よりどりインドネシア

2021年09月07日号 vol.101

いんどねしあ風土記(31):消えゆく大衆音楽「タルリン」 ~西ジャワ州インドラマユ~(横山裕一)

2021年09月08日 19:11 by Matsui-Glocal
2021年09月08日 19:11 by Matsui-Glocal

2021年8月下旬、西ジャワ州インドラマユから訃報が届いた。同地域で盛んだった大衆音楽「タルリン」演奏者で長老的存在だったママ・オオット氏が長年患っていた内臓疾患で7月上旬死去した。享年68歳。日本の四十九日にあたるイスラム教の四十日行事を終えたのち、故人の息子がくれた訃報だった。

数少なくなったタルリンの正統な演奏者の一人だっただけに、これで地域独自の大衆音楽が途絶えてしまうことを危惧する関係者も多い。多民族・多言語のインドネシアでは各地固有の大衆音楽、文化が数多く存在するが、時代の流れで淘汰されていくものも多い。タルリンを通して地域の大衆音楽文化を考える。

●タルリン奏者、ママ・オオット氏

ジャワ島北海岸に位置する西ジャワ州インドンラマユにあるママ・オオット(Mama Oot、本名:M.スヨト/ M. Suyoto)氏の自宅を訪ねたのは2017年4月だった。並木道の一角に同氏の演奏グループの大きな看板があり、そこから通り沿いの用水路に架かる竹の小橋を渡った先に自宅はあった。突然の訪問にも関わらず、ママ・オオット氏は快く迎え入れてくれた。

故ママ・オオット氏(2017年4月同氏の自宅で撮影)

「16~17歳からタルリンを演奏し始めました」

2017年当時ですでに約50年のキャリアを持つ。細身で小型ながら背筋を伸ばして座るママ・オオット氏は実際よりも大柄に見え、穏やかな表情で、故郷・インドラマユで生まれたタルリンの歴史や現状をゆっくりと語ってくれた。

●タルリンの誕生

「タルリン」(Tarling)とはギター(giTAR)と横笛・スリン(suLING)を合わせてできた造語で、伝統メロディーをギターと横笛で掛け合いながら演奏する大衆音楽である。その始まりはインドラマユのクパンデアン村からだったといわれている。1931年のある日、当時植民地政府のオランダ人監査役がこの村に住む有名なガムラン(ジャワの伝統打楽器)奏者のマン・サキム(Mang Sakim)にギターの修理を依頼した。マン・サキムはギターを直したものの、その後、依頼主のオランダ人はギターを受け取りに来ることはなかった。このため彼は置き去りとなったギターを使って、ガムランの音階・音調と比較しながらギターを独学し始めた。

父親とともに息子もギターを学び、遂にはガムランの5音階をギターに移し替えて演奏することを可能にした。金属楽器の響きが特徴のガムラン楽曲『ドゥルマヨナン』(Dermayonan)や『チュルボナン』(Cerbonan)をギターの弦をつま弾くことで、美しいガムランの旋律を奏でたのだ。ここにタルリンの原型ができ上がる。伝統音楽の流れを汲みながらも新しい調べだった。そして、このマン・サキムの息子こそが「タルリンの祖師」ともいわれる、スグラ(Sugura)だった。

やがてギターに感傷的な響きをもつ竹笛(suling bambu)を加えてガムラン曲が演奏されるようになると、インドラマユをはじめ隣接都市チルボンの村々にまで広がり、若者たちのトレンドとなる。若者たちは熱中してこの新たな音楽を演奏した。

1930年代の半ばになると、さらにガムランを意識して他楽器を加え、より充実していく。ガムランの合奏で使用される太鼓代わりに石鹸出荷用の木箱が用いられ、銅鑼代わりに素焼きの水差しが、さらには洗面器や小さなクンダン(両面太鼓)がパーカッションとして用いられた。日用品を楽器代わりに用いたのは経済的に恵まれないジャワ島北海岸地区ならではの逸話だが、貧しいなかにも豊かな創意工夫と感受性がタルリンを育てあげたともいえる。

ギターと横笛によるタルリンの演奏風景。(引用写真:https://metrodua.com/2021/04/12/giat-masa-keakraban-ukm-senter-stkip-nu-indramayu-gandeng-maestro-tarling-cirebon/

