1943年、旧日本軍が東インド(現在のインドネシア)を軍政下におく約半世紀前から、多くの日本人が「東インド」ですでに商業活動を始めていた。大都市では商社や貿易会社など組織的なものもあったが、ジャワ島、特に現在の東ジャワ州各地に大きな広がりをみせていたのが、個人商店だった。
日本から直接、あるいは東南アジアを渡り歩いて来た日本人たちが地域の住民生活と結びつきながら続けられた。彼らの商店は「トコ・ジュパン」(Toko Jepang/日本商店)と呼ばれた。
今から約百年前、日本人が遥か南洋の地で繰り広げた商業活動の痕跡を辿る。
●東ジャワの大穀倉地帯へ
(出所)Google Mapsより
東ジャワ州の州都スラバヤから南東へ高速道路で約1時間、港町プロボリンゴへ。ここから街道を南へ2時間弱、ルマジャンに到着する。人口は約100万人(2010年国勢調査)、西はマランと境するスメル山の山裾が広がるが、そこから東へと広大な穀倉地帯が広がる。記録によると、ルマジャンはかつて多くの日本商店「トコ・ジュパン」があった地域だ。
街道を外れて小さな村、ウンブル村へ。この村にも日本商店があったとの記録がある。当時を知るお年寄りがいないか探すと、「小さい頃、日本商店の前でよく遊んでいた」というお爺さんに出会った。ハドリさん80歳。
「日本商店は小学校を右に曲がり、小川の手前にあった」
「店の日本人は、『タカムラ』という名前だったと記憶している」
ハドリさんの教えてくれた場所には建物はなく、木や草が鬱蒼としていた。ここにかつて日本商店があったかの確証はつかない。隣近所の人たちも親などから伝え聞いてはいないという。
ウンブル村のかつて「トコ・ジュパン」があったといわれる場所。建物もなく、日本商店あったと確証する痕跡は見つからなかった。
しかし当時の記録によると、ウンブル村には和歌山県出身の「中村 福」氏が日本商店を開業していたとある。「ナカムラ」を「タカムラ」と覚え間違いはしているが、あながちハドリさんの記憶は間違っていないようにも思われる。商店があったとされる場所の脇の小川には綺麗な水が流れ、その向こう側には広大な田園が広がっていた・・・。
(以下へ続く)
- 「トコ・ジュパン」(日本商店)
- 『爪哇日報』(ジャワ日報)が記録する「トコ・ジュパン」
- 「トコ・ジュパン」跡を探して
- 「トコ・ジュパン」繁栄の証、大規模米工場
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