よりどりインドネシア

2021年03月22日号 vol.90

ムラピ山の幽精キ・ジュル・タマンの話(その3)(太田りべか)

2021年03月22日 20:27 by Matsui-Glocal

キ・ジュル・タマン(Ki Juru Taman)とは何者だったのか。16世紀半ばから18世紀半ばまで、現在のジョグジャカルタを中心に栄えたマタラム王国の開祖セノパティ(Senopati)と関係が深く、ムラピ山の噴火からマタラムの都を守ってきたジン(Al-Jinn: 幽精)とする言い伝えがある一方、実はセノパティに仕える白人だった、あるいは影武者だった、毒を扱う専門家だった、果ては馬だった、とキ・ジュル・タマンの正体についてはさまざまな説があるらしい。今回は、そのなかでも「白人説」と「馬説」をあらためて見ていきたい。

●キ・ジュル・タマンはイタリア人だった?

まず、オランダ人のジャワ史学者H.J.デ・グラーフ(H.J. de Graaf)(1899~ 1984)の説を見てみよう。デ・グラーフはロッテルダムで生まれ、1926年に蘭領東インドの植民地総督府に職を得て赴任する。歴史学の教鞭を取り、図書館や博物館でも勤務する。バタヴィアでは、ジャワ貴族でジャワ古典文学の専門家プルボチョロコ教授からジャワ語やジャワ文化の教えを受け、ジャワ史の研究を始めた。日本軍政下では収容所に入れられた。戦後は再びバンドンやジャカルタで教鞭を取っていたが、1950年に帰国、その後はオランダでジャワ史を教えながら研究活動を行なった。

デ・グラーフは、著書『マラタム勃興期』(Awal Kebangkitan Mataram)で、自分と同世代のオランダ人ジャワ古典文学研究者ピジョー(Pigeaud)が自身の著書の中でキ・ジュル・タマンに言及していると述べている。ピジョーによると、キ・ジュル・タマンは「山の神」で、セノパティの助言者だった。

一方、デ・グラーフは、キ・ジュル・タマンはイタリア人だったのではないかと推測している。『マラタム最盛期』(Puncak Kekuasaan Mataram)で、デ・グラーフは、マタラム二代目の王がオランダ人と関係を結ぶために、1613年にマルクにいたオランダ東インド会社(VOC)の初代総督ピーテル・ボートに使節を送った一件に言及している。その使節はヴェネツィア人のフアン・ペドロ・イタリアーノという男だったという。この男はヨーロッパ出身の冒険家で、イスラームに改宗したと思われる、とデ・グラーフは述べている。

セノパティの孫に当たるマタラム国三代目の王スルタン・アグンが1622年にオランダ人デ・ハーンとのやりとりのなかで、そのイタリア人が「自分の父(マタラム二代目の王)の時代には王宮には住まず、その外のクラピヤックに住んでいた」と話しているらしい。「クラピヤック」は現在もジョグジャ近郊にある地名だが、もともと猟場で鹿などを囲っておく柵の意があるらしく、庭園(タマン)と同じく「囲われた場所」なので、このクラピヤックにいたイタリア人は、マタラム二代目の王クラピヤック(クラピヤックで死んだと伝えられるため、しばしば「クラピヤック王」と呼ばれている)の「アルビノの従者」ジュル・タマンと同一人物なのではないか、というのがデ・グラーフの考えのようだ。

またプルボチョロコが、この「アルビノの従者」以降、マタラム王家では「ジュル・タマン」(庭師/園丁)の職は主に外国人に与えられたと述べていることも紹介している。だからセノパティの側近く仕える外国人が「ジュル・タマン」と呼ばれていて、外国人として宮廷内では治外法権的な立場であることを利用して、セノパティの命に従って瀕死の床にあるパジャン王の寝室に入り、とどめを刺したということもあり得ただろう、とデ・グラーフは推測する。

思えば、王宮の庭師または園丁は、それが外国人であるかどうかにかかわらず、なかなか含みのある役職だといえる。後宮の庭などプライベートな空間まで立ち入ることが許される役職であり、密命を受けたり、秘密の報告をしたりするには最適だっただろう。庭師が密偵の役を兼ねていたり、あるいは密偵であることを隠すために表向きは庭師の姿をしていたりしたこともあったかもしれない。

デ・グラーフは、マタラム王国成立前に、ジパン(Jipang、現在のブロラ県チェプ付近)の支配者だったアリア・パナンサンが後宮の護衛を四人、パジャン王のもとに忍び込ませて暗殺を図ったが失敗した逸話も紹介している。また前回少し触れたが、キ・ジュル・タマンを後宮の番をするジンとする言い伝えもあるらしい。庭師と同様に後宮の護衛も、やはり何やら裏のある役職だったのだろう。

●キ・ジュル・タマンはポルトガル人だった?

