「最近の若者はなってない、甘ったれている」「年寄りは言うことが古臭い、頭が固い」。
古今東西、こうした世代間のすれ違いは常に起こってきたことかと思います。育ってきた環境・価値観の時代ごとの変化により、違う世代の考え方を受け入れ難く思ってしまうことが原因です。とくに短期間で急激な発展を遂げているインドネシアでは、世代ごとのギャップというのは日本以上に深い溝となっていることをご存知でしょうか?
今回は、ウォノソボの村における時代ごとの暮らしの変化を例として、どういったギャップが生まれ、どんな世代間衝突となっているのか、その一部をご紹介します。
●19世紀の人々
1811~1815年、ジャワ島の統治を担ったイギリス人行政官のトーマス・スタンフォード・ラッフルズは、当時のジャワ農民の生活について以下のように記しています。
夜明けとともに起き、朝6時半には田畑へと出かける。10時頃まで水牛を働かせ、家に帰って沐浴、そして食事。昼の暑いあいだは日陰でカゴ編みや農具の手入れなどをしつつ休憩をする。夕方4時頃、再び田畑へ戻り、仕事。6時に帰宅して食事をしたあとは、残った時間をおしゃべりなどをして楽しみ、夜8時か9時になったら寝てしまう。
なんとも健康的で、また熱帯地域らしい暮らしぶりだなと思います。赤道近くのインドネシアでは、日中の炎天下はまさに灼熱。とても屋外作業に向いているとは言えません。夏休みの宿題と同じで、『朝の涼しいうちにやることをやってしまいましょう』というわけですね。
現在でも、昼間に子供が直射日光の当たるところで遊んでいれば大人は「頭が痛くなるから日陰に行きなさい」と注意をしますし、ちょっと近所に行くのでも笠をかぶるか雨傘を日傘にして使います。それくらい、昼の屋外というのは気をつけるべきもの。学校も朝7時から始まり、早ければ正午過ぎには終わります。現在世界基準となっている『昼に頑張って働く』というスタイルは、決して当たり前のものではなかったのです。
また、食事も基本的には1日に2回で、西洋人のように朝食を摂る習慣はないともラッフルズは書いています。例外として、どこかへ遠出する場合には、自宅でコーヒーや米のお菓子を食べるか、道中に道端にある屋台で食事をする、と。
現在のインドネシアでは、学校の食堂や近くの屋台で手軽に軽食が買えることもあり、朝食をとらずに登校する児童生徒も決して珍しくありません。健康面から、きちんと朝食をとるようにという呼びかけがされていて、少しずつ改善されてはいるようですが、依然ユニセフなどは発育不良に繋がるとして課題として見ています。
いつから朝食が生活習慣に組み込まれたのかわかりませんが、もしそれがごく近代なってからだとしたら、なかなか朝食が浸透しないことにも影響しているのかもしれません。
植民地時代は重税を課されていたこともあり、庶民の暮らしというのは本当に素朴な、あるいは必要最低限のものでした。
家は竹を編んで作ったものを壁に、椰子の葉脈で葺いた屋根が一般的。家の中は大人と子どもの寝所がそれぞれあるくらいで、窓もなく、炊事洗濯は家の外で行っていたそうです。机や椅子といった家具は西洋人と関わりのある限られた層の人々が使うくらいで、まだ一般の大衆には浸透していませんでした。凍死の心配がないだけに、家とは雨風を凌いで休むことさえできればよかったのかもしれません。
妻の重要な役割の一つが夫や家族の衣服を仕立てること。村の中には機織り機や針仕事のための場所がありました。子どもは7歳くらいまでは素っ裸で過ごしていたので衣服は必要なかったようです。
女の子は9歳か10歳くらいで婚約をし、13歳か14歳で結婚。男の子も16歳には結婚し、20歳過ぎで未婚ということはほとんどありませんでした。
インドネシアは大家族というイメージがあるかもしれません。しかし若くしてみな家を出てしまうために、意外にも一つの家族の構成人数はあまり多くならなかったようです。平均寿命も40歳から50歳、長生きして70歳、80歳。人生のサイクルが早く、元気なうちに様々なことをやり遂げなければならなかった時代です。
●電気、水道がくるまで
さて、昔々の暮らしぶりを想像したところで、次は今生きている人々の過ごした時代。独立後から80年代までを見ていきましょう。現在の祖父母世代が子どもだった、あるいは結婚したばかりだった時代になります。
まずは、物がなかった、とみな口を揃えて言います。
学校へは裸足で行き、ノートなどもそのまま手に持って行っていました。どこかでビニール袋を手に入れることがあれば、それをカバン代わりにし、とても大事にしていたそうです。まだあまり教育機会が整っていなかったため、小学校へは試しに1、2年通って中退、ということもありました。
60年代以降は一般の子女も学校に通えるようになったものの、ウォノソボでは児童生徒の数に対して学校の数が足りていなかったこともあります。教育への理解がまだあまり広まっておらず、学校よりは家の手伝いを・・・という考え方をする大人もいました。この世代には読み書きができない人もちらほらいます。
生活には、水汲み、薪集めといったことが欠かせません。朝起きたらまず近くの沢や湧き水へ行き、水汲みをするのが子どもの仕事。長さ1メートルほどの太い竹筒に水を汲み、何度か家と水場を往復しました。洗濯や沐浴は沢で。石鹸や洗剤はまだ高価で貴重だったため、カルビ(kalbi)と呼ばれる木の葉を潰した汁を洗い物、洗濯、沐浴に使いました。
よく揉むと泡立つので汚れを落とせたそうです。たしかに、これで手を洗うとすべすべとして、油脂が落ちた感じがします。他にも、稲藁を焼いた灰をシャンプーにしていました。
学校へ行く前に家庭用とは別に集めた薪を道端で売り、その売り上げを小遣いにして登校することもありました。しかし村内で暮らすだけならお金を持たなくてもしばらく生活できたと言います。庭で採れたバナナなどをワルン(商店)に持っていって査定してもらい、その金額分のお米と交換するといった、事実上の物々交換が可能だったからです。
食用の野草はそのあたりにたくさんあります。椰子の実があればヤシ油を自作することも可能でしたし、油がなければ揚げ物などは熱した砂で調理できる。村から出ずにひと月ふた月過ごすこともありました。
日々の食事は質素なもの。キャッサバから作られたキャッサバご飯、トウモロコシ粉から作られたトウモロコシご飯。炊き立ての白米があればそれだけでご馳走でした。おかずがなければそれに塩かサンバル(チリペースト)をかけるだけ。肉を食べる機会は1年に数度。祝膳で貰う一切れの肉を家族全員で分け合います。栄養バランスよりもとにかく空腹を満たすことが先決でした。
車やバイクといった乗り物はまだまだ珍しく、村に数台あるだけでした。そのため、移動はどこに行くにも徒歩が基本。売り物を担いで10キロ先の市場まで2時間以上かけて歩き、売ったお金で必要なものを買って、またてくとくと歩いて帰る。それでも、街には村にはないような電灯や乗り物があり、そうしたものを見ることが何より楽しかったそうです。
村の上を飛行機が通ることがあれば、子どもたちは決まってこう叫んだのだとか。
「大統領、お金を落として!」
飛行機に乗れるのは大統領のような限られた人であり、『大統領』『ジャカルタの人』という言葉は、はるか遠い都会の文明や経済力を表すものとして使われていました。
(以下に続く)
- 90年代以降
- 縦のギャップ、横のギャップ
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