よりどりインドネシア

2021年02月22日号 vol.88

いんどねしあ風土記(25):首都圏鉄道(コミューターライン)物語 ~ジャカルタ首都特別州、首都圏~(横山裕一)

2021年03月08日 20:21 by Matsui-Glocal
2021年03月08日 20:21 by Matsui-Glocal

2021年1月下旬頃から、「コミューターライン」と呼ばれる首都圏鉄道に新しいデザインの車両が登場した。従来の赤と黄色のラインに変わって、紅白の国旗をイメージしたかのように赤いラインに白ラインでアクセントがつけられ、若干精悍さが加わったようにも見受けられる。「JR」の文字を剥いだ跡が新しいことから、昨年11月にジャカルタに到着したJR東日本の中古車両とみられる。

JR東日本からインドネシアへの中古車両の譲渡は昨年11月到着分が最後となり、首都圏鉄道が進めてきた日本の中古車両による改革は一区切りを迎えることになる。かつて車両の屋根に鈴なりに乗客が乗っていた時代から、都市型の 近代的な通勤電車に変身した約十年間の変遷をたどる。

●首都圏鉄道の歴史

ジャカルタでの都市鉄道のはじまりはオランダ植民地時代の1925年、現在のタンジュンプリオク駅(北ジャカルタ)~ジャティヌガラ駅(東ジャカルタ)間の15.6キロで、ドイツ製の電気機関車による牽引だった。その後、現在の中心路線であるジャカルタコタ駅(西ジャカルタ)~マンガライ駅(南ジャカルタ)間など路線が拡張され、独立後のインドネシアにも引き継がれていく。

1960年代になると一日の利用客が8万人にまでなるが、1965年年末に都市鉄道の運行は中止される。当時の渋滞緩和や経済悪化に伴う乗客の激減が原因とされているが、インドネシアの歴史的転換点となったクーデター未遂事件とされる9・30事件直後でもあり、少なからず影響を与えていたものとみられる。

ジャカルタの都市化が進み、公共交通機関整備の必要性が求められた1972年に都市鉄道は再開する。その後、都市中心部での踏切などによる渋滞解消のため、日本の国際協力機構(JICA)などの協力で、ジャカルタ中心部の鉄道路線の高架化や河川脇の窪地への移設工事が進められ、1992年、首都圏鉄道の軌道は現在とほぼ同じ姿となった。

そして2000年、東京都から中古車両72両が無償譲渡された。2000年以前にも日本の車両やディーゼル機関車が一部導入されているが、クーラー付きの「冷房車両」はこれが初めてだった。最初の車両が北ジャカルタのタンジュンプリオク港に荷揚げされた当時の取材で、運搬船からクレーンで吊り上げられた元地下鉄都営三田線のステンレス製の車両が南国の日差しに反射して輝いていたのが印象的だった。

これにより、首都圏鉄道では初めて「冷房車両」による編成が導入されることになった。これを皮切りに、東京メトロをはじめ東急電鉄、JR東日本から首都圏鉄道への中古車両の無償譲渡が相次いでいった。

2008年、首都圏鉄道はインドネシア国鉄(PT. Kereta Api Indonesia)の子会社として分社化され(現在のPT. Kereta Commuter Indonesia)、首都圏鉄道は「コミューターライン」と呼ばれるようになった。そして、2013年のコミューターライン大改革へと向かうことになる。

●大改革以前の象徴、何でもありの無法車両「エコノミー」

2000年の日本中古車両の導入で首都圏鉄道初の冷房車が登場して以降、首都圏鉄道では冷房車編成と、従来からの冷房無し車両編成、通称「エコノミー」の2種類の運行となった。このエコノミーこそが車両の屋根まで鈴なりに乗客が乗り、窓や扉が全開のまま走る電車で、かつてジャカルタ特有の風景のひとつにもなっていた。近代高層ビルが立ち並ぶジャカルタの目抜き通りを立体交差で走り抜けるエコノミーの姿は、取り残された古いアジアを見るようで妙なアンバランス感を生み出していた。まさに鉄道都市化の遅れの象徴でもあった。

