日本に限らず、地名や通りの名前などからその地の歴史や風土、文化をうかがい知ることができる。インドネシアでは現在、大通りの多くは国家英雄らの名前が冠されているが、路地に入るといまだ古い時代からの名前が残されている地域も多い。中ジャワ州の州都スマランの華人街もその一つである。古くから港湾都市として栄え、オランダ植民地時代も重要な都市であったスマランの、路地裏から見た華人社会の歴史考証。
●オランダ植民地時代の中心街、コタ・ラマ(旧市街)から
スマラン北部の旧市街、コタ・ラマ(Kota Lama)地区には、大きなドームが特徴のブルンドゥック教会をはじめとした白く瀟洒なヨーロッパ建築様式の建物が約50棟ある。オランダ植民地時代、オランダ人をはじめとしたヨーロッパ人の多くがこの地域に居住し、スマランの中心となる市街地だった。コタ・ラマができた初期、周辺はまだ田園や畑、森林が広がっていたという。
コタ・ラマの「偉大な旦那様たち通り」と呼ばれた大通り。写真右は1927年当時。(写真右引用:Kota Semarang dalam Kenangan)
目抜き通りがブルンドゥック教会前の通りで、当時はオランダ語で「フーレン・ストラート」(Heeren Straat)と呼ばれていたが、地元住民たちは「トゥアン・トゥアン・ブサール通り」(Toean-toean Besar)と呼んでいたという。直訳で「偉大な旦那様たち通り」となり、植民地時代に支配者であるオランダ人たちが通りを行き来していたことを想起させる呼び名である。
ブルンドゥック教会(コタ・ラマ)
ブルンドゥック教会(Gereja Blenduk)は1753年創建のスマラン最初の教会だが、1794年に現在の位置に移築された際にドーム状の屋根が設置されている。名称の「ブルンドゥック」も通称で、正式名は「GPIBイマヌエル教会」である。関係者によると、当時ドーム状の屋根を見て、人々がジャワ語で「ブルンドゥック」(mblenduk:膨らむ、球体状のもの、の意味)と言ったことから呼ばれるようになったという。
現在、コタ・ラマはオランダ植民地時代の様子をとどめる観光地となっているものの、多くの建物が未整備で、ごく一部が内部を改装してアートギャラリーとして運営されたり、骨董品などの販売会場などになっているのみである。
カフェに再活用されたオランダ植民地時代の建物「スピーゲル」(コタ・ラマ)
そのひとつがブルンドゥック教会近くにあるカフェバー「スピーゲル・バー&ビストロ」(Spiegel Bar & Bistro)である。ジャカルタの投資家が建物を当時の面影を残したまま全面改装したもので、お洒落な憩いスペースとしてコタ・ラマのアイコンの一つにもなっている。建物は1895年建築で、かつては家庭用品や家具、タイプライターなどの販売店だったという。カフェバーの店名「スピーゲル」は当時の経営者の名前で、現経営者が往時の趣を少しでも残そうとする意向がうかがえる。
コタ・ラマの整備の遅れは費用面も含めてスマラン観光開発の課題の一つで、地元大学のセミナーでも、歴史遺産の保存整備とともに、文化発信の拠点にする意味からも自治体主導の統括された保存や管理運営を求めている。
スマランは現在、海岸からの平野部の「下町」(Kota Bawah)と丘陵地にある「上町」(Kota Atas)とに地域区分して呼ばれることが多いが、約500年前までは、コタ・ラマのある地区を含めて下町のほとんどの部分がまだ海だったという。15世紀初頭、中国・明皇帝派遣の大船団を率いた、鄭和(ていわ)がスマランに寄港した場所がシモガン(Simongan)地区で、現在の海岸線から約5キロも内陸部であったことからもわかる。その後、河川による土砂の堆積などから現在の平地が形成されている。
新たな平地は肥沃で農業に適していただけでなく、タマリンドの木が多く自生していたという。スマランの地名の由来もここから来ているという説がある。タマリンドの木はインドネシア語でアサム(Asam)である。これに15世紀後半にイスラム布教のためこの地を訪れ、のちに初代県知事になったパンダン・アラン(Pandang Arang)の名前の一部「アラン」を加えた「アサム・アラン」(Asam + Arang)が転じて「スマラン」(Semarang)となったといわれている。
