よりどりインドネシア

2021年09月07日号 vol.101

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第27信:愛が宗教を超えるとき、超えないとき(轟英明)

2021年09月08日 19:13 by Matsui-Glocal

横山裕一様

猛威を振るっていたコロナウイルスですが、ジャカルタ首都圏で徐々に新規感染者が減り始め、このまま減少傾向が続けば、社会活動制限(PPKM)も解除されそうな雰囲気が本稿執筆時点では伺えるようになってきました。何よりここ2週間ほどは周囲で新規感染や訃報を聞くことがほとんどなくなり、今も奮闘している医療従事者にはただただ感謝の言葉しかありません。気づいたら主要道路の通行制限もなくなっており、少なくとも通勤時の交通量は自分の目で確認している限り、少しずつPPKM以前の日常に戻りつつある、そんな感じがしています。横山さんの近辺では如何でしょうか。この調子で映画館もまた元のように再開して欲しいところです。

さて、前回第25信では、インドネシア映画の宗教ものに焦点を当て、手始めにネットフリックスで観られる『信じるものは』(TandaTanya)と、GoPlay やVidioで鑑賞可能な『三日月』(Mencari Hilal)を取り上げました。前者の安直すぎるご都合主義ぶりをかなり強い調子で批判する一方で、後者における、父子の関係を軸に信仰心の在り方を誠実に問うアプローチを台詞の採録を含めて詳細に分析してみました。やや極端な比較となったためか、第26信では横山さんからいくつか反論をいただきましたが、全体的な評価として、前者の「全てを台無しにするかのような結末」は後者の「物語としての説得力と完成度」に遠く及ばないと思われます。『信じるものは』の原題「疑問符」にかけて、あの安易な結末は観客に「これでいいの?」と思わせるために故意にハヌン監督が仕掛けたものという解釈は、明らかに深読みしすぎではないでしょうか。

なぜならハヌン監督が観客の大多数を占めるムスリムの感情に忖度して、ダメ夫ムスリムのソレーをわざわざ爆死させ、一方で華人のヘンドラを敢えて唐突にイスラームに改宗させたことは明々白々だからです。宗教間の調和を一応のテーマとしながら、オチがイスラーム宣教(ダッワ)でオシマイ、しかもその過程を全く描こうともしないのは悪い冗談としか思えない。これが一人の改宗ムスリムとしての率直な感想です。

『信じるものは』ポスター。filmindonesia.or.id より引用。インドネシアではネットフリックスで視聴可能。

いわゆるダッワものと呼ばれるジャンルは、イスラームの絶対的優位性と神の唯一性(タウヒード)を前提に作られることが多いため、ノンムスリムにとっては共感しにくい物語構造を持っています。最終的に主要登場人物の改宗や回心で「めでたしめでたし」となるため、そこに至るまでの道筋をどれだけ説得力をもって描写できるかで監督の力量と実力を測ることができます。

『信じるものは』が失敗作であると私が断言するのは、ヘンドラが回心する過程をすっ飛ばしているためですが、一方でハヌン監督は同じ「ダッワもの」とも言える別作品では異なるアプローチを採ることで興行的に大成功を収めています。2011年公開『信じるものは』よりも3年前に公開されて大ヒットとなった『愛の章句』(Ayat Ayat Cinta)がそれです。横山さんは鑑賞済みでしょうか。

『愛の章句』ポスター。imdb.com より引用。インドネシアではネットフリックス他で視聴可能。

ダッワ臭のあまりに強すぎる原作小説の映画化にハヌン監督はあまり乗り気ではなかったため、映画脚本において細かい設定や描写を改変、ダッワ的な要素を適度に薄めています。映画では身に覚えのない冤罪をかぶせられながらも始終誠実さを貫き通す主人公ファーリの姿を通してイスラームの正しさをアピールする一方で、女性に初心(うぶ)で優男の草食系ファーリが美女二人から好意をもたれ、遂には成り行きで二人とも妻にする、つまり形の上では一夫多妻を肯定する内容になっています。この展開は一夫多妻制に反対するフェミニストからの反発を買いましたが、物語の結末では、病魔に襲われ余命いくばくもないコプト教徒のマリアが「天国で夫のファーリと再会するため」という理由でイスラームに改宗します。

まさに堂々たる「ダッワもの」なのですが、同時にこうした男女の別れを悲劇的に美しく描くことはメロドラマの定型でもあります。実のところ、イスラームはあくまで一夫多妻の方便として、あるいは香辛料のようなもの、「風味」として本作では使われているにすぎません。物語の根底にあるのは美男美女の恋愛の行方を「偶然」が支配するメロドラマという様式であり、これはノンムスリムの観客にも十分アピールする物語展開であるため、国内観客動員370万人に迫る大ヒットとなったのでしょう。

また、イスラームの本場ともいえるエジプトの住民が実は野蛮で粗野で虚偽に満ちているように表象され、逆にイスラーム圏の「辺境」インドネシア出身の主人公ファーリにこそ道徳的優位性が備わっていることが法廷劇を通して明確に主張されます。公開当時ほぼ満員の映画館で観た私は、ダッワものであると同時にインドネシア人観客のナショナリズムもくすぐる展開に若干の意外感を抱きました。が、当時のユドヨノ大統領自らが本作を観て泣き、さらに「イスラーム圏への本作の輸出を望む」という報道が出るに及び、エジプト人をどう見ても好意的に描いていない映画の輸出を呼びかける大統領の外交的配慮の無さに個人的にはだいぶ呆れたものです。しかしながら、『愛の章句』が持つ娯楽性と大衆性を備えた訴求力には侮りがたいものがあり、陳腐なメロドラマと決して切り捨てるべきではないとも感じ、以後ハヌン監督の作品は頻繁にチェックするようになりました。

