よりどりインドネシア

2020年10月22日号 vol.80

犬婿入り譚(太田りべか)

2020年10月22日 19:29 by Matsui-Glocal

十数年前の話になるが、エカ・クルニアワン(Eka Kurniawan)著の小説 “Cantik Itu Luka”(邦題『美は傷』)を翻訳したことがある。この小説の中に、パジャジャラン王家の末裔ルンガニス姫の物語が出てくる。

ルンガニス姫は常軌を逸するほどの美少女で、男も女も父母すらも姫の美貌の虜になってしまい、国中が混乱に陥った。姫は自分の美貌を呪って部屋に引きこもり、だれの前にも姿を見せなくなったが、それでも姫の美貌についての噂は広まる一方だった。父王は、混乱を鎮めるためには姫を結婚させるしかないと思い決めて、嫁取り競争の布令を出し、数多くの若者が名乗り出るものの、条件が厳しすぎて皆失敗してしまう。やがて他の国々の王子たちが姫を奪い取るべく次々と攻め寄せ、国中が戦に巻き込まれる。姫はそれを悲しみ、部屋に引きこもって以来縫い続けてきた花嫁衣裳を一日も早く完成させて、だれかと結婚することがこの悲劇を終わらせる唯一の道だと思い知る。

ついに花嫁衣裳が完成した。その衣裳を着て窓を開けたとき最初に目にした男の妻になろうと姫は誓いを立てる。百夜の沐浴をすませた後、いよいよ花嫁衣裳に袖を通して、姫は窓を開けた。すると、そこにいたのは一匹の犬だけだった。姫は誓い違えず、その犬を夫に選んだ。だれもが反対したので、姫は犬を連れて南の海辺の霧立ち込める森に入り、その地をハリムンダ(Halimunda: halimunは霧の意)と名づけて何年もそこで暮らした。後世のハリムンダの住人の多くは、自分たちはルンガニス姫と犬の子孫だと信じている。

犬婿入り譚である。

“Cantik Itu Luka” (左)AKY Press + Penerbit Jendela版(初版)2002年。(右)Gramedia版 2004年。

●パンガンダラン地方のルンガニス伝説

ハリムンダはこの小説の舞台となる町で、架空の町だが、西ジャワ州南海岸の中ジャワ州との境にあるパンガンダラン(Pangandaran)あたりがモデルになっていると思われる。このパンガンダラン地方にルンガニス伝説が残っている。

スンダ・ガルー王家のアンガララン(Anggalarang)王子がパンダンガラン地方に新王国ガルー・タンドゥラン(Galuh Tanduran)の建設を志すが、父王に反対される。未開の地で猛獣も多く、よそからやって来て住み着いた住民たちも粗暴だからというのが理由だった。だが、アンガラランはその反対を押し切って王国を開き、ウォノソボ地方から修行のためにやって来たエヤン・アルゴプロ(Eyang Argopuro: eyangはジャワ語で祖父母の敬称)の娘デウィ・ルンガニスと結婚する。

デウィ・ルンガニスは非常な美貌の持ち主だったため、ヌサカンバンガンからやって来た海賊たちに狙われ、夫のアンガララン王はついに海賊の手にかかって落命する。デウィ・ルンガニスは洞窟の中に逃れた。その洞窟の中には川が流れていて常人は中に踏み込めなかったが、デウィ・ルンガニスは不思議な力を持っていたために入れたのだった。海賊たちは諦めて去り、デウィ・ルンガニスはその後も洞窟から出てくることはなかった。

このルンガニス洞窟はパンガンダランの東海岸のパナンジュン(Pananjung)にあり、その川の水は「美人の水」「縁結びの水」と呼ばれていて、今も特定の日には人々が水浴びに来るという。その川の水には炭酸マグネシウムが含まれていて、毛穴を引き締める効果があるともいわれているらしい。

史実とされる系譜によると、1371~1475年までスンダ・ガルー王国の王位にあったNiskala Wastu Kancana王の別名がアンガラランである。彼は、ジャワのマジャパヒト王国との間で起きたブバットの戦で落命したリンガブアナ(Linggabuana)王の息子で、その戦のきっかけとなった絶世の美女ディヤー・ピタロカ(Dyah Pitaloka)姫の弟だ。なんと126歳前後まで生きた。死後、二人の息子がスンダ王国とガルー王国に別れて支配した。このガルー国王がアンガラランだとする説もあるようだ。あるいは異様な長寿は、王二人分を合わせたものであったかもしれない。その後バドゥガ・マハラジャ(Sri Baduga Maharaja)によって、スンダの地は再びパジャジャラン王国として統一されている。

ジャワ島西部のスンダ王国とガルー王国(Wikipediaより)

●アルゴプロ山のルンガニス伝説

パンガンダランから離れた東ジャワのアルゴプロ山にも、デウィ・ルンガニス伝説がある。アルゴプロ山の三つの頂のうちの一つがルンガニス峰と呼ばれ、神殿跡が残っている。かつてそこにデウィ・ルンガニスが住んでいたと伝えられている。その出自については、マジャパヒト王の娘で、王に溺愛されて王位を託されそうになったので、山頂に逃れて小さな王国を開いたとする説や、マジャパヒト王の側室の娘で、父王に認知されず、山頂に逃れたとする説、また、南海の女王またはその片腕Nyi Roro Kidulの妹とする説もあるらしい。

アルゴプロ山は登山愛好家の間でも人気の高い山らしいが、登山中ルンガニスに気に入られると下山できなくなるという。YouTubeで探してみると、下山はできたものの「着いてこられた」体験談などもあって、なかなかおもしろい。