もう一つの説は、オランダ植民地政府による都市開発でタマリンドの木が大量に伐採されたことから、ほとんどなくなってしまったのを見た住民らが、ジャワ語のアラン・アラン(Arang-arang: 稀になる、の意味)を使って、「アサム(Asam)の木がアラン・アランになった」と言ったことから来ているというものだ。いずれにせよインドネシア独立以前のスマランの古い表記が「サマラン」(Samarang)となっているのもこれらの語源に起因するものとみられる。
●コタ・ラマ(旧市街)からインド人街、華人街へ
ブルンドゥック教会正面の路地を南へ通ってコタ・ラマ(旧市街)を抜けると、インド人街へと入る。その名もプコジャン通り。「プコジャン」(Pekojan)の「コジャ」(Koja)とはイスラム教徒のインド人を指す言葉である。
地図上部の赤矢印がコタ・ラマのブルンドゥック教会で、下部のスマラン川周辺が華人街。 (地図引用:Google Maps)
プコジャン通り
スマラン華人街拡大図(筆者作成)
華人街はプコジャン通りの西側に並行するように蛇行するスマラン川沿い周辺に広がっている。18世紀半ば、バタヴィア(現在のジャカルタ)に端を発した華人系住民によるオランダ植民地政府に対する反乱がスマランでも起きたが、その鎮圧後、植民地政府がスマランの華人の居住地をこの地域に限定したことから始まっている。コタ・ラマに近く、華人の動向を監視しやすくするためだったという。以後、中国(チナ/ Cina)人が集まる華人街として、プチナン(Pecinan)地区と呼ばれるようになった。
インド人街のプコジャン地区に入ってまもなく、道路沿いの住宅の壁に意外なものが目に入る。長さ約1メートルの「南無阿弥陀仏」と刻まれた碑文が壁に埋め込まれている。赤い文字板に金色の漢字で彫られたものだ。
「南無阿弥陀仏」と刻まれた文字板
スマラン川周辺に華人街ができた当時、プコジャン地区はまだ森林が広がっていて、華人たちの墓地もあった。18世紀末、コタ・ラマを中心としたスマラン市街地が発展するのに伴い、オランダ植民地政府は市街地の拡大政策の一環でプコジャン地区の森林を開拓することになった。このため華人墓地も丘陵地への移転を余儀なくされた。
信仰上、先祖の墓を取り壊すことを忌とする華人たちは災厄を恐れて、盛大に墓地移転に伴う先祖慰霊の儀式を行い、厄除けのため墓地の跡地に「南無阿弥陀仏」の漢字6文字を残したという。今も色鮮やかなのは、子孫たちが代々上塗りしてきたものとみられる。先祖を畏れ敬う華人たちの信仰心が200年余りたった現在も、街の片隅にひっそりと生き続けている。「南無阿弥陀仏」の文字の向かい側には、プコジャンモスクがある。
居住地が隣接するインド人と華人はともに商人だったため、かつては治安防備にも協力していたという。19世紀前半に起きた旧マタラム王国王族の反乱(ディポネゴロ戦争)の余波がスマランにも及んだ際、治安悪化に伴う盗賊の襲撃に対抗するため、インド人と華人は武装してともに周辺の警護にあたったという記録もある。プコジャン地区は現在、一部は華人街にもなり、生活用品や建築資材などを販売する商店が並び賑わいを見せている。
●大覚寺と鄭和
大覚寺本殿。本殿前の赤い小屋は鄭和来訪記念を祝って演じられるポテヒの舞台。
プコジャン通りをさらに南下するとスマラン川に出会う。このスマラン川沿いにあるのが、スマラン最古といわれる中国寺院・大覚寺(Tay Kak Sie)である。創建は1746年。オランダ植民地政府により華人たちがこの地に移住を強いられた時期と重なることから、移転後優先的に建設された大覚寺が華人たちにとっていかに重要なものであったかがうかがわれる。
スマランの住民たち、とくに華人にとって、1405年にスマランに寄港した中国・明皇帝の特使、鄭和(ていわ)を敬う人々はいまだに多い。大覚寺も鄭和との結びつきは深く、鄭和がスマランを訪れた中国暦の6月30日にあたる毎年7月下旬から8月上旬には、鄭和来訪を祝う儀式が行われている。寺院正面では祝い事に披露される中国由来の人形劇ポテヒ(布袋戯)も上演される。
鄭和の銅像(中国寺院・サンポーコンにて)
