よりどりインドネシア

2020年09月22日号 vol.78

いんどねしあ風土記(21):「国籍剥奪」ー 祖国を失った元留学生たち 〜中ジャワ州ソロ(スラカルタ)~(横山裕一)

2020年09月22日 19:38 by Matsui-Glocal
2020年09月22日 19:38 by Matsui-Glocal

1965年に起きた共産党系の若手将校によるクーデター未遂事件「9・30事件」を契機に、インドネシアでは権力が大きく移行するとともに、国軍が中心となった大規模な共産主義者の一掃が進められ、大量虐殺にまで至った。この動乱は国内にとどまらず、政府から派遣された共産圏各国への留学生たちの運命まで大きく左右させる事態となった。当時の留学生たちに何が起きたのか、証言をたどって実態に迫る。

●古都ソロの住宅街にて

2019年7月、中ジャワ州の古都ソロ南部の住宅街に住んでいた一人の男性がこの世を去った。ラデン・マス・ヘンドロマルトノ(Raden Mas Hendromartono)氏、享年76歳(通称ヘンドロ氏)。父親がソロ王家のひとつ、マンクヌガラ5世の家系を引くことから「ラデン・マス」の称号も持つ彼は、約50年間、アゼルバイジャンでの生活を余儀なくされ、2012年にようやく念願の帰国を果たしたばかりだった。

彼こそが、インドネシアで「エクシル65」(Eksil 65)と呼ばれる、1965年の9・30事件を契機に、東欧など共産圏の留学先で国籍を失った学生たちの一人である。

故ヘンドロマルトノ氏の生前の自宅(写真上)とその周辺のソロ南部の住宅街(写真下)

ヘンドロ氏亡き後のソロの自宅には現在、アゼルバイジャンからヘンドロ氏とともにソロに来た初孫のフアッドさん(30歳)と、ヘンドロ氏が帰国後再婚したインドネシア人の後妻が住む。幼少の頃からおじいちゃん子だったフアッドさんは帰国当時のヘンドロ氏について懐かしそうに話す。

「アゼルバイジャンにいた時は、常に祖国であるインドネシアに帰りたがっていたから、帰国できた時は本当に喜んでいました。帰郷後すぐに、葬式にも出られなかった両親のお墓参りをしました」

故ヘンドロマルトノ氏(2018年Ahmad Rafiq氏撮影)

1943年ソロ生まれのヘンドロ氏は1962年、地元の名門私立高校(SMA St. Yosef)を卒業後、当時のスカルノ大統領の政策の一環で鉱業省(現在のエネルギー・鉱物資源省)が実施するソビエト連邦での大学進学のための奨学金留学生に選ばれた。同年、彼を含めて約60人の学生がモスクワへ渡り、4ヵ月のロシア語研修を受ける。翌1963年9月、アゼルバイジャンの石油化学大学(現在のAzerbaijan State Oil Academy)に入学し、石油加工学を専攻した。

大学3年時に9・30事件が起きる。祖国での共産主義者の一掃、スカルノ初代大統領からスハルト陸軍戦略予備軍司令官(当時)への権力の移行。スカルノ政策で留学生として送られた学生たちの間で動揺が走った。ヘンドロ氏は生前、ソロで地元記者に取材を受けた際(2018年3月)、当時をこのように振り返っている。

「事件後、帰国した多くの学生たちが逮捕されたとの情報を受けた。ましてや我々は共産圏で留学中の学生だった」

当時取材した記者に対し、ヘンドロ氏は「共産主義者ではなく、政治に興味もなかった」と明言したという。しかし、その後1968年、ヘンドロ氏のパスポートはモスクワのインドネシア大使館によって破棄されてしまう。その詳細の経緯・理由について、ヘンドロ氏は記者に語らなかったという。また孫のフアッドさんも祖父であるヘンドロ氏の口から直接聞く機会はなかったという。

