よりどりインドネシア

2020年10月22日号 vol.80

いんどねしあ風土記(22):ジャカルタを象った建築家、F・シラバン 〜ジャカルタ首都特別州、西ジャワ州ボゴール~(横山裕一)

2020年10月24日 21:36 by Matsui-Glocal

2020年8月下旬の夜、南ジャカルタで最高検察庁の本庁舎が全焼する火災があった。スナヤンの南に白く堂々とそびえていた本庁舎の姿は黒く焼け焦げ、骨組みを晒す無残な姿となった。この建物を設計した人こそが、かつてスカルノ初代大統領のもと、イスティクラル・モスクなどジャカルタの顔ともいえる数々の建築物を手がけてきたフリードリック・シラバンである。誠実で、情熱的な建築家を通して、現在のジャカルタの姿が作られた軌跡をたどる。

 

全焼した最高検察庁本庁舎(写真上2020年8月24日撮影)と火災前(写真下2017年撮影)

●ボゴール宮殿の傍で

ジャカルタ首都圏の最南端、西ジャワ州ボゴール。歴代大統領が執務をとるボゴール宮殿を含めた広大な植物園の外周通りの一角で、ある道路名を記した標識が立っていた。「建築家、F・シラバン通り」である。生前の彼の自宅があることから、ボゴール市が彼の功績をたたえて2017年、通り名を変更している。

植物園外周の大通りからこの通りを少し入ると静かな住宅街が広がり、その一角に彼の自宅がある。インドネシアにしては珍しく、塀も門扉もなく開け放たれて広がる庭には高く伸びたドリアンの木。郵便受けを兼ねたデザインの水色の玄関扉の表札には、現在でも彼の名前が刻まれていた。

●建築家フリードリック・シラバン

フリードリック・シラバン(Friedrich Silaban)はスマトラ島の北スマトラ州中タパヌリ、ボナンドロック出身で、1912年12月16日、バタック民族の農家の子として生まれる。父親は農業の傍ら、プロテスタント教会の牧師でもあった。シラバンは地元のオランダ学校を卒業後、1927年にエリート校のひとつ、技術高等学校(Koningin Wilhelmina School)進学のため、バタヴィア(現在のジャカルタ)に行く。彼の実家は決して裕福ではなかったが、成績優秀だったため奨学金で学業を続けた。当時、バタヴィアはオランダからの独立の気運が高まっていた時代でもあった。

シラバンが初めて建築に興味を持ったのは、バタヴィアで毎年8月から9月にかけて約1週間開催されたイベント、パサール・ガンビル(Pasar Gambir)だったといわれている。パサール・ガンビルはオランダ女王の誕生日を祝って19世紀末から始まり、会場であるガンビル(現在の独立記念塔広場)では多くの見本市が出店し、ワヤンなどの芸能、アトラクションが披露された。また会場には毎年テーマを変えたアジア各国の伝統建築物がパビリオンとして多数建設された(これをもとに、後にジャカルタの生誕を祝うイベント、ジャカルタ・フェアが1968年から開催されている)。

1922年当時のパサール・ガンビル(Sejarah Jakartaより引用)

当時シラバンは技術高等学校の途中からオランダ人の住宅に下宿していた。このオランダ人はJ・H・アントニースで、同イベントを担当していた。この縁でシラバンはパビリオンを建築する多くのオランダ人建築家と交流したという。この建築家たちが目指していたのが、建築における西洋と東洋の融合だったという。如何にすれば西洋の工業技術と東洋の伝統技能をひとつのものに体現できるか。オランダ建築家たちの議論は、後のシラバンの建築家としての方向性に大きな影響を与えたものとみられる。

技術高等学校卒業後の1930年代、シラバンはオランダ植民地政府のバタヴィア市職員を経て、ボゴールの公共事業局職員として働いた。その傍らで彼は独学で設計を続け、植民地政府のホテル建設計画などのデザイン公募にも応募を続けている。彼の長いキャリアの始まりだった。

しかし、時代は大きく動いた。1942年以後の日本軍政統治、1945年の日本敗戦に伴うインドネシア独立宣言、続くオランダとの独立戦争と動乱期に入る。日本軍政時には、シラバンもオランダ植民地政府の職員だったことから逮捕され、一時期ヨーロッパ人収容キャンプに入れられていたこともあった。

インドネシア独立宣言後、シラバンは新政府下となったボゴールの公共事業局での仕事を続けた。しかし、ここから彼の建築家としてのキャリアが加速し始める。日中、市職員としての仕事をする一方で、夕方から夜遅くまで、また朝起きてから出勤までと、時間を惜しむように懸命に設計に取り組む日々だったという。シラバンは多くの建築デザイン公募に参加し、ボゴールの高校校舎のデザイン、建設に携わったりもした。

1950年、シラバンはボゴール職員を1年間休職し、オランダ・アムステルダムへ渡った。プロの建築家になるためのアカデミー(Academie voor Bouwkunst)で勉強するためだった。これはシラバンがプロの建築家を目指す決意の表れでもあり、経済的理由から大学へ行っていない彼は、この夜学で専門知識や技術を補い、身につけたのだった。