実際のところ、ハヌン監督がイデオロギーで映画を撮るタイプでないことは、『愛の章句』以降に制作・監督したイスラームの在り方と関係する諸作品を観れば一目瞭然です。

2009年の『ターバンを巻いた女性』(Perempuan Berkalung Sorban)は、伝統的なキアイ(イスラーム導師)の一家に育った女性が因襲に反抗して自立するプロセスを描いています。ただし、男性たちは判で押したようなステレオタイプ的な女性への抑圧者として表象されており、男性観客としていささか居心地が悪いのは否めませんが。

2010年の『輝きをもたらす者』(Sang Pencerah)は、近代的イスラーム改革組織「ムハマディヤ」の設立者アハマド・ダーランの伝記もので、開明的で合理的な彼の姿を通してイスラームと近代化の関係を風格ある史劇として演出しています。

2011年の『信じるものは』を経て、2012年の『愛すれど違う』(Cinta Tapi Beda)は、ヘストゥ・サプトラとの共同監督作品ながら、女性プロテスタント教徒と男性ムスリムの異宗教婚をコメディでもメロドラマでもない非常にリアルな形で演出しています。映画の設定が気に入らない諸団体から猛抗議を受けて上映中止に追い込まれてしまいましたが、インドネシアではタブーに近く敬遠されがちな「異宗教婚もの」として、高い完成度を示していることは特筆すべきでしょう。『信じるものは』では巧妙に回避したテーマを、過度にシリアスでもなく、かといって大袈裟なメロドラマでもなく、実際にありえそうな物語として語っている姿勢は、前作『信じるものは』での安直すぎる結末とは真逆で、監督自身、実はあの結末に思うところがあったのではないかとつい穿ってしまいます。

『愛すれど違う』( Cinta Tapi Beda ) ポスター。filmindonesia.or.id より引用。インドネシアではVidioで視聴可能。ラストはダスティン・ホフマン主演の『卒業』に似てなくもない。

さらに2015年の『ヒジャブ』(Hijab)は、イスラーム信仰のシンボルとして見られがちな女性の頭布「ヒジャブ」を流行りのファッションアイテムとして販売し始めた妻たちが思わぬ形で大成功し、夫たちがやきもきするというライトコメディでした。消費主義とオンラインショップの普及が意図せずしてイスラーム流フェミニズムを推進するという風刺にもなっています。タイトルから連想される「宗教もの」あるいは「ダッワもの」から実際にはほど遠い内容であることは、ひょっとしたらハヌン監督の宗教的中立性という信条が反映されているのかもしれません。

ここで前回取り上げた『三日月』と『信ずるものは』を再び比較してみましょう。父子ロードムービーである『三日月』において、水と油と言ってもいいほど疎遠で不仲な父子は、物語の最後に至るまで、こと信条や信仰に関することでは全く妥協せず、遂には喧嘩別れしてしまいます。父親はなんと「お前とは親子の縁を切る!」とまで言い切ってしまう厳しさです。にもかかわらず和解は可能だし、共に生きることもできる姿を見せて映画は終わります。考え方の違いがあっても、時に衝突しても、自分の意思をどこまで貫き通せるか、そして他者の意思をどこまで尊重できるか、それをありのままに見せているのが『三日月』の優れた点であり、これこそ寛容の精神というべきものです。

逆に『信じるものは』におけるヘンドラの回心は、あまりに薄っぺらすぎて「服従の精神」と呼ぶしかない印象を観客に与えてしまいます。イスラームには「神への服従」という意味が含まれるからこれでいいのだ!と開き直ることは、残念ながら私には無理でした。

なお、『三日月』終盤におけるカメラのぶれやセオリーに反したショットについて、横山さんが第26信でおこなった指摘はその通りで、私も同意するものですが、物語全体の完成度を損なうミスと言えるかは微妙なところという解釈です。というのは、父子が喧嘩別れした後の一連のシークエンスは明らかにそれまでとは違ったリズムでの編集とショットに切り替わっており、しかも台詞はほぼなくなります。それまで画面を支配していた現実感が喪失して、やや非現実的なショットが続くなかでのカメラのぶれであり「首チョンパ」構図なので、これらは意図的に違和感を狙ったものとも解釈可能でしょう。あの海辺での場面を、結末から逆算して敢えて仏教的に解釈するなら「涅槃の一歩手前」すなわち「彼岸へ至った」と考えることもできるかもしれません。突拍子もない考えと一笑に付されるかもしれませんが、あの静けさとシュールな構図はイスラーム的な天国の概念あるいは終末とは全く違うものである点が気になっています。いつか機会があれば、横山さんが指摘されたカメラのぶれと「首チョンパ」構図の件と合わせて、イスマイル監督にその意図を聞いてみたいとところです。

**********

さて、今回は『信じるものは』とは全く違った形で異なる宗教の調和をテーマとした作品として、2009年公開の知られざる傑作『チナ、チンタ』(Cin(T)a)を取り上げたいと思います。ジャンルとしては先述した『愛すれど違う』と同じ「異宗教婚もの」に分類でき、同じ傾向の作品としては、2010年に公開されインドネシア映画祭で最優秀作品賞ほかを受賞した『三つの心、二つの世界、一つの愛』(3 Hati Dua Dunia, Satu Cinta)も挙げられます。『愛すれど違う』や『三つの心、二つの世界、一つの愛』は、インドネシアではVidio などの動画配信サービスで観られる一方で、『チナ、チンタ』は今のところ動画配信はされておらずDVDでしか観られないようです。それでも敢えて論じてみたいのは、この作品が商業劇映画でありながら、かなり特異で思い切ったスタイルをもっているからです。

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