よりどりインドネシア

2020年09月22日号 vol.78

ウォノソボライフ(33):だからシスウォンド・パルマンは英雄になった(神道有子)

2020年09月22日 19:12 by Matsui-Glocal

今年も9月末が近づいてまいりました。インドネシアに関わる外国人は、9月30日という日付けの持つ意味を否応なく考えさせられる時期です。もちろん1965年の9月30日、陸軍の高級将校が何名も殺害され、一時的に国が機能不全に陥ったクーデター未遂事件のことですが、これに関しては多くの研究や作品が出ていますね。

遠く首都ジャカルタで起きた事件ではありますが、ウォノソボにも少なからず縁がある話でした。殺害された高級将校の一人、陸軍司令官第一補佐官シスウォンド・パルマン(Siswondo Parman)はウォノソボ出身の人物だからです。

地方で生まれ育った彼が、どのように陸軍の中枢に籍を置くようになったのでしょうか。日本軍政期、独立から独立戦争期、また9・30事件が起こるまでをどのように過ごしていたのか、そして事件当日、何があったのか。

彼の死後にまとめられた親族や近しい友人、そして妻であるパルマン夫人の証言をもとに、少し紐解いてみたいと思います。

●富豪商人の子息として

1918年8月4日、ジャワ暦ではクリウォンの土曜日。パルマンは、父カシド・クロモディハルジョ(Kasido Kromodiharjo)と母マリナ(Marinah)の第6子として生まれました。一家はスダガラン(Sudagaran)という村に住んでいましたが、スダガルというのはジャワ語で商人という意味です。その名の通り、ここは商売をする人たちが集まって住んでいる村でした。現在でも街の中心部にあり、店を構える家が多い地域です。

父のクロモディハルジョは、当時のウォノソボでは屈指の資金力を持つ商人でした。運搬のためのトラックを所有しているのは、ウォノソボ全域で彼の家だけだったということからも、周りに比べていかに豊かだったかわかります。

クロモディハルジョはジョグジャカルタ出身の人物です。家を出て単身ウォノソボに住みつき、葉タバコのビジネスで身を立てました。生活が安定した頃にウォノソボ生まれのマリナと結婚します。彼女は商才もある女性だったため、大いに夫の仕事を手伝い、商売を大きくしました。市場で米を売ることから始め、日用品、建築資材などを扱う店を持つように。やがて政府の下請けで公共事業などを手掛けるようになると、夫婦は子供たちのために次々に家を買うようになります。

クロモディハルジョ自身は、学歴はありませんでしたが、だからこそ子どもたちには学をつけさせたいと思っていました。当時、現地民の子どもが学校に入るのは容易なことではありませんでした。公務員の子弟しか入学を認められていなかったのです。

しかし、そこはしたたかな商人。何とかこれを突破し、第4子であるサキルマン(Sakirman)をHIS(Hollandsch Inlandsche School)に入れました。現地民の子弟がオランダ語で学ぶ学校です。当時の知事と面談し、公務員の子だと偽って押し通したそうです。なかなかの手腕ですね。サキルマンは奨学金を貰えるほどに優秀な子でしたが、家が経済的に余裕があるため断られたとのこと。サキルマンが入学したことで、後に続く弟たちはすんなりとHISに入ることができました。パルマンは4歳頃からサキルマンについて学校に行っていましたが、7歳で正式に入学します。

パルマンは家庭では親の言うことをよく聞くおとなしい子どもでした。しかし学校では、少々頑固で負けず嫌いな性格だったようです。学校の催しで劇をやったときのこと。戦いに敗れなければいけない役柄にも関わらず、いつまでたっても倒れずに舞台上を動き回り、しまいには観客が大笑いしてしまったそうです。

1932年度にHISを卒業すると、パルマンはジョグジャカルタにあるMULO(Meer Uitgebreid Lager Onderwijs)に進学します。これは今の中学校に相当するものですね。パルマンはこの頃からシスウォンドという名を付け足して名乗るようになります。幼名とは違いますが、生まれた時には比較的シンプルな名をつけ、ある程度大人になったらちょっとかしこまった名を足すというのが、ジャワ人の習わし。彼の父も、クロモディハルジョを名乗るようになったのは結婚してからです。それまではカシドで通っていました。シスウォンド・パルマンはS・.パルマンの略称で知られていましたので、ここからは本稿でもS・パルマンと表記していきます。

S・パルマンは学業の合間に様々な趣味を持つようになりました。実家には当時まだ希少品だったラジオやバイクといった製品があったこともあり、機械いじりという、他の生徒にはないスキルを開花させていきます。また、偉人や英雄の切り抜き写真・ブロマイド風のカードを集めることも好んでいました。マハトマ・ガンディー、スカルノ、ディポヌゴロなど、とくに独立のために活躍した人物に関心があったようです。またワヤンにも造詣が深く、厚紙製のワヤンを集めたり、本で読んだりしていました。とくにクシャトリヤ(戦士)のキャラクターがお気に入り。さらには休暇ともなれば、ウォノソボに帰ってダラン(ワヤンでの人形使い)修行をするほどの熱の入れようです。実際にダランとして上演に参加することもありました。

1936年にMULOを卒業すると、さらなる進学を考えていましたが、断念せざるを得なくなります。父クロモディハルジョが亡くなったためです。ウォノソボに帰り、母の店を手伝う日々。この期間にS・パルマンは母に読み書きを教えました。仕事、とくに各種契約に関する書類を一人で扱えるようにしなければいけなかったのです。

母方の親族から援助を受け、翌1937年、やはりジョグジャカルタのAMS(Algemeene Middelbare School )に入学しました。MULOの卒業生を受け入れる、高校相当の教育機関です。

ここで、S・パルマンはナショナリズムを身につけたと言います。当時ジョグジャカルタで活発だった民族青年運動の影響もありました。しかしそれ以上に、自国の民族、歴史を重視し、常に誇りを持って生きるとある先生との議論が、植民地主義やデモクラシーといったことへの関心を呼び覚ましたそうです。

3年の学業ののち、1939年度にAMSを卒業。平等や正義といったことに携わりたかったS・パルマンは、法学部進学を希望しました。しかし、家族はより国家の役に立つようにと、工学士、技師、医者といった仕事を望みます。

結果、ジャカルタにある高等医学学校であるGHS(Geneeskundige Hoogeschool)に進学しました。しかし一年半ほど在籍したところで、再び学業がストップ。1942年3月1日、日本軍が上陸したためです。全ての教育機関は活動停止を余儀なくされました。

仕方なくウォノソボに帰るその前日、S・パルマンは友人にこう言い残したそうです。「インドネシアの未来に、意味はあるのか?」

(以下に続く)

  • 軍の世界へ
  • 結婚生活と最後の時間
  • 人は死して名を残す
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