よりどりインドネシア

2022年02月23日号 vol.112

闘う女性作家たち(4) ― インタン・パラマディタ ― (太田りべか)

2022年02月23日 11:36 by Matsui-Glocal
2022年02月23日 11:36 by Matsui-Glocal

今回紹介するインタン・パラマディタ(Intan Paramaditha)は、現在、筆者がもっとも注目している作家のひとりである。2017年に発表した初の長編小説 “Gentayangan: Pilih Sendiri Petualangan Sepatu Merahmu”(『彷徨―あなたが選ぶ赤い靴の冒険』)は英訳され、海外でも高い評価を得ている。伝説やおとぎ話を下敷きとして、インドネシアの女性たちの現状に鋭く切り込んでいくダークな色合いの短編小説群も魅力的だ。

●略歴

1979年、バンドゥン生まれ。インドネシア大学英文科卒業。フルブライト奨学生としてカリフォルニア大学に留学して修士号を、ニューヨーク大学で映画研究の部門で博士号を取得。現在はシドニーのマッコーリー大学で、メディアおよび映画研究の教鞭を取っている。

出版された作品には、上述の長編小説のほか、短編集 “Sihir Perempuan”(『女の魔法』)、作家のエカ・クルニアワン、ウゴラン・プラサドと共に上梓したホラー作家アブドゥラー・ハラハップへのオマージュ短編アンソロジー “Kumpulan Budak Setan”(『悪魔の奴隷集』)などがある。また、『悪魔の奴隷集』所収の短編 “Goyang Penasaran”(「妄執の腰振り」)をもとに著者自らが脚本を書き、テアトル・ガラシが2011年から2012年にかけて舞台公演を行った。その脚本と演劇として舞台に乗るまでの過程を綴ったエッセイなどを合わせた同題の本を舞台監督のナオミ・スリカンディと共著で出版している。

長編小説 “Gentayangan”(『彷徨』)の英訳 “The Wandering” のほか、上記2冊の短編集所収作品を中心に選ばれた13編の英訳短編集 “Apple and Knife”もイギリスの出版社ハーヴィル・セッカー/ペンギン・ランダムハウスから出版され、好評を博している。

また、フェミニストとしても旺盛な活動を行っており、トゥティ・ヘラティをはじめインドネシアのフェミニスト詩人たちの作品集の英訳 “Deviant Disciples: Indonesian Women Poets”(『異色の弟子―インドネシアの女性詩人たち―』)の編集や、フェミニスト・フェスティバル「女性の思想ショーケース」など多くの文化活動に携わっている。

インタン・パラマディタ(https://intanparamaditha.com/contact-intan-paramadithaより)

●『彷徨―あなたが選ぶ赤い靴の冒険』

アメリカの作家ポール・オースターの “4 3 2 1”という小説をお読みになったことがあるだろうか。この小説は、主人公が生きていく時間上のそれぞれの分岐点で違う方向へ曲がってしまった4パターンの人生の道筋を並列的に提示する。

インタン・パラマディタの『彷徨』のなかでも、読者はやはりひとりの人物「あなた」のたどる複数の人生の道筋を体験することになる。オースターの“4 3 2 1”と違うのは、読者は「あなた」がどちらに曲がるかを選択できる点だ。アメリカのバンダム・ブックスから出版され、日本語にも翻訳されて1980年代のゲームブック流行のきっかけとなった『きみならどうする?』の大人向け現代版なのだ。RPGの書籍版といってもいいかもしれない。

あのときあの角を曲がっていれば・・・という分かれ道が人生には幾度となく出来する。一旦ひとつの道を選んでしまうと、別の道をとったとしたら今ごろ自分がどこで何をしているかは、「もしも」の先に想像するしかない。その「もしも」の先まで体験してしまえるのがこの小説だ。

