷い猫を探している人がいないか聞いて回ったけれど、それらしい人は見つからず、結局ムティアラはその猫を飼うことにした。ラマダンのとても月の明るい夜だったので、預言者ムハンマドに最初の啓示が下ったラマダンの夜を「ライラトルカドル(御稜威の夜)」と呼ぶのにちなんで、その黒猫をライラと名づけた。

皆が黒猫は不吉だと言うけれど、「定め(カドル)の夜こそ千の月にもまさるもの」と言われる祝福された夜に見つけた黒猫は、ムティアラにとって千の月の夜の神の秘密であり、良き変化のきざしであるように思われた。ところが黒猫のライラが来てからほどなく、三姉妹の父親が風呂場で昏倒し、ムティアラの確信は少し揺らぐ。次女のマヤは、その猫は千の月の夜ではなく、千の業火の夜から来たんじゃないかと言う。

“Malam Seribu Jahanam”

●三姉妹の物語

黒猫のライラは千の業火の夜からやって来たのかもしれないけれど、この物語で主な役割を果たすわけではない。猫らしく、静かに無口にしなやかに、そして神秘的にそこにいて見ているだけだ。

これは三姉妹の物語、あるいは継子も入れた四姉妹の物語だ。おとぎ話にいつも三姉妹や三兄弟が登場するように、これも三姉妹のおとぎ話だ。「継子」的存在である四人目もとても重要な鍵を握っているけれど、少し外れた位置から三姉妹を語る語り部であり、三姉妹の関係に変化を起こすきっかけをもたらす存在でもある。

この物語は、「爆発、ひとつのおとぎ話」で幕を開ける。

革命は、いつでも醜い継子から始まる。いったいなにが私たちの妹の頭に忍び込んだのか、醜くもなく革命家でもない妹が、腰に爆弾を巻いて自分の体を吹き飛ばしたのだった。

(“Malam Seribu Jahanam”より)

現実の世界では、2018年5月13日、14日に東ジャワ州スラバヤで連続自爆テロ事件が起きている。5月13日の朝、スラバヤ市内の教会3箇所で自爆テロが起きた。実行犯は40代の夫妻とその子ども4人(18歳、16歳、12歳、9歳)だった。実行犯はすべて即死。

同日夜にはスラバヤ市外の集合住宅で相次いで爆発が起き、駆けつけた警官によって主犯と見られる男が射殺された。男の妻と長男は爆発により死亡。怪我を負って病院に搬送された子どもの証言によると、製造途中の爆弾が暴発したという。

翌14日の朝、スラバヤ市警察本部の門付近でバイク2台が爆発。実行犯と見られる4人が死亡した。一連の爆破テロによる死亡者は実行犯を含めて28人、負傷者は57人にのぼった。

この物語の自爆テロ事件は、上記のスラバヤ連続自爆テロ事件をモチーフにしている。物語での事件現場は東ジャワの架空の都市コタウィジャヤ、事件発生日は現実と同じく2018 年5月13日。爆破されたのは、コタウィジャヤ市内の教会2箇所とある住宅地の集会所だった。その集会所ではトランスジェンダーの女性たちによるクルアーン勉強会が開かれていた。

教会のうちのひとつを爆破したのは30代の男2人組。もう1箇所の教会と集会所を爆破したのは4人家族で、教会では9歳の息子を連れた34歳の男が、集会所ではその妻(34歳)が2歳の娘を連れて自爆テロを行った。9歳の息子は爆発直前に父親のバイクの後部座席から飛び降りて逃走、大怪我を負ったが命は取り止めた。他の実行犯はすべて即死。

2歳の娘を連れて、トランスジェンダーの女性たちのクルアーン勉強会が開かれていた集会所を爆破した女の名はアンニサ・ディンダ、この物語の主人公の三姉妹の末っ子である。

