前回(『よりどりインドネシア』第106号)、ウォノソボの三傑と称される3人の人物のうち、都市デザインに携わったキアイ・ワリックの話をしました。
今回は、同じ三傑であり、キアイ・ワリックと同時代の人物と言われるキアイ・カリムをご紹介いたします。
17世紀に外部からやってきて、現在のウォノソボの基礎を築いたとされる三傑。しかし実は、キアイ・カリムは3人の中でも最も謎に包まれた人物のように見受けられます。どうやら、その本質は彼に連なる血統にあるような・・・。
現在、インドネシアで当たり前に使われている、『県』『県知事』といった言葉についても今一度見直しながら、伝説のピースを並べていこうと思います。
●キアイ・カリムと息子の活躍
三傑伝説では、まずこう語られます。
キアイ・ワリックは、街中に住みました。
キアイ・カリムはカリブブル(Kalibeber)に住みました。
そして、キアイ・コロデテはディエン高原に住みました。
カリブブルとは、県庁のあるウォノソボ郡のすぐ北、モジョトゥンガ郡(Kecamatan Mojotengah)にある村で、西にはチラチャップまで続くスラユ川(Sungai Serayu)が流れています。
出典:https://id.m.wikipedia.org/wiki/Kabupaten_Wonosobo
中心部にほど近く、暮らしやすい地域です。何よりも、カリブブルには県内唯一の大学であるサインス・アルクルアン大学(Universitas Sains Al-Qur'an)があり、他にもいくつものイスラム寄宿学校が集まっていることから、一種の学業地区としての顔で知られています。
ここに住むことにしたキアイ・カリムは、まだ深い森だったカリブブルを少しずつ開拓しました。当時、キアイ・カリムの家の近くには湖があり、その水を生活に使っていたといいます。
しかし、次第に新しい住人が増えていき、やがて食料問題が起こります。なぜなら、耕作に使える土地は限られていて、とても全員分の食料をまかなえないからです。
そこで、キアイ・カリムの長男であるキ・トゥンテン(Ki Tunteng)は、丘を平らに均し、湖を埋め立て、辺り一帯を広い農地にしたのです。
こうして、人々は益々繁栄していくのでした。めでたしめでたし・・・
キアイ・カリムが最初の開拓者で、息子がさらに改良を加えた、というところでしょうか。
このほかにも、キアイ・カリムには「水源を確保した」「灌漑事業を行った」というようなバリエーションの話があります。
カリブブル、という地名も、カリ=川、ブブル(普通のインドネシア語ではベベルと発音しますが)=何かを広げる、という意味なので、何やらそうした治水工事が行われていたのかもしれません。
モジョトゥンガ郡のさらに北には、ガルン郡(Kecamatan Garung)があります。そこにあるシカリムの滝(Curug Sikarim)は、キアイ・カリムから名前を取ったと言われています。
とある灌漑の仕事を頼まれたものの、行き詰まっていたときにこの滝でお祈りをしたのだとか。そのおかげで啓示を得て、無事に任務を果たし得たそうです。
このように、キアイ・カリム自身は、主にインフラ整備の面での活躍を語られます。
なお、このシカリムの滝の近くに、キアイ・アブドゥル・カリム(Kyai Abdul Karim)という人物のお墓がありますが、これがキアイ・カリムと同一人物かどうかはハッキリしません。そうだという人もあれば、否定する説もあります。
さて、キアイ・カリム亡き後、息子のキ・トゥンテンは修行の旅に出ました。世俗から離れ高い場所に住み、短剣クリス(keris)作りの名人となったそうです。
クリスは東南アジアに広く伝わる短剣です。刃が波状、または蛇行しているのが特徴で、サイズは50㎝ほどのものがジャワでは一般的です。
クリスは単なる武器というだけではなく、神秘の力が宿るものとされています。そのため、一族代々受け継ぐような家宝とされたり、男性の正装の際には腰に差すのに用いられたりなど、非常にシンボリックなアイテムなのです。
クリス作りの名人というのは、霊的な力が強く、世の理を深く理解しているということを表してもいます。
キ・トゥンテンもまた、父とは違う形での実績を持つ人物となりました。
同じように、実はキアイ・カリムの名は、彼自身の功績よりも、とある人物を語る際の背景として出てくることがあります。
それが、トゥメングン・ジョゴヌゴロ(Tumenggung Djogonegoro)です。
(以下に続く)
- 優秀な血族
- 為政者は血で決める?
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