よりどりインドネシア

2021年02月22日号 vol.88

ムラピ山の幽精キ・ジュル・タマンの話(その2)(太田りべか)

2021年02月22日 11:29 by Matsui-Glocal

16世紀半ばから18世紀半ばまで、現在のジョグジャカルタを中心に栄えたマタラム王国の開祖セノパティ(Senopati)と関係の深いジン(Al-Jinn: 幽精)で、ムラピ山の噴火からマタラムの都を守ってきたとされるキ・ジュル・タマン(Ki Juru Taman)をめぐる言い伝えを、前回に引き続き追ってみたい。

●キ・ジュル・タマンは白人だった?

主にマタラム王国の王朝史を語る 『ジャワ年代記』(Babad Tanah Jawi)では、前回紹介したパジャン国王暗殺の次にキ・ジュル・タマンが登場するのは、セノパティの死後、その息子がマタラム国二代目の王位に就いた直後のエピソードだ。

王は王宮の西のダナラヤ(Dana LayaまたはDanalaya)に園を造らせた。愛顧の白面の召使いでジュル・タマンと呼ばれる者の居所とするためだった。このジュル・タマンは、始終、王に変装しては妃や妾たちを混乱させるという困り者だったのである。

先のパジャン王暗殺のエピソードでは、キ・ジュル・タマンはセノパティに仕えるジンだったが、ここでは「白面の召使い」になっている。W.L. Olthof版の 『ジャワ年代記』のインドネシア語訳では “abdi bule”、W.L. Olthof版に元になったとも言われる散文体の同年代記Meinsma版のジャワ語テキストでは“panakawan tiyang bule”(白人の従者)だ。

“bule”という言葉は、現在は「白人」を指す言葉として日常的に使われているが、人種としての白人に限らず、「白い肌の人」という意味もあるようだ。『インドネシア語大辞典』(KBBI)では「アルビノ」の意も収録されている。

Balai Pustaka版の『ジャワ年代記』でこの部分は、“mêng-amêngan katong | laweyan pêthak langkung gêdhene | pan juru taman wastanirèki”と記述されている。「誉ある(または王の)慰みもので、尋常ならざる巨体の白いジン、名をジュル・タマンという」といったところだろうか。ジャワ語に詳しい方に、正しい解釈についてぜひご教授いただきたい。

“mêng-amêngan”は、前回紹介したパジャン王暗殺エピソードで、キ・ジュル・タマンが登場した場面でも、“amêng-amêngane Senapati”(セノパティの慰みもの)となっていた。P.I. Zoetmulder編の『ジャワ古語-インドネシア語辞書』(Kamus Jawa Kuna Indonesia)によると、“amêng-amêngan / mêng-amêngan”というのは「王家で楽しみのために使われる、または飼育されるもの(遊戯具、動物、異形または異常な人間)」と説明されている。「御伽衆」のようなものだったのかもしれない。

肌が白く巨体だったとすると、やはり「白人」を思わせる。当時のジャワ人からするとまさに異形だった西洋人を家来として寵愛していたのだろうか。織田信長がイエズス会のイタリア人巡察使ヴァリニャーノからモザンビーク出身といわれる黒人の召使いを譲り受け、「弥助」と名付けて武士の身分に取り立て従臣とした、という逸話を思い起こさせる。

宮坂正昭氏は『「ジャワ年代記」の時空性-分裂王国マタラム宮廷作家の世界像』という論文の中で、Ricklefsによる “Jogjakarta under Sultan Mangkubumi 1749-1792” (1974年)に「セノパティの子 Krapyakに仕えたイタリア人のことではないかとの指摘もある」と紹介しておられる。

西欧の歴史家で初めにキ・ジュル・タマンに注目したのは、蘭領東インド時代にジャワに渡り、1950年までジャワで教鞭を取りつつジャワ史を研究し、帰国後も精力的に研究活動を行ったオランダ人歴史学者H. J. デ・グラーフだったらしい。「キ・ジュル・タマン=イタリア人」説を唱えたのもデ・グラーフだったようだ。「キ・ジュル・タマン=西洋人」説については、他にも興味深い側面があるので、デ・グラーフの説と合わせて、次回、改めて見ていきたい。

●キ・ジュル・タマンは影武者だった?

キ・ジュル・タマンとダナラヤの園をめぐるこのエピソードについて、宮坂氏は同論文で「Juru Tamanは王と同じ顔形に変える術があって、よく王の妃や妾たちを騙した」とし、「王の替玉・影武者であったとも考えられる」と指摘しておられる。

ほんとうに肌が白かったり、並外れた体躯の持ち主だったりしたら、ジャワ人の王になりすますのには無理があるような気もするが、なにかの暗喩なのかもしれず、特殊な変装術を身につけていたのかもしれず、または、やはりジンのような魔法が使える異界の者だったのかもしれない。あるいは、王の真似をして宮中の人々を困らせる、ただの悪戯者だったのかもしれない。

いずれにしても、マタラム国二代目の王が即位後に行った主な事業のひとつとして、ダナヤラの園造営が挙げられているのは興味深い。しかもそれがキ・ジュル・タマンの居所とするためだったというのだから、キ・ジュル・タマンがただの従者ではなく、マタラム王家にとって重要な意味のある存在だったことがうかがえる。

(以下に続く)

  • キ・ジュル・タマンは毒薬の専門家だった?
  • オランダの魔人
  • キ・ジュル・タマンは馬だった?
この続きは1ヶ月無料のお試し購読すると
読むことができます。

関連記事

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第14信:リアリズムと臨場感、映画における民族言語(横山裕一)

2021年02月07日号 vol.87

ムラピ山の幽精キ・ジュル・タマンの話(その1)(太田りべか)

2021年01月22日号 vol.86

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第13信:映画内言語選択の政治性(轟英明)

2021年01月22日号 vol.86

読者コメント

コメントはまだありません。記者に感想や質問を送ってみましょう。

バックナンバー(もっと見る)