南米ペルーにあるインカ帝国の遺跡で世界遺産でもあるマチュピチュは別名「空中都市」と呼ばれるが、インドネシアのフローレス島には「雲上の集落」と呼ばれる伝統集落がある。標高約1,200メートルの山中と隔絶された地にあるワエレボ集落で、独特な円錐状の伝統家屋に人々が現在も生活を続けている。観光地としても有名になったワエレボの人々は伝統の中に生きる一方で、現代に即した生き方も併せ持つ。「雲の上に生きる」人々の生活の一端を垣間見る。
●「雲上の集落」ワエレボへ
フローレス島西部、赤印部分がワエレボ集落(Google Mapsより)
「雲上の集落」と呼ばれるワエレボ(Wae Rebo / 現地発音に近い表記はワエルボ)は、東ヌサトゥンガラ州フローレス島の西部、マンガライ県南西部の山中にある。フローレス島は16世紀初頭、この地を訪れたポルトガル人が「花の岬」(Cabo de Flores)と呼んだことが由来しているといわれている。それ以前、現地では「蛇の島」(Nusa Nipa)と呼ばれていた。島の形が東西に細長く蛇行した様を表しているようだ。17世紀にオランダが支配する以前のポルトガルの影響で、フローレス島の住民の多くは伝統信仰に加えてカトリック教を信仰している。
ワエレボのある山の麓から最も近いドゥンゲ村まで、マンガライ県の中心都市ルテンからは車で約3時間、フローレス島の玄関口・ラブアンバジョからは6時間を要する。島とはいえ険しい山岳部を越える途中、トド集落近くを通る。大規模な伝統家屋が見える。かつてマンガライ地方では幾つかの王国が栄えたが、そのうちの一つの王国跡だ。マンガライ地方の王国は隣島スンバワ島のビマ王国や、南スラウェシのゴワ王国の襲撃を受けて支配されたこともあり、その影響で漁師など沿岸部などの住民の中にはイスラム教徒もいる。
山岳部を抜けフローレス島の南海岸沿いを西進した後、再び山岳地へ向けて走ると、ワエレボのあるポント山が見えてくる。麓のドゥンゲ村からはバイクに乗り替え約10分でワエレボへと続く山道の入り口に到着する。
ワエレボまでの山道は、個人差はあるが2時間から3時間かかるといわれている。観光地として有名になっただけに山道は石畳が整備されているが、つづら折りに続く坂の斜度はきつい場所も多い。1時間余りで中間点に到着すると、フローレス島南岸の海が見渡せる景色が広がる。中間点から先は石畳がなくなり、石が剥き出しになった道を登っていく。汗が噴き出すが、鬱蒼と茂るシダの葉が山道を屋根のように覆って直射日光を遮ってくれる。
ワエレボへの山道
空を覆うシダ植物
さらに1時間ほど登ると山道は下りも含めた平坦になる。しばらくして下山する女性数人とすれ違う。リュックを背負い、頭の上には大きな荷袋を乗せている。ワエレボの住民たちだった。そのうちの一人、コルネリアさんが言う。
「山の麓の小学校に通う子供に会いに行くんです」
麓に下山するワエレボ集落の住民
ワエレボ集落には学校はないため、子供たちは皆、親とは離れて麓に住んでいるという。続いてすれ違ったヤコブスさんも同じだった。幼児を肩車し、もう一人の子供を指差しながら「この子も来年は学校なので麓で暮らします」と話した。
この辺りまで来ると、山道脇の茂みにはコーヒーの赤い実がちらほらと見えてくる。後から知ったことだが、ワエレボ集落のコーヒー農園の一部だった。犬の鳴き声もかすかに聞こえ、集落が近いことを予感する。そして、登り始めてからちょうど3時間でワエレボ集落に到着する。
ワエレボ集落(フローレス島マンガライ)
ワエレボ集落は馬蹄形の崖の広場を取り囲むように、伝統家屋が7軒並んでいる。家屋はとんがり帽子を伏せたような円錐形で、バル・ニアン(Mbaru Niang /円錐形の家の意味)と呼ばれるマンガライ民族独自の形態