よりどりインドネシア

2020年09月22日号 vol.78

翻訳セミナー雑感(太田りべか)

2020年09月22日 19:12 by Matsui-Glocal

ときどき仕事をいただく出版社Penerbit Haruから、「翻訳に関するオンラインセミナーをしないか」と声をかけていただき、同出版社とPatjar Merahとの共同企画 “Festival Buku Asia”の一環としてセミナーをさせていただくことになった。

Patjar Merah

Patjar Merahは、インドネシアの町々をまわってブック・フェアやセミナーやトークショーなどの文学イベントを行なっているグループだ。正確にいうと、グループの名前というより、イベントそのもの名称なのだろう。

この名称の出所はメダン出身の文筆家マトゥ・モナ(Matu Mona)が1930年代に発表した冒険小説 “Patjar Merah Indonesia” シリーズの主人公Patjar Merahで、そのモデルとなったのはインドネシアの革命家タン・マラカ(Tan Malaka)である。

マトゥ・モナは、1931~1938年まで『Pewarta Deli』紙の記者として活動していたが、そのときにタン・マラカから同紙の編集長宛てに送られてきた手紙を読んで、この小説の執筆を思いついたといわれている。タン・マラカはじめ何人もの独立運動の活動家が変名で登場するこの小説では、Patjar Merahは国際秘密警察に追われてタイ、シンガポール、フィリピン、カンボジア、香港、中国などに潜伏し、ときには老婆に変装したりもする変幻自在、神出鬼没のヒーローとして描かれているらしい。

1938年に休暇をとってシンガポールへ行ったマトゥ・ムナは、そこで知り合ったスマトラ出身の仕立て屋に招かれて店を訪ね、そこに思いがけず、自分の書いた小説のヒーローのモデル、タン・マラカ本人が中国人に変装して現れて、初めての対面を果たした、というエピソードが残されている。

以前、轟英明さんに、押川典昭先生の「タン・マラカ 冒険小説を生きた男」(『別冊宝島EX 英雄たちのアジア』所収JICC出版局、1993年)の記事のコピーをいただき、そこではじめてこの小説の存在を知った。タン・マラカに、フィクションとはいえ、そういう破天荒なヒーローに擬せられる側面があったことに驚き、興味を持った。この小説は “Pacar Merah Indonesia: Petualangan Tan Malaka Menjadi Buro Polisi Rahasia Kolonial” として2010年にBeranda Publishingから復刊されているらしいが、残念ながらまだ入手できていない。

上記文学イベントがPatjar Merahを名称としたのは、たいへんな読書家で、読書と教育の重要性を強調してやまなかったタン・マラカの精神に則って、ということらしい。でもそれだけではなく、大会場に出版社などがブースを並べる図書市とは違って、気軽に足を運んで文学関係のイベントに参加でき、大量かつ多種多様な本に触れ、安い値段で本を手に入れられる場を作ることを主眼に、ちょっとゲリラ的に(でもSNSなどでしっかり宣伝はして)展開されるイベントなので、もしかすると小説のヒーローPatjar Merahの神出鬼没なところをイメージして選ばれた名称でもあるのかもしれない。

2019年の11月末から12月初めにかけて、このPatjar Merahがスマランの旧市街コタ・ラマ(Kota Lama)で開催されたので、行ってみた。私が行った日には、ブック・フェアの他に、若い作家数人による創作に関するワークショップが開かれていたが、どちらの会場も若い人たちでいっぱいだった。

2019年12月、スマランの旧市街、植民地時代の建物の残るKota LamaでPatjar Merahが開催された

どうも一般的に「インドネシア人はあまり本を読まない」というイメージがあるように思う。私の息子は国立高校に行っていたが、当時は2年生から理数系、社会科学系、文学・語学系にコースが分かれることになっていた。ところが息子が高2になったとき、文学・語学系コースは希望者が少ないからという理由で開設取り止めになってしまった。なんとなく「文学・語学系は落ちこぼれ」というイメージがあって、ほんとうはその方面に興味がある子も、選択することを躊躇したのではないかと想像する。

Patjar Merahは、それでも本を読みたい、何かを書いてみたいと思っている若者がちゃんとたくさんいることが実感できて、とても心躍るイベントだった。そして、なんといっても本が安い! それにグラメディアなどの大手書店には並ばないような独立系小出版社が出している本もたくさんある。

スマランでのPatjar Merahのブック・フェア。左上のバナーにはタン・マラカの著作“Madilog”からの有名な一説が引用されている。“Selama toko buku ada, selama itu pustaka bisa dibentuk kembali. Kalau perlu dan memang perlu, pakaian dan makanan dikurangi”(「書店がある限り蔵書はまたそろえることができる。必要なら、必要とあらば、衣食を減らしてでも」1931年上海在留中に日本軍侵攻による市街戦予告を受けて避難し、後で家に戻ってみると蔵書まですっかり消え失せていたのを目にして)

もちろん今のコロナ禍の中ではそういうイベントは開催できないので、Patjar Merahの活動もオンラインでできるものが主軸になっているようだが、コロナ禍が過ぎ去った暁には、ぜひまた巡回イベントを再開してほしいと思う。オンラインで本を買うのは、簡単に検索ができて便利だけれど、やはり大量の本を前にしておもしろそうなものを漁る楽しみは、何ものにも代えがたいものだ。

(以下に続く)

  • Penerbit HaruとPenerbit Mai
  • 翻訳セミナー
  • 文芸翻訳についてあれこれ

 

 

この続きは1ヶ月無料のお試し購読すると
読むことができます。

関連記事

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第17信:「百花繚乱」21世紀インドネシア映画の言語にみる多様性 ~相対主義的愛国もの『スギヤ』から 無国籍西部劇アクション『バッファロー・ボーイズ』まで~(轟英明)

2021年04月08日号 vol.91

ムラピ山の幽精キ・ジュル・タマンの話(その3)(太田りべか)

2021年03月22日号 vol.90

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第16信:映画『スギヤ』と俳優・鈴木伸幸さん(横山裕一)

2021年03月22日号 vol.90

読者コメント

コメントはまだありません。記者に感想や質問を送ってみましょう。

バックナンバー(もっと見る)