よりどりインドネシア

2021年08月08日号 vol.99

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第25信:父子ロードムービー『三日月』に見る イスラーム信仰のあり方(轟英明)

2021年08月08日 19:24 by Matsui-Glocal

横山裕一様

コロナウイルス、特に変異株が猛威を振るっている昨今ですが、横山さんはお元気でしょうか?私の方は日本政府が一応手配したと言われている特別便に乗るわけでもなく、妻や3人の子供たちとあまり変わらない日々をチカランで過ごしております。幸いなことに家族の誰もコロナウイルスには感染してない、少なくとも発症はしてないのですが、知り合いや隣人の両親の訃報を聞くことがもはや珍しくもありません。シノバックワクチンを前回原稿送付後に接種したものの、その管理体制があまりにも緩すぎて、おいおい大丈夫なの?とひとり半畳を入れてしまう有様。状況次第ではありますが、日本へ一時帰国してワクチン接種したほうがいいのかもと逡巡する日々がしばらく続きそうです。

さて、前回第23信では、インドネシアの「辺境」パプアで撮られた映画あるいはパプア人を主人公に起用した映画について、比較的最近の映画を中心に論じましたが、『一度だけキスしたい』( Aku Ingin Menciummu Sekali Saja ) はインドネシアでは動画配信サービスのディズニー・プラス・ホットスターで視聴可能なことを追記しておきます。この原稿を書いている時点では、まだ再見していないのですが、もし横山さんが視聴済みでしたら、感想など後日教えていただけると幸いです。また、だいぶ前の映画でパプア人が出てくる作品が二本あることを思い出しましたので、それについて以下補足します。より正確に言うならば一本は劇映画、もう一本はドキュメンタリー映画です。

前者は1986年のトゥグー・カルヤ監督作品『母』です。トゥグー・カルヤは90年代にガリン・ヌグロホが国際映画祭で注目を集める前までは、インドネシアを代表する大監督と目されており、今も現役で活躍するベテラン俳優クリスティン・ハキムやスラメット・ラハルジョらの師匠でもありました。彼が得意としたのは繊細な心理劇で、『母』は典型的な家族劇。バラバラになりかけた家族が最終的には元のさやに収まり秩序が回復される、スハルト体制時代のモラルが色濃く出ている作品ですが、とりわけ興味深いのは主人公である母親の末娘フィトリがパプア人(当時パプアは「イリアン・ジャヤ」と呼ばれていたため、劇中ではイリアン人)のルークを恋人とし、家族も最終的には彼を受け入れる点です。例によって「イリアン人なんて・・・」と家族からは苦言を呈されるのですが、フィトリは「何よ、彼はインテリでハンサムなんだから!」と反論します。実際、ルークは物腰柔らかく知的な印象を観客にも与え、アメリカ映画でよく見られる「模範的なマイノリティ」という枠組みではありますが、インドネシア映画におけるパプア人の表象という観点からは重要な作品と言えます。ただ、「イリアン出身者もインドネシア人であるから家族の一員になれる」という結末は、スハルト政権の政治的意思ばかりとも言えず、華人という出自をもつトゥグー監督自身の願いも反映されていたのかもしれません。

『母』(Ibunda) チラシ。filmindonesia.or.idから引用。

後者は東ジャカルタにあるテーマパーク「タマン・ミニ・インドネシア・インダー(TMII)」内にあるIMAX 劇場で観られる(観られた?)『インドネシア・インダー』シリーズです。タイトルのとおり、インドネシア各地の自然の美しさや人々の暮らしを30分程度に編集した映画ですが、何しろ見たのが34年も前のことなので、細かいところはよく覚えていないというのが正直なところです。ただ、巨大なスクリーンに広がるインドネシア各地の雄大な自然と多様な文化をダイナミックに編集した映像は圧巻の一言で、とりわけパプアのパートは槍をもちいた部族間の模擬戦だったことを鮮明に覚えています。言うまでもなく、こうしたパプア人の表象は典型的なステレオタイプでしかありません。もっと言えば、TMIIそのものがインドネシアという「想像の共同体」をスハルト政権のイデオロギーによって具現化し実体化した、非常に政治的な公園であり公共空間なのです。今もってパプアを遅れた未開の地と見なす非パプア人の視点や思考はあのような映像に立脚しているのではないかという気がしてなりません。