結果、ヘンドロ氏はパスポートとともに、インドネシア国籍、祖国を失うことになった。国籍を取り戻したのが2012年。実に50年間の空白である。

●9・30事件当時のインドネシアの時代背景

独立宣言から15年、独立戦争終結から10年余りの1960年代、インドネシアでは政治、経済、社会ともに未発展期、不安定な状況が続いていた。こうしたなか、スカルノ大統領が推進した国家発展のための長期計画のひとつが、大勢の学生を外国留学させ、最先端の技術や知識をインドネシアにフィードバックさせる政策だった。この政策はマヒッド(MAHID: Mahasiswa Ikatan Dinas)と呼ばれた。マヒッドは「公務義務のある留学生」という意味で、国務につくことを前提とした大規模な留学政策だ。 1960年から1965年まで行われ、詳細なデータはないが、数千人の学生が欧米や中国など各国へ派遣された。

当時、スカルノ大統領は共産圏各国と近かったため、ソビエト連邦、チェコスロバキア、ルーマニアなど東欧諸国に呼びかけて、各国の奨学金によるインドネシア留学生受け入れを取り付けてもいた。

同政策のコンセプトは、1956年、アメリカのインドネシア人留学生を前にしてのスカルノ大統領の演説内容からもうかがえる。

「若者たちよ、学問を究めよ。自分のためでなく、子孫のため、インドネシア国民、祖国のために。我々の燃え上がる炎は、とても価値があり、重みがある!」

当時、建国の父であり、指導者であるスカルノ大統領を信奉する若者は多く、スカルノ大統領によって派遣されたとの自負を抱き、祖国のために学ぼうとの気概を持って学生たちの多くは留学していった。

折しも、第二次世界大戦の記憶がまだ新しい頃。東西冷戦の波も激しく、インドネシアがどちらに舵を切るか、岐路に立たされていた時代でもある。そしてマレーシア建国を非難するスカルノ大統領は、1965年1月に国際連合を脱退し、国際的に孤立、左傾化していく。国政では経済政策の失政などで、スカルノ大統領は政権安定のためインドネシア共産党にも近づいていった。元来、スカルノ大統領が進める指導的民主主義の政治コンセプトが「ナサコム」(NASAKOM)で、民族主義(NASionalisme)、宗教(Agama)、共産主義(KOMunisme)を結集させた三位一体の政策だったこともあり、インドネシア共産党の台頭する土壌となったともみられる。国軍と共産党との権力闘争も激しくなっていた。

こうした状況下で起きたのが、1965年9月30日深夜から10月1日未明にかけての9・30事件だった。国軍左派の中佐率いる部隊が国軍のトップ6人を殺害したクーデター未遂事件。事件制圧を指揮したスハルト陸軍戦略予備軍司令官(当時)はその後、政権内への権力も強める一方、共産勢力の一掃を進めた。以降、共産主義シンパとみなされた住民たちが次々と全国各地で虐殺されていった。その数は最大で200万人とも300万人ともいわれている。同事件の真相や虐殺の全貌は未解決のままである。

スハルト司令官は事件発生翌年の1966年3月11日、治安回復のための全権委譲をスカルノ大統領から得て(3・11政変)、1967年大統領代行に、1968年に正式に第二代大統領に就任する。スハルト大統領は自らの政権を「新秩序体制」と銘打ち、スカルノ時代との差別化を図った。

9・30事件による祖国での動乱の余波は、国外にいるインドネシア人、特にスカルノ初代大統領の命で共産圏に派遣された留学生をも直撃した。各国のインドネシア大使館を通じて、留学生らはスハルトに権力が移行した政権を認めるかどうかの意思表明を迫られた。そして認めなかった者たちは、結果としてインドネシア国籍を剥奪されることになった。

(以下に続く)

  • 「踏み絵」〜ソビエト連邦元留学生たちの証言①
  • 「格子なき牢獄」
  • 「審査」〜ソビエト連邦元留学生たちの証言②
  • 再び祖国を去った元留学生
  • 再び、古都ソロの住宅街にて

 

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