よりどりインドネシア

2021年06月23日号 vol.96

村上春樹の影(太田りべか)

2021年06月23日 14:16 by Matsui-Glocal

村上春樹の長編小説『騎士団長殺し』第1部、第2部のインドネシア語訳 “Membunuh Commendatore” Jilid I & II がKepustakaan Populer Gramediaから出版された。『1Q84』、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』、『ねじまき鳥クロニクル』(インドネシア語版出版年順)に続いて、今回も翻訳を担当する機会をいただいた。

これまで村上春樹作品を何冊か翻訳してきたという経緯もあって、しばらく前のことになるが、Kentja Pressという独立系出版社を主宰するワヒュー・ヘリヤディ氏がSNSを通じて連絡をくださった。同出版社から短編集を出版した若い作家が日本を背景とした作品を何作か書いていて、そこには村上作品の影響も見られるということだった。そしてアペンディ氏の短編集 “Kaze No Uta (Lagu Angin)”(『風の歌』)と、バグス・ドゥウィ・ハナント氏の短編集 “Petualangan Singkat Tokoh Sial yang Keluar dari Novel Roberto Bolaño”(『ロベルト・ボラーニョの小説から出てきた厄介な登場人物の短い冒険』)の2冊を送ってくださった。

●“Kaze No Uta”

“Kaze No Uta”に収録されている同題名の短編は、そのタイトルからもわかる通り、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』に想を得たものだ。

『風の歌を聴け』で、語り手の友人「鼠」が「俺ならもっと全然違った小説を書くね」と言って語り出す。

「……俺の乗っていた船が太平洋のまん中で沈没するのさ。そこで俺は浮輪につかまって星を見ながら一人っきりで夜の海を漂っている。静かな、綺麗な夜さ。するとね、向うの方からこれも浮輪につかまった若い女が泳いでくるんだな。」

「……それから俺たち二人は隣り合って海に浮かんだまま世間話をするのさ。来し方行く末、趣味だとか、寝た女の数だとか、テレビの番組についてだとか、昨日見た夢だとか、そういった話をね。そして二人でビールを飲むんだ。」

「そのうちに夜が明けてきた。<これからどうするの?>って女が俺に訊ねる。<私は島がありそうな方に泳いでみるわ>って女は言うんだ。でも島は無いかもしれない。それよりここに浮かんでビールでも飲んでれば、きっと飛行機が救助に来てくれるさ、って俺は言う。でもね、女は一人で泳いでいっちまうんだ。」

「女は二日と二晩泳ぎつづけてどこかの島にたどりつく。俺は俺で二日酔いのまま飛行機に救助される。それでね、何年か後に二人は山の手の小さなバーで偶然めぐりあうんだな。」

(村上春樹『風の歌を聴け』より)

“Kaze No Uta”は、この「鼠」の小説をアレンジを加えつつ形にしたものだ。ここでは語り手「俺=鼠」はやはり海に浮かんで、沈んだ船の食堂から流れ出したらしき瓶ビール(『風の歌を聴け』では缶ビールだ)を飲んでいるが、救助を待つ気など毛ほどもなく、そのまま死ぬことを望んでいる。ただ周りに漂う死体を見ながら最期を迎えることになりそうな状況にうんざりしているだけだ。そこへ女が泳いで来て、二人は言葉を交わす。趣味だとか寝た女の数だとかテレビの番組だとか昨日見た夢だとかについては話さないけれど。

女は恋人と別れたばかりで、その元恋人が田舎娘と結婚することになったので、驚かすために結婚式に乗り込むつもりだったと言う。一方、「俺」はどうやら生きるのに飽き飽きしていて、死ぬつもりで家を出てきたらしい。

女は「俺」に口づけして、「私のことを覚えていてほしいだけよ!」と言う。これは『ノルウェイの森』で、直子が「僕」に「私のことを覚えていてほしいの」と言う場面からの引用だろう。

そして「死ぬ前に後悔していることってある?」という女の問いに対して、「俺」は「『グレート・ギャッツビー』をまだ三回読んでいないことだ」と答える。「俺が知り合いになりたいと思う人は、その本を三回読んだ人間としか知り合いになりたくないって言うんだ」 この“『グレート・ギャッツビー』を三回読む”くだりも『ノルウェイの森』に出てくる。「僕」が『グレート・ギャッツビー』を通して読むのは三度めだと話すと、東大生の永沢が「『グレート・ギャッツビー』を三回読む男なら俺と友だちになれそうだな」と言う場面だ。

夜明け前、「俺」は女が苦しんで死ぬのを見たくないと思って、海で出会ったなら海で別れる方がよくないかと提案する。女も同意し、二人でそれぞれ別の方角に泳いで行って、もしも助かったら陸でまた会おうと約束する。会って七日七晩いっしょにビールを飲もう。場所はもちろん「ジェイズ・バー」だ。

そうして女は泳いで行ってしまうが、「俺」は生きてもう一度陸に足を下ろすつもりなど毛頭なかったので、そのままそこに浮かんでいると、生存者捜索に来た飛行機に発見され、結局救助される。

「俺」はジェイズ・バーに足を運ぶが、女は来ない。助からなかったのかもしれないし、約束を忘れたのかもしれないし、ジェイズ・バーがどこにあるのか知らないのかもしれない。あるいはそんな女はもともと存在しなかったのかもしれない。

何ヶ月も彼女が現れるのを虚しく待ったあとで、俺はこれを書いた。この紙に濡れた染みがあったとしたら、それは俺の涙だ。

七日七晩ビールを奢ってくれるやつがいないことを悔やんでこぼした涙だ。

(Apendi “Kaze No Uta”より)

(以下に続く)

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