タマン・ミニ・インドネシア・インダー(TMII)内のIMAX劇場 Keong Emas、「金色のカタツムリ」の意味。

以上、非パプア出身のインドネシア人がパプア人をどう表象してきたかという視点は、パプア人に対する差別問題や格差問題を考える上で欠かせないものと考え、ここに短いながらも追記しておきます。

ところで、横山さんが第24信で紹介された『コロナ禍の物語』(Quarantine Tales)を私も遅ればせながら見ました。オムニバス映画の題材としてコロナ禍はまさに時宜を得たテーマで、全5話いずれも楽しく鑑賞しましたが、とりわけ優れていたエピソードはイファ・イスファンシャー監督の『料理本』でしょうか。

『コロナ禍の物語』(Quarantine Tales)の一挿話『料理本』(Cook Book)。imdb.comより引用。ネットフリックスで視聴可能。

コロナ禍という世界の終末を連想させる状況下で、意図的に忘却し抑圧してきた忌まわしい過去、すなわち1998年5月暴動の記憶が著名な華人コックの脳裡に蘇る、実にシャープな作品で魅了されました。1998年5月暴動において恋人を失ったことが華人の彼にとってはまさしく世界の終末に他ならなかった、にもかかわらずコロナ禍までそのことを抑圧していたことが明かされるラストには唸るほかなく、且つ最終的に彼がとったであろう行動に、イファ監督の未来への希望を私は読み取りました。本作は日本版のネットフリックスでも日本語字幕で見られるので、是非多くの人に鑑賞してほしいところです。

さて、長らく宿題となっていた『信じるものは』(ネットフリックス題名、原題? Tanda Tanya疑問符の意)への私の評価についてようやく語れます。やれやれ。

同作のストーリーは横山さんが第18信で詳しく説明してくれているので、ここでは繰り返しません。宗教間の調和を第一とするインドネシア社会においては、宗教間紛争や軋轢を語った本作はかなり珍しいタイプの作品であり、どちらかと言えばインドネシア映画界で主流の娯楽大作を多数手掛けてきたハヌン・ブラマンティヨ監督にしてはメッセージ性と作家性の強い作品です。そういう意味からもだいぶ期待して観始めたのですが、鑑賞後の感想としては、失敗作と呼ぶほかない、この一言に尽きます。現実の事件を取り入れながらも、フィクションの部分とうまく融合しておらず、しかも不自然すぎる人物造形とご都合主義が全てを台無しにしてしまいました。意欲的なテーマだけに、この眼高手低ぶりには残念という他ありません。

『信じるものは』(Tanda Tanya) の一場面。filmindonesia.or.id より引用。対立する父カッスンと息子ヘンドラ、そしてそれを見守るメヌックと母ギョリー。ネットフリックス(インドネシア版)にて視聴可能。

では、『信じるものは』の何がどうダメなのか?

誰もが指摘していることですが、一番ダメ、少なくとも観客がもっとも違和感を抱くのは、結末において、華人のヘンドラが何の葛藤も見せずイスラームに改宗して、亡き父親から継いだ店をハラル中華料理店に変えてしまうことでしょう。店にも自らの中国性にも思い入れのないヘンドラだから簡単に変えられると強引に擁護できないこともありませんが、元彼女で人妻(ラストの時点では未亡人)のメヌックに再びアプローチするために改宗しハラル中華料理店に変更するように見えてしまい、観客としては白けるばかりです。そんな簡単に宗教も家業も変えられれば、誰だって苦労はしないし差別などとうの昔になくっているはずです。安直さ、ここに極まれり。