さらに、大覚寺を起点に、鄭和を祀った廟のあるサン・ポー・コン(Sam Po Kong)までパレードが数キロにわたって行われる。パレードでは、鄭和の乗り物に見立てた黒い馬をはじめ龍の神輿などが練り歩くだけでなく、国軍の音楽隊も参加するなど、華人だけでなくスマランをあげての盛大な行事になっている。
サン・ポー・コンは、鄭和の船団が寄港した地をゆかりに建てられた廟で、現在の華人街に移転する以前、多くの華人がこの地域に住んでいたとされている。サン・ポー・コンとは、鄭和の通称サン・ポー・タオ・ラン、あるいはサン・ポー・タイ・チェン(三保太藍 / 三保大人)から名付けられている。
かつて、祖国中国を離れ、はるか南国で生活していた華人らにとって、6百年前、中国皇帝勅令の特使が訪れたことは如何に大きな喜びであり、有り難く、誇りであったかがうかがわれる。その篤い畏敬の念の表れがサン・ポー・コンの建設であり、大覚寺を起点とした行事となって現在にも受け継がれている。鄭和はイスラム教徒だったものの、仏教・儒教寺院である大覚寺が行事を執り行うのもこうした華人の歴史背景によるところが大きい。
大覚寺は2005年、寺院正面のスマラン川に鄭和が乗っていた帆船のレプリカまで建設し、観光の目玉になっていたが、河川流を妨げる理由から2014年に撤去されている。
2019年に焼失した大覚寺のコン・クワン廟(写真は2017年)
大覚寺本殿の脇にはコン・クワンと呼ばれる廟がある。ここは廟としての役割だけでなく、オランダ植民地時代から華人社会での重要案件や住民間で起きた問題を解決するため、華人リーダーたちが集会を行う場でもあった。1845年に建設されたコン・クワンは中国建築様式の歴史建造物でもあったが、残念なことに2019年3月、火災により焼失している。
中国人がスマランに渡来したのは11世紀以前ともいわれているが、本格的な移住は鄭和が最初に寄港した15世紀以降となる。スマラン川周辺に華人街が形成されてからは、華人らは中国様式の住宅を作り始める。その名残は現在も華人街の建物に見受けることができる。しかし1980年代の区画整理に伴い、一部地域は高層建築が義務付けられたため、多くの中国様式の住宅が失われてもいる。
華人街に現在も残る中国建築様式の住宅
当時、中国からの移民の多くは男だけだったため、スマラン土着のジャワ人らとの婚姻などが進み、生活習慣を含めた同化も進んだという。髪を結った華人女性がジャワ伝統衣装である腰巻やクバヤ(上着)を身につけ、南国の嗜好品であるキンマを噛む姿が通常となった。以後、ジャワ人など土着人との混血の現地生まれの華人はプルアナカン(Peranakan)と呼ばれるようになっている。
華人の現地化が進むにつれて中国文化もジャワ文化に影響を与えるようになった。福建語のペンキを意味するチャット(Tjhat)や七輪のハンロウ(Hanghlow)などがジャワ語に取り入れられた。さらに豆腐や麺、春巻き、焼売など多彩な中華料理がジャワ料理のメニューに組み込まれたり、独自の味付けに変化したりしていった。
大覚寺のすぐ近くには華人街ならではの、中華料理の影響を受けてスマランの名物にもなっている春巻きの老舗がある。通りの名を冠して店名は「ルンピア・ガン・ロンボク」(ロンボク小路春巻き)。1963年創業で、現在スマランで最も古い老舗だという。
「ロンボク小路春巻き」の店舗とスマラン名物の春巻き。
大人の腕でひと抱えあろうかという大鍋で大量の野菜や肉、香辛料など多彩な具材をじっくりと煮込む。約20分で水分が飛んで具材が煮詰まると、春巻きの皮に載せて器用に包み込む。春巻きは生皮と揚げ物の2種類あり、大振りの春巻きは1本でも食べ応えがある。添えられたタレがインドネシアにしては薄口であるが、それだけに長時間煮詰めて味のしみ込んだ具をしっかりと味わえる。
狭い店頭には観光客だけでなく、地元の人々も入れ替わり立ち替り買い求めに来るほどの繁盛ぶりで、華人街の住民たちの日常の味としての役割も果たし続けている。
(以下に続く)
- スマラン川周辺で栄えた華人商人たち
- 活気あふれるバル小路の朝市と揺れる橋
- 夜のコタ・ラマ(旧市街)
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