パンガンダランの伝説とアルゴプロ山の伝説は、直接の関係はないように見える。だが、パンガンダラン伝説のデウィ・ルンガニスの父の名は「アルゴプロ」だし、パンガンダラン伝説にもNyi Roro Kidulが登場するバージョンがあるらしいので、やはりどこかで繋がっているのかもしれない。

●サンクリアン伝説

パンガンダランの伝説もアルゴプロ山の伝説も、美女ルンガニスが人の容易に近づけないところに身を潜めるという点は共通するが、どちらにも犬は登場しない。一方、スンダ地方に伝わる犬婿入り譚として知られるのがサンクリアン伝説である。

サンクリアン伝説にもいろいろなバージョンがあるが、Wikipediaに収録されているものをみてみよう。

ある男神と女神が過ちを犯したため、地上に堕とされ、女神はワユン・ヒャン(Wayung Hyang)という猪に、男神はトゥマン(Tumang)という犬の姿となった。

あるとき、スンギン・プルバンカラ(Sungging Perbangkara)という王が森で狩りをしている途中、放尿した。その尿がニシキイモの葉に溜まっていたのを猪ワユン・ヒャンが知らずに飲み、身篭って美しい女の赤ん坊を産み落とした。王は森の中でその赤ん坊を見つけて連れて帰り、ダヤン・スンビ(Dayang Sumbi)と名づけた。ダヤン・スンビはたいへん美しい姫に成長し、多くの求婚者が現れた。やがてダヤン・スンビを巡って国々の王たちが戦を始めたので、ダヤン・スンビは飼い犬のトゥマン(Tumang)を伴ってある丘に身を隠した。

ある日、機織りをしていた姫は、うっかり杼(ひ)をテラスの下に落としてしまう。取りに行くのを面倒に思った姫は、「だれかが杼を取ってきてくれますように。それが男だったら、その人の妻になります。女だったら、その人を妹とします」と誓った。やがて飼い犬のトゥマンが杼をくわえて姫のところに持ってきた。姫は誓いを破ることができず、やむなくトゥマンを婿とした。

姫が犬と結婚したことを恥じて、王はふたりを森の中に追いやった。満月の夜に、トゥマンは元の男神の姿に戻ってダヤン・スンビと交わった。やがて息子が生まれ、サンクリアン(Sangkuriang)と名づけられた。サンクリアンはたくましい若者に成長した。

ある日、ダヤン・スンビは鹿の肝が食べたくなったので、サンクリアンに鹿を狩ってくるよう頼み、トゥマンについて行かせた。いくら探しても獲物はなかなか見つからなかったが、ついに一頭の肥えた猪が逃げて行くのを見かけた。サンクリアンはトゥマンに猪を追うよう命じるが、トゥマンにはその猪がワユン・ヒャン、つまりサンクリアンの祖母であることがわかったので、追おうとしなかった。サンクリアンは腹を立て、トゥマンに弓を向けて言うことを聞くよう脅すが、うっかり矢を放ってトゥマンを殺してしまう。他に獲物が見つからなかったので、サンクリアンはトゥマンの肝を取って持ち帰った。

その肝を料理して食べた後、ダヤン・スンビがトゥマンはどこに行ったのかと尋ねると、サンクリアンは、実は今食べたものはトゥマンの肝だと告白する。怒ったダヤン・スンビは、椰子の殻でできた飯杓子でサンクリアンの頭を強打した。

サンクリアンは放浪の旅に出た。一方、ダヤン・スンビは息子を追いやったことを悔いて、息子の帰還を祈りつつ、火を通さない植物だけを口にする修行を続けた。数年後、サンクリアンは森でとても美しい女性を見かけ、それが自分の母だとは知らずに恋に落ちる。ダヤン・スンビも自分の息子とは気づかず、サンクリアンの虜になった。

ある日、サンクリアンの頭を膝に載せて愛撫していたダヤン・スンビは、その頭に古い傷痕を見つけ、恋人が実は自分の息子であることを知る。ダヤン・スンビは「結婚はできない」と告げるが、サンクリアンはどうしても諦めようとしない。やむなくダヤン・スンビは、一晩のうちにチタルム川を堰き止めて湖を造り、そこに浮かべる船を建造できたら結婚してもいい、と条件を出す。

サンクリアンは巨木を切り倒して船を造った。その切り株が後にトゥングル丘(Bukit Tunggul: tunggulは切り株の意)となり、積み上げた枝がブランラン山(Gunung Burangrang: rangrangは枝の意)となった。妖霊を呼び出して手伝わせ、ほどなく湖ができ上がりそうになった。慌てたダヤン・スンビは神に祈りつつ、白い布を東の丘の上に広げて曙のように見せ、杵で木臼を叩いて朝の米搗が始まったように見せかけた。妖霊たちは夜が明けたと勘違いし、恐れて姿を消した。

結婚のための課題を達成することができなくなったサンクリアンは、腹を立てて船を蹴飛ばし、船は覆って山となった。その山は、今も船伏山(Gunung Tangkuban Parahu)と呼ばれている。さらに湖の堰も壊してしまったので、水が流れ出し、その跡が今のバンドンの町となった。

サンクリアンはなおもダヤン・スンビを追い、プトゥリ山(Gunung Putri: putriは姫の意)で追いつかれそうになったダヤン・スンビは神に助けを乞い、jaksi(アダンの一種?)の花に姿を変えた。サンクリアンはUjung Berungというところまで来て姿を消した。

(以下に続く)

  • サンクリアン伝説の説話要素
  • 犬婿入り譚 - 結末、事実上結婚と変身の有無
  • 犬婿入り譚 - 覆せない誓い、取り消せない約束
  • 伏姫の物語と犬婿入り譚
  • 『南総里見八犬伝』は翻訳できるか

 

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