●日本視察でつかんだ確信

留学帰国後、シラバンは再びボゴール市職員としての仕事以外の殆どの時間を設計に当てる日々だったが、1954年、大きな刺激を受ける機会を得た。教育文化省のプログラムで日本とインドへの視察研修メンバーに、当時公共事業局長だったシラバンが選ばれたのだ。目的は両国の建築様式、建築芸術を学ぶことだった。当時、インドネシアの建築家の間では、今後都市開発での建物やモニュメントを建築するにあたって、オランダ植民地建築様式だけでなく建築物の「インドネシアらしさ」はどんなものが相応しいかが問われていた。

大阪から入国したシラバンはその後、神戸、名古屋、東京の戦後急速に復興した都市開発の状況や近代建築物、京都、奈良の伝統建築物を見て回った。また何人かの日本の有名建築家とも交流した。特筆すべきはこの滞在中、彼が驚きとともに、建築表現に関して新たな発見をした二つの出来事があったことだ。

その一つが、奈良の東大寺大仏殿を訪れた時だった。朝、シラバンが大仏殿の前庭を散策していると、不意にモーツァルトの子守唄を子供たちが合唱する歌声が微かに聞こえてきたという。彼が驚いたのは、一見不釣り合いと思えるこのコーラスが典型的な日本伝統木造建築物である大仏殿を中心に、周囲の森など全ての環境とともにひとつに融合した雰囲気を作り出したように感じられたことだった。シラバンはまさに芸術を鑑賞するのに、東洋と西洋の垣根はないということを実感したという。

似たようなもう一つの出来事は出国直前の東京で、何気なく立ち寄った神田にある戦前から続く古い名曲喫茶でのことだった。インテリアをはじめヨーロッパの田舎にあるホテルのような雰囲気の店内で、来客は皆飲み物片手にレコードプレーヤーから流れるクラシック音楽を楽しんでいた。これを見たシラバンは改めて芸術や文化を鑑賞するのに制限などないことを強く確信した。

日本滞在を通じてシラバンは、日本が地勢や気候から木造建築が主体となり、大仏殿などのように高度な木造技術を発展させたことなどから、建築物とはその土地の人々や生活様式、気候、地勢に強く結びついたものであり、近代建築を進めるにあたって、西洋と東洋の融合は可能であると認識を深めた。これは今後の彼の手がける建築設計、「インドネシアらしい建築物」を作り出すのに大きな影響を与え、方向性を見出すきっかけともなった。

●イスティクラル・モスク設計に始まる才能開花

日本、インド視察を挟んだ1953年から1955年にかけて、シラバンはある設計に取り組んでいた。スカルノ大統領が国家モニュメント的な建築物によるジャカルタの都市開発の第一弾として、デザインを一般公募したイスティクラル・モスク(Masjid Istiqlal)の設計だった。そして1955年7月、審査の結果、シラバンのデザインが採用されることになった。42歳にしての才能開花である。

シラバンのイスティクラル・モスク設計図(arsitektur indonesiaより引用)

シラバンによるイスティクラルの設計は、直径45メートルもある大きなドームが象徴的だが、特徴は建物内部にあった。壁を最小限にとどめ、大きな柱を主体とした作りで、外気がどこまでも吹き抜けるように工夫されていた。また軒下ともなる外周通路が広く設けられ、礼拝者たちが強い日差しや雨から逃れられる配慮が施されていた。12本の巨大な柱に支えられたドーム下のメインの礼拝所が巨大なオープンスペースになっているのが示すように、モスク内全てがオープンで明るい印象を与えるものだった。高温多雨のインドネシアの気候に配慮された、まさに「インドネシアらしい」デザインである。

イスティクラル・モスク(写真上)。館内は空気の流れを配慮し、壁が最小限になっている(写真中)。また、12本の柱で支えられたドーム下の礼拝所は、広大な空間が確保されている(写真下)。

興味深いのは、国家のランドマークともなるモスクの設計にキリスト教徒であるシラバンを選ぶ過程で、当時特に議論された痕跡が見られないことだ。第3位受賞者もキリスト教徒だった。審査委員長を務めたスカルノ大統領以下、当時の宗教に対する寛容さがうかがわれる。逆に近年のシラバンに関する地元記事や報道では、判を押したように「イスティクラルの設計者は牧師の子供」などと強調した表現がなされている。仮にイスラム教の排他的傾向が強まりつつある現代だったら、シラバンは選ばれなかったかもしれない。

一方、シラバン自身についてはキリスト教徒でありながらイスラム寺院を設計するにあたって、心中では誠実さゆえの葛藤があったとのエピソードもある。

以下、シラバンの子供(Poltak氏)がインドネシア歴史サイト「ヒストリア」(HistoriA)に語ったもので(2017年6月)、父親がモスクを設計しているとき、祈るようによく口にしていたことがあったという。

「神よ、もし私が誤ったモスクの設計をしていたら、(公募審査から)私を落とし、苦痛をお与えください。しかし、もし正しく設計できていたら、私が選ばれますよう」

イスティクラル・モスクは最終的に政府により「イスティクラル」(独立の意味)と名付けられたが、当初シラバンは設計図にモットーとして「神」(Ketuhanan)と記していた。イスティクラル・モスクは1961年8月24日、起工式が行われたが、工事は実に17年にもわたることになり、シラバンの後の人生にも大きく影響を与えることになる。

(次に続く)

  • スカルノ大統領と「もの言う」秘蔵っ子
  • アジア大会に向けて
  • イスティクラル工事難航、政変~シラバン苦悩の時代
  • シラバンの家
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