三姉妹の長女はムティアラ、1978年生まれ、事件当時は40歳、独身。海の宝である真珠にちなんでムティアラと名づけたのは、まだ新婚で希望に満ちていた母親だった。その期待に応えてムティアラはしっかり者で有能な「ママの娘」に育つ。ある会社でブランド・マネージャーを務めるキャリアウーマンでもあり、老境を迎えて収入もない父に代わって一家の大黒柱となり、妹アンニサの結婚式の費用も大部分をムティアラが負担した。30代で家を購入、黒猫ライラを含む4匹の猫と暮らしている。

三女のアンニサは1984年生まれ、両親がヒッピーからイスラムへ傾倒していく中で生まれ、クルアーンの第4の章An-Nisa' にちなんで父が名づけた。三姉妹の中で一番の美女であり、父親の一番のお気に入り「パパの娘」だった。幼いころからお姫様ごっこが大好きで、お姫様役はもちろん常に自分が演じ、純白のドレスの花嫁になるのが夢だった。大学卒業後まもなく夢を叶えて白づくしの結婚式を挙げ、家族の住むジャカルタを離れてコタウィジャヤに移った。

ふたりの間に生まれたのが次女のマヤ、本人によると、特に望まれたのではなく、たまたまできてしまった子で、名前も当時流行っていたというだけの理由でマヤと名づけられた。4歳のときに妹が生まれてよちよち歩きを始めると、両親はその世話で手いっぱいになってしまい、マヤはスマトラに住む祖母のもとに2年間預けられることになった。結局その2年間はマヤにとって楽しい時間となったのだったが、6歳でジャカルタの両親のもとに戻ってからも、なんとなく余所者感、はみ出し者感がマヤにつきまとうことになる。幼いころに祖母ともっとも長く過ごしたこともあって、「身の内に雄の虎が棲む虎人間」と畏怖される祖母の後継者を自認している。幼少期から本の虫で、奨学金を得てニューヨークで大学院に在籍中、アンニサの起こした事件を知る。その数日後、マヤのもとにアンニサからの葉書が届いた。

ムティアラが13歳、マヤ11歳、アンニサ7歳のとき、祖母が倒れて病院に運ばれ、いよいよ危ないと思い込んだ一族が病室に集まった。結局祖母は一旦回復し、後に健康状態がさらに悪化してからジャカルタの長男(三姉妹の父親)の家に移ることになるのだが、このときの病室での出来事は三姉妹にとって忘れがたいものとなった。祖母が3人の未来を予言したのである。

病室で、しかも意識を回復したばかりだというのに祖母は煙草を吸いながら言う。「おまえたちには、それぞれの道がある。孫のひとりは世界を見に行く。もうひとりは神を探しに行く。そしてもうひとりは家を守り、すべてを守る」

祖母はマヤに向かって言う。「本の虫の孫、おまえは旅人になって、遠くに行く。よその国に」。驚いて、どうしてそんなことがわかるのかと尋ねるマヤに、祖母は、自分にはいろんなものが見えるのだ、と答える。なにが見えるのかとマヤが聞くと、祖母は言う。「おまえが船の上にいるのが。たくさんの本といっしょに」。

続いて祖母はアンニサに向かって言う。「かわいい孫、おまえがお姫様みたいな白くて長いドレスを着ているのが見えるよ。ジャスミンの花の房が髪を飾っている。おまえは美しい花嫁になるだろう」

最後に祖母はムティアラに言う。「おまえは孫の中で一番強い。よくお聞き。おまえは番人になる」。「番人って掃除をする人ってこと?」と聞くムティアラに、「そうとも言える。墓掘り人夫とも」。そう言って祖母は笑うが、やがて笑いを収めて続ける。「ふざけているわけじゃないよ。ムティ、おまえは家族を守る。生きているものの世話をし、死んだものを送る」

番人、旅人、花嫁、その言葉は陰に陽に三姉妹を縛り、やがて3人はそれぞれその通りの道を行くことになる。

(以下に続く)

  • 番人、旅人、花嫁、そして語り部
  • リアルなおとぎ話を語る
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