ジャカルタでの日々にうんざりしている「あなた」は、悪魔に見初められ、悪魔の恋人として契約を結んで一足の赤い靴を手に入れる。その靴に足を入れた次の瞬間、あなたはニューヨークのJFK空港に向かうタクシーの中にいる。鞄の中には緑色のインドネシアのパスポート。アメリカとドイツの滞在ビザがある。航空券を見ると、どうやらこれからベルリンへ向かうところらしい。空港に着いたあなたは、赤い靴を片方しか履いていないことに気づく。選択肢が三つ用意されている。渡航をキャンセルして家に戻る(ジャカルタではなく、どこだかわからないけれどニューヨークにあるはずの家に)? 警察に行って遺失物届を出す(タクシーに靴を片方忘れたなら、届けてくれるかもしれない)? そのままベルリンへ向かう(靴はどこででも買える)? あなたならどうする?

冒険が始まる。「あなた」の選択に従って幾通りもの道筋が生じる。そして時にはそれが交差し合う。

たとえば、あるときペルーのリマの空港に三人の親子連れと女性の二人連れが降り立つ。親子連れの父親はスペイン語を話しているが、母親と娘はどうやらペルーは初めてらしい。母親はアジア系、娘はいかにもアメリカ生まれのアメリカ育ちらしい英語で話している。父親はペルーから米国への移民一世、アメリカで結婚した妻とそこで生まれた娘を連れて里帰り、といったところかもしれない。一方の女性の二人連れは旅行者のようで、服装からして寒い地方から来たらしい。

ある道筋をたどれば、あなたは親子連れの母親かもしれないし、また別の道筋をたどれば、あなたは二人連れの女性のうちの一人かもしれない。「あなた」は、そして私たちは、何者にでもなり得るかもしれないのだ、と、はたと思い当たって、思わず背筋がぞくりとする。

読者はこの小説の中を、いくつもの絡み合う物語世界の中を彷徨(あるいは徘徊)する。そして時間がリニアに進むものではないことを知る。

そういった仕掛けのおもしろさだけではない。それぞれの「もしも」の先には、ダークな色合いの童話や伝説があり、それに絡めとられていく人々の運命があり、アメリカの移民の暮らしがあり、故郷を追われた人の虚無があり、子どものころに通り抜けてきたスハルト政権時代のインドネシアと1998年の暴動があり、その後のジャカルタで暮らす若い女性たちのリアルがある。その物語たちの裏から、あるいは隙間から、身を切るようなリアリティが立ち上がる。

「あなた」はスハルト政権時代のインドネシアに生まれて、子どものころに毎年学校で映画『9・30事件:インドネシア共産党の裏切り』を見せられて育った世代だ。その映画の中で、共産党と強い繋がりを持つとみなされていたグルワニ(Gerakan Wanita Indonesia: インドネシア女性運動)の女が、「血は赤いものよ、将軍」と言いながら、拉致されてきた将軍の顔を剃刀で切り刻む場面は、今もあなたの記憶の中にトラウマのように残っている。

高校3年のとき1998年の暴動が起き、仲良しだった華人系のクラスメイト(国立高校では珍しい存在だった)のディアンは、しばらく学校から姿を消した。華人系の女性が性暴力の標的にされていたため、父親に家から出ないよう言われていたのだ。学校に戻ってきたとき、ディアンは前よりも無口になり、ひとりでいることが多くなった。ジャカルタにはもういたくないと言って、ジョグジャカルタのガジャマダ大学に進学した。

2002年に再会したとき、ディアンはある団体で活動していて、「歴史を正す」べくグルワニに関するドキュメンタリーを作っていると話した。そのとき、あなたの姉が顔を出して「大声でグルワニなんて言わないで。近くにスパイがいるかもしれないじゃない」と言って、ディアンを呆れさせる。姉はバンドン工科大学の機械工学部に入った数少ない女子のひとりで、高校時代にはスハルト政権下の学校でジルバブ(ヒジャーブ)を被るのを禁止されていることに反対してジルバブを被った勇気ある先輩として、かつてディアンには尊敬されていたのだ。