タルリンの演奏を聴くと、爪弾かれるギターの弦の一音一音がいつしか金属打楽器であるガムランの音色、調べであるかのような錯覚をも覚える。さらにはギターでガムラン曲が演奏されることで、哀愁感が増したようにも感じられる。

多人数で編成されるガムランと比べて、タルリンはギターと笛、それに打楽器と少人数で手軽にガムラン曲を奏でられること、さらに当時の若者にとっては現代的な外来の楽器、ギターを用いることから人気が出たものとみられる。

タルリンはこの地域で一躍人気となり、祖師といわれたスグラとその演奏仲間たちは結婚式や割礼などお祝い事のステージに頻繁に呼ばれるようになった。貧しい地域だけに、ステージといってもランプの明かりの下、ゴザが敷かれただけの質素なものであることが多く、報酬が無いこともあったという。しかし、彼らは喜ぶ聴衆を前に日中から翌日の明け方まで演奏を続けた。

やがて、スグラはタルリンのステージの中で、演奏に合わせてドラマ演劇をも取り入れるようになった。タルリンの演奏と歌に合わせて演劇が展開する形式だ。題材は住民の日常に起きる出来事で、なかにはいまや伝説の名作とも呼ばれる『サイダ-サエニ』(Saida-Saeni)、『プガット・バルン』(Pegat Balen)、『ラヒル・バティン』(Lahir Batin)などといった物語もいくつか生まれた。

タルリンの歌曲の特徴は、ステージ内で演じられるドラマ同様、インドラマユに暮らす人々の生活が大きく反映している。結婚や恋愛、一夫多妻制をはじめ近所とのいざこざ、酒酔いや賭け、女遊びといった諸問題が取り上げられ、喜び、悲しみの物語を通して最後に教訓が添えられる。聴衆も自らの体験をふまえて感情移入し、ギターと笛が織りなすガムランの様な調べとともに引き込まれていく。ガムラン演奏とともに夜通し語られるジャワ文化、ワヤン(影絵芝居)の現代版ともいえそうだ。タルリンの音楽空間はまさにインドラマユの生活感から生まれた新しくもジャワの歴史文化を受け継いだ大衆音楽なのである。

祖師であるスグラに続くように、インドラマユやその周辺でタルリングループが続々と出始める。1950年代になるとタルリン人気の広がりを証明するかのようにインドラマユの隣、チルボンでも後にタルリン演奏の代表格といわれるような面々が現れた。

こうした演奏者たちの一人がインドラマユのママ・オオット氏である。タルリンが流行した1950年代に幼少期を過ごした彼は、時流のままにギターを手にし、やがて実力を発揮し始める。人気者となり、1980年代までは1ヵ月に15~20回もの演奏をこなしたという。演奏はいずれもドラマ仕立てのものであるため、毎回早朝4時まで続けられたという。

「当時は本当に疲れたよ」

ママ・オオット氏は当時を振り返って、笑いながら話す。イスラム断食月中は日の出前に食事を済ます必要があるため、イスラム教徒の集落では午前3時になると太鼓などを鳴らして人々を起こす習慣があるが、これもママ・オオット氏がタルリンを演奏しながら村内を回ったこともあるという。

ママ・オオット氏のミュージックカセットテープのジャケット写真(同氏息子Dede氏提供)(ママ・オオット氏の演奏:https://www.youtube.com/watch?v=l4xR_wVqw00

当初、この新しい大衆音楽「タルリン」の名前はまだ使われておらず、都市の代名詞を用いて呼ばれていた。インドラマユでは「美しい街のメロディー」(Melodi Kota Ayu)、チルボンでは「エビの街のメロディー」(Melodi Kota Udang)だった。1950年代後半、国営ラジオRRIチルボン放送局の地方番組『イラマ・コタ・ウダン』(エビの街のリズム)で頻繁にタルリンの曲が放送され人気となり、いつの間にかギターと横笛(スリン)を組み合わせた造語「タルリン」という名前が広まっていったとされている。そして、1962年のインドネシア独立記念日である8月17日、地方議会(現在のDPRD)がこの音楽を「タルリン」と正式命名した記録もある。

(以下に続く)

  • 大衆音楽の融合と転機、「正統タルリン」の衰退
  • タルリン・ダンドゥッとシントレン
  • 各地で消えゆく大衆音楽空間
  • 「正統タルリン」最後の巨匠

 

 

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