そもそも、元彼氏の父親がオーナーの中華料理店でメヌックが働いているという設定に無理がありすぎます。貞操の問題は一応置いといても、普通に考えて、元彼氏と今の夫の間で諍いが起こるのは当たり前ではないでしょうか。ところが、本人はそのことに無頓着すぎるし、周囲も別に気にしてない様子。シリアスなドラマであるだけに、この無理やりすぎる設定に対しては、ありえないーと画面に向かって叫びたくなりました。

もう一人のヒロイン、リカはイスラームからカトリックに改宗中という設定ですが、これも実はその理由がやや説得力を欠くもので、一人息子ならずとも、うーんとモヤモヤした思いが観客には残ります。一応、離婚した前の夫が浮気したという設定があるようですが、物語内ではなぜ彼女が改宗したいのか十分な説明が尽くされているとは言い難いです。彼女自身の内面の葛藤を描こうとすれば、必然的にイスラームに対する批判的視点は欠かせないため、おそらく監督はそうした描写を省略したのでしょうが、これは端的に言って「逃げ」です。

一方、横山さんも激賞していた、売れない俳優役のスルヤは本作で一番リアリティを感じさせる役柄と設定です。リカからオファーされたキリスト役を引き受けるかどうかで悩み、サンタクロースを演じた際に出会った難病の少年の心根に触れて号泣する彼の出演パートは安心して観ていられます。が、いかんせん他の登場人物の造形や設定がドラマとしての説得力を損なっているため、映画全体の評価としては低くならざるを得ません。

なぜこうなったのか、私なりに推測すると、監督が各方面に過剰に気を使いすぎただけでなく、おそらくは結末から逆算して物語を構築していったためのように思えます。つまり、華人のヘンドラはイスラームに改宗しなくてはならず、嫉妬深くてダメな夫のソレーは英雄として爆死しなくてはならなかった、そのためにはメヌックはヘンドラの父親が経営する中華料理店で働く必要があった、ということです。

つまるところは、インドネシア的な文脈での政治的正しさを映画内においても実践しようと、母親が中国系で父親がジャワ人ムスリムのハヌン監督は考えたのでしょうが、それが映画としての完成度を低くしていることは大いなる皮肉です。そもそも、ヘンドラとソレーの確執は、宗教の違いに根差しているというよりは明らかにメヌックをめぐる争いであって、実は宗教と直接関係ないのでは?という疑問符が観客の脳裡に浮かんでもおかしくはありません。あるいは、監督は意図的にこうした設定を設け、宗教間の紛争とは実のところ異性をめぐるいざこざのようなもの、と言いたいのかもしれません。しかし、暴力的な過激主義を表層だけ取り上げて、その理由や背景には全く触れておらず、むしろソレーを殉教者として祀り上げるためだけに監督がテロリズムを都合よく利用しているのは、いささか虫が良すぎるのではないでしょうか。この映画のテーマがテロリズムをめぐるものでない以上、これはお門違いな批判かもしれませんが、シリアスで敏感なテーマだからこそ、ご都合主義で強引にまとめるべきではなかったと強く思いますし、この結末ではむしろ多くの観客にすっきりしない想いを残すだけとなっています。

『信じるものは』に対してここまで辛口な評価になるのは、宗教と信仰をテーマとした映画ならより完成度の高い作品を先に私が見ていたことも関係しています。これから取り上げるのは『三日月』(Mencari Hilal)、『チナ、チンタ』(cin(T)a)、『シスターマリアム 許されぬ恋』(Ave Maryam)の三作ですが、そのアプローチは様々なので、まずは一作ずつ詳細に紹介します。

『三日月』はイスマイル・バスベス監督の長編二作目、主演はデディ・ストモとオカ・アンタラ。2015年の東京国際映画祭でも上映され、各界から高い評価を得た作品です。ジャンルとしては宗教ものであると同時に、父子ものであり、ロードムービーでもあります。

『三日月』(Mencari Hilal) ポスター。filmindonesia.or.id より引用。インドネシアでは動画配信サービスGoPlayやVidioで視聴可能。

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