この姉は、大学卒業後すぐに同級生と結婚し、機械工学とはさっぱり縁を切って、生まれた子どもたちにはアラブ風の名前をつけてイスラーム系の有名私立校に通わせ、イスラーム女性向けの衣類などの販売ビジネスに勤しむようになった。あなたが赤い靴を履いて放浪の旅に出た後も(姉や家族は、あなたが奨学金を得て海外留学していると思っているらしい)、たびたびメールを送ってくる。シンガポールなどからの輸入ブランド品を求める裕福なムスリマたちからの声が多いことを受けて、自分の運営するオンラインショップに「ハイエンド・コレクション」を設ける計画を立てるが、夫に「自分自身やムスリムの同胞を虚飾に向かわせるなんてだめじゃないか」と嗜められる。子どもたちの学校の保護者会活動にも熱心で、9月30日事件で共産党員が将軍たちを殺害して投げ込んだと言われる「鰐穴」を見学に行く案が出ると、他の母親たちと一致団結して反対を唱える。数えきれないほどのメルマガを購読していて、自分の興味のある記事を次々とあなたに転送してくる。いわゆる意識高い系の典型的ムスリム中流家庭の女性像として描かれていて、なかなかおもしろい。

この小説の英訳 “The Wandering” が出版された後、2020年11月のUbud Writers and Readers Festival: Kembali 2020で、中国系インドネシア人の親を持つ米国生まれ、オーストラリア在住の作家・翻訳家のティファニー・ツァオが、この小説を巡ってインタン・パラマディタにインタビューをしていた。そのなかでインタンは、この小説を書いた動機のひとつについて、第三世界の女性が欧米を旅する物語を書いてみたかったからだと話している。

余談だが、それに続くふたりのやり取りがちょっとおもしろかった。

インタン:白人女性が第三世界にやってきて、その素朴さやスピリチュアルなものに目覚めるっていうのはよくある話だけど。“Eat Pray Love”みたいに(笑)。

ティファニー:ああ、あれね(笑)。

ジュリア・ロバーツ主演の映画“Eat Pray Love”(『食べて、祈って、恋をして』)は、後半の舞台がバリだったこともあってインドネシアでもおおいに評判になったが、あの映画に対するおそらく少なからぬインドネシア人(とくに女性)の寸評が「ああ、あれね(笑)」だというのは、ちょっとわかる気がする。

英語版“The Wandering”の出版にあたって、インタン・パラマディタはイギリスの出版社とともにこの本のプロモーションのために2ヵ月間のヨーロッパツアーを計画していた。新型コロナウイルス感染症がじわじわと広がり始めるなか、2020年2月後半にツアーの皮切りとしてロンドンに到着するが、まもなくWHOが世界的パンデミックとの見解を明らかにして、ヨーロッパ各地でロックダウンが始まった。インタンは急遽ツアーを中止し、混乱の中シドニーに戻る。

2021年8月から開始された日本国際交流基金アジアセンターの「“読む”プロジェクト」に、インタンはそのときの経緯と『彷徨』をめぐる思いについて書いたエッセイを寄稿している。

https://jfac.jp/culture/features/f-yomu-indonesia-intan-paramaditha/

比較的自由に旅ができる日が戻ってくるまでにはまだ時間がかかりそうだが、この小説の「あなた」が子どものころから感じてきた、そして社会人となってからはいっそう強く感じるようになった閉塞感は、今のような状況では、ますます現実感を伴って迫ってくるかもしれない。なにが越境できて、なにができないか。なにが越境を望み、なにが望まないか。コロナ禍の僥倖ともいえるオンライン・イベントの定着のおかげで、かえって活動の場が広がったようにも思える一方、物理的越境もバーチャルでの越境も含めて、越境をめぐるその問いは、いっそう深まったように思える。

“Gentayangan: Pilih Sendiri Petualangan Sepatu Merahmu”

(以下に続く)

  • ダークでグロテスクな物語の森を抜けて
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