ガジャマダ大学で教鞭をとる歴史学者スリ・マルガナ氏は、今もジョグジャカルタのコタグデに残る「セノパティの玉座」と伝えられる一枚の石の板を巡って、マタラム王家とおそらくはじめに直接接触したらしいヨーロッパ人の存在を想定している。

この石はWatu Gilang(「輝く石/岩」の意)と呼ばれるもので、厚さ10cm超、一辺の長さ120cmほどのやや長方形の平らな板状で、安山岩からできているらしい。1896年に撮影された写真では、二本のシダレガジュマルの巨木の下に、簡単な屋根をつけただけのところに置かれているが、現在は屋内に保管されている。この岩の表面に、イタリア語、フランス語、ラテン語、オランダ語で一連の言葉が彫りつけられていて、その一部は今も確認できるという。

19世紀後半のWatu Gilang(http://yogyakarta.panduanwisata.id/wisata-religi/situs-watu-gilang-singgasana-panembahan-senopati/ より)

Watu Gilangと表面の刻文(https://argakencanacom.wordpress.com/2018/03/16/watu-gilang/ より)

ジョグジャカルタ特別州文化局の機関誌“Mayangkara”のなかで、マルガナ氏が紹介しているその銘刻文を追ってみよう。

最上部:Ad aeternam memoriam sortis infelicis(kenangan abadi tentang nasib yang tak menyenangkan:快からぬ運命についての永遠の思い出)

中央部の四角形をなす刻文を囲む円形状の刻文。円に沿って東→南→西方向に四言語で:Ainsi va le monde -------Cosi va il mondo ----- Zoo gaat de wereld -----Ita movetur mundus(Ke- empatnya memiliki makna yang sama kurang lebih: Itulah hidup:それが人生だ)

円形の刻文の外側の四角形をなす刻文は大部分が判読不可能だが、北側にあたる刻文:In fortuna consortes, idioni valete, amelan, lie...(pasangan dalam keberuntungan, teman selamat jalan: 幸運の中の相棒、無事な旅の友)

同四角形の東側:Iasi. Quid stupearis in sani, ----1x---vid(batapa mengagumkan dalam kondisi sehat:健康な状態ではいかに感銘に値するか)

同南側:Videte ignari et ridete, mix...lec....(tak dapat apa-apa dan tertawa...:何もできず、笑い…)

同西側:Song out..p... tavi contemtu vere digni----(1) inv.....(celaan dan hinaan, sangat pantas untukmu:非難と侮蔑、まことにお前にふさわしい)

その他いくつかの箇所で部分的に判読できる刻分:

Smaadt, gij die versmading waardig zijt.(celaan, kamu yang layak dihina:非難、お前こそが侮蔑されるに値する)

Waarom wordt gij ontsteld of verbaasd, gij dwaas(mengapa kamu terperanjat dan heran, kamu bodoh:なぜお前は驚き呆れるのか、愚か者め)

Ziet, ontwetenden en lacht,(lihatlah bodoh dan tertawalah:見よ、愚か者、そして笑え)

Lotgenooten! Vaarwel!!(teman, selamat tinggal:友よ、さらば)

<※カッコ内のインドネシア語訳はマルガナ氏によるもの、日本語訳は筆者が付け加えた。>

なかなか生々しい刻文だ。いつ、だれが彫り込んだのだろう?

マルガナ氏は、セノパティがマタラム国の王座についてほどなく、ジャワ島の南沿岸で遭難したポルトガル船の6人の船乗りの逸話に言及している。6人のリーダーはコルネリス・デ・ラ・ヴォンテという名で、そのままマタラムの都に留まることを決め、やがて白ずくめの服装をして名をキアイ・アブドゥル・セガランと改めた。そこで7年過ごした末に帰国することにし、記念に上記の刻文を残したという(だとすると、なぜポルトガル語がないのだろう?)。ただし、この説については出典不明とのことだ。

それよりも有力な情報源として、マルガナ氏はイギリスとスペインの血を引くウィリアム・バリントン・ダルメイダという人物が1864年に上梓した回想録に収められたジャワ紀行文に言及している。

ダルメイダはコタグデでWatu Gilangの刻文を目にして興味を抱き、近隣の老人たちを訪ねて、ある言い伝えを突き止めた。それによると、あるときジャワ島南海岸近くでポルトガル船が座礁し、船乗りのひとりが浜辺に打ち上げられているのを漁師が見つけた。ポルトガル人の噂はたちまち広まり、マタラム国王はその男を都に連れてくるよう命じた。王は、ポルトガル人がマタラムの民に悪影響を及ぼすことを恐れ、後にWatu Gilangと呼ばれることになる石の側に繋いでおくことにした。人々はそこに近づくことを禁じられていたが、一人の娘がポルトガル人を気の毒に思ってこっそり食べ物などを与え、やがてふたりは思いを通わすようになった。二人は力を合わせてついに足枷と手枷をはずし、南海岸へ逃げて漁師の船でバンテンへ落ち延びた。男はそこでバンテンの王の助言者となり、貿易を押し進める力となった。

また、そのポルトガル人にセノパティが大砲を作るよう命じたが、男はそれを断ったため、石に繋がれたという言い伝えもあるらしい。

いずれにしても、その言い伝えがなんらかの事実に基づくものであるなら、Watu Gilangの刻文はその男が刻んだものだったかもしれないとマルガナ氏は指摘し、マタラム王朝初期に王家にジュル・タマンと呼ばれる西洋人がいたとすると、そのポルトガル人がそれだった可能性を示唆している。

(以下に続く)

  • バロン・スケベル伝説
  • バロン・スケベル伝説と『ジャワ年代記』その他の逸話
  • キ・ジュル・タマンの予言

 

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