料金は距離による変動はなく固定料金で、冷房車編成が8,000ルピア(当時のレートで約80円)だったのに対し、冷房無しのエコノミーが1,500ルピア(同約15円)とはるかに安かったため、冷房車導入後も多くの乗客がエコノミーを利用したのも事実だった。このため、エコノミー車両の乗客は開いたままの扉部分から溢れんばかりとなり、屋根の上も乗客で鈴なりになった。屋根上への乗車防止のため各駅ホームの上部に有刺鉄線などが張られても、屋根に上る乗客が後を絶たなかった。

首都圏鉄道の非冷房車「エコノミー」(2013年2月撮影)

さらにエコノミーの車内はいかにもアジアを思わせる、何でもありの状態だった。窓も扉も全開のまま走るため、落ちないよう扉付近の乗客は床に座り込んでいる場合が多い。彼らを踏んづけたり蹴飛ばしたりしないよう気をつけながら乗車すると、日中でも隣の乗客と肩が触れるくらいの混みよう。電車が動き出し、窓や扉から風が入り込むと一瞬涼しくなるが、スピードが上がるにつれて外気は入り込まなくなる。

同時にどっと汗が噴き出してくる。車内天井を見上げると扇風機はあるが、羽根が止まったまま首だけ振っている。あまりにもの熱気におもむろに乗車前に買った水を飲む。車両屋根上にいる乗客は車内に乗れなかったためだけでなく、車内の暑さを避けるためでもあったのでは、とまで思えてくる。

走行中のエコノミー車内(写真左)と車内で物売りする男性(写真右)2013年撮影。

車内を見渡すと、扉付近の乗客がタバコに火をつける。そして予想以上に多いのが、満員の車内を移動する物売りだった。「飴はいかが、千ルピア」「揚げ豆腐、揚げ豆腐」「サラック(果物)あるよー」。合唱するかのように様々な物売りの声が耳に飛び込んでくる。さらには髭剃りや携帯電話のカバー、子供の本、イヤホンなど車内で売らなくてもいいような物売りまで次々と現れる。満員のため彼らが通り過ぎるたびに身をよじる。まるで電車自体が移動市場あるいは屋台街になったかのような賑わいだ。

なかには小気味好い売り口上を披露する人もいた。「さあ皆さん、これは普通の折りたたみ傘ではないよ。傘を拡げて、こうして端がめくれ上がっても骨が折れない!普段は3万ルピアだけどきょうは2万ルピア。赤、青、緑、ピンクと色とりどり。え?お姉さんピンクがいい?ハイ、2万ルピア。いい買い物したね」

あまり抑揚はなく事務的な口調ではありながら、映画「男はつらいよ」の寅さんを彷彿とさせる光景だった。

おもむろに背後から大音量のダンドゥッ(インドネシアの大衆音楽)が鳴り響く。振り向くと大きなラジカセを背負った目の不自由なおじさんがマイク片手に歌い出す。奥さんらしき女性が後ろからおじさんをラジカセごと抱えながら、片手におひねり用の紙コップを持っている。時には袈裟懸けにラジカセを右脇に、左脇には幼児を抱えて歌う恰幅のいいお母さんが登場することもあった。

エコノミーが駅に停車するたびに、物売りや流しが入れ替わり立ち替わり乗下車する。ある時、大きな荷物を抱えた青年が乗り込んできた。よく見ると彼が抱えていたのはベースだった。さらにバイオリンとギターを持った二人が続く。弦楽三重奏の流しだった。ベースとバイオリン奏者に挟まれた状態で、演奏が始まる。身動きもままならない満員のなか、バイオリン奏者が弓を引くたびにその先端がこちらの頭髪をかすめた・・・。

「危険、汚い、スリの巣窟」とまで住民間でも言われたが、首都圏各地とジャカルタ中心部を結ぶ、安価な公共交通機関として、エコノミーは一定の重要な役割も果たしてきた。さらには車内をも伝統市場、屋台街のように商業の場として車内文化空間を作り出してしまうのも、インドネシアの人々ならではだった。

しかし、首都圏鉄道の近代化を図るインドネシア国鉄にとって、エコノミーを改革の対象とするのは時代の流れとして自然の流れだったともいえそうだ。

●近代化への大改革とイグナシウス・ジョナン社長

2013年6月1日は、首都圏鉄道にとって歴史的な日となった。近代化への大改革が実施された日で、電子チケット化と料金改定、さらにはエコノミー廃止に伴う全車両冷房化が改革の大きな三本柱だった(エコノミーは同年9月に全廃)。

とくに、チケット料金は乗車区間の異なる乗客の公平性を考慮して、従来の一律から乗車駅数に伴う加算方式に切り替えられた。乗車駅から5駅目までが3,000ルピア(当時レートで約30円)で、以降3駅ごとに1,000ルピア(同約10円)が加算されることになった。それ以前の冷房車が一律8,000ルピア(同約80円)だったことから、実質大幅な料金の値下げとなった。全廃となる非冷房車「エコノミー」の元利用者にも手の届く料金でもあった。

電子チケット化も、切り替え当初こそ、変更に戸惑う乗客に対する説明で駅のチケット売り場に長蛇の列ができたが、日を追うごとにスムーズになっていった。エコノミーの廃止に伴って、駅で屋根に上る乗客を待つ停車時間も短縮され、運行本数の増便も可能になった。これらの改革により、首都圏鉄道は飛躍的に乗客を伸ばしていくことになる。

電子チケットカードと専用改札機(2013年6月1日撮影)

改革断行の背景には、全車冷房化を可能にした日本からの中古車両の増加もあるが、2009年2月にインドネシア国鉄(PT. Kereta Api Indonesia)の社長に就任した、イグナシウス・ジョナン氏の指導力、行動力に負うところが大きかったといえる。

ジョナン社長の就任当時、インドネシアでは社会の安定に伴い経済が発展し始めた時期で、自動車とバイクの販売台数や利用者が急増する一方で、鉄道利用者が減少傾向になっていた。このため、ジョナン社長は現状の問題点を洗い出し、駅トイレの清浄化をはじめ社員教育、鉄道施設の改修などを積極的に進めた。これにより就任から5年間で、年間100件以上あった脱線や衝突などの事故件数を7件にまで抑える実績を作った。

イグナシウス・ジョナン氏(2009年2月~2014年10月KAI社長在任)(写真引用:https://id.wikipedia.org/wiki/Ignasius_Jonan

こうしたなか、改革すべき大きな課題のひとつが首都圏鉄道の近代化だった。2011年には大統領令でも、空港への鉄道整備とともに、首都圏鉄道の再整備により利用者数を1日55万人から2018年には120万人まで引き上げる目標が打ち出されていた。

このため、ジョナン社長はまず、首都圏鉄道の駅ホームの再整備に取り組んだ。当時、ほとんどの駅ホームでは、飲食を中心とした多くの屋台に場所が貸し出されていた。これを撤去して利用者の安全確保のためホームのスペースを確保することが狙いだった。しかし、一向に撤去が進まないため、ジョナン社長は2012年11月、関係幹部に対してメッセージで失望感をあらわにした。

「きょう夕方、コミューターライン(首都圏鉄道)に乗ったが、駅の状況は悪いままじゃないか。約2年前、私が全駅を整備し、清潔にするよう指示を出したのに、成果はほぼ零点だ!大統領令の方針に従えない者は辞めてもらっていい。アリを踏んづけても潰せないでいるとはお笑い種だ。行動が遅すぎる。(駅は)我々インドネシア国鉄にとってサービスの顔なんだ!」

成果をあげられなかった幹部の何人かが配置転換され、ようやく駅の屋台撤去が進み始めた。しかし、最後まで撤去に抵抗する屋台があった。学生や人権団体の支援を受けたインドネシア大学駅の屋台だった。

首都圏鉄道改革実施3日前の2013年5月29日朝、ついに同駅の屋台の強制撤去が行われた。当時、同駅近くに住んでいた筆者はテレビニュースの生中継で知り、現場近くまで様子を見に行くと、駅ホームで作業する重機の周りを大勢の学生や付近住民が取り囲み、時に悲鳴や怒号が飛んでいた。しかし、結果的に駅ホームに商店街のように並んでいた屋台はすべて撤去され、駅はホーム本来のスペースを取り戻すことになった。

これと前後して、インドネシア大学の学生代表や人権団体、屋台関係者らから多くの抗議や脅しの電子メッセージがジョナン社長に寄せられた。ジョナン社長は自ら矢面に立って、電子メッセージを通じて丁々発止の議論を闘わせながら理解を求める対応を続けたという。ジョナン社長のターゲット実現へ向けた情熱がうかがえる逸話である。

屋台強制撤去後のインドネシア大学駅ホーム(2013年6月1日撮影)

最終的に、駅敷地内の駐輪場などにもあった屋台を含め、2013年7月上旬までに首都圏鉄道の63駅にあった5,286軒の屋台が全て撤去された。また駅以外でも安全性の確保のため、全路線の線路脇に金網が設置された。当時ホームから直接線路に降りて駅外へと出る人が多かったのを防ぐためでもあった。こうして、目標である利用客の増大に対応できる駅環境の整備が完了した。

同月下旬、他の地方路線の整備や運輸目標達成とともに、首都圏鉄道の改革を実現できたことに対して、ジョナン社長は全社員にメッセージを送った。

「インドネシア国鉄は3年以上の困難な準備期間を経て、新しく画期的な歴史を作り出した。非常に名誉なことであり、こうしたプロセスを継続することで、国鉄はより近代化し、より時代に即し、サービス向上が続けられていくことを信じている。特に首都圏鉄道の冷房化による全車両の一本化は私の夢でもあったが、3年以上の取り組みを経てついに夢は実現した。一部の変化のない職員を除いては、皆が役立ち成果を挙げ始めている。毎日小さなことでも一つずつ改善し、完璧を目指して頑張って働こう」

駅環境の整備とあわせて、首都圏鉄道での電子チケット化と料金改定、それに全車両冷房化による大改革は実施後、目に見えて利用客の増加という成果を出し始めた。これまで約55万人だった一日の利用客数が、改革実施わずか4ヵ月後の9月には60万人となった。その後も利用客数は着実に伸び、2015年には1日平均70.5万人(年間合計2億5750万人)、2018年には大統領令の目標120万人には届かなかったが、1日平均92.3万人(年間3億3680万人)と1日100万人が見えるところまで来た。改革から5年で実に168%増を達成したことになる。

ボゴール駅。整備された駐輪場はさらなる乗客増加で後に二階建てになった(2014年撮影)

こうして首都圏鉄道は、近代的な公共交通機関として生まれ変わり、ジャカルタの新たな顔にもなった。ジョナン社長の明確な目標設定とそれに向けた着実な実行力と指導力が発揮された結果ゆえの、短期間での目標達成だったといえそうだ。JR東日本からの中古車両譲渡を実現させたのも、日本へ何度も渡って交渉した彼に負うところが大きかった。こうした実績を買われて、イグナシウス・ジョナン社長は2014年、ジョコ・ウィドド大統領の第1次政権で運輸大臣に抜擢され、後にエネルギー鉱物資源大臣を歴任している。

(以下に続く)

  • 日本中古車両の貢献
  • メイドインジャパンの名残
  • 進む通勤電車の乗客サービス
  • 環境の変化に伴う乗客の変化
  • 深夜のスディルマン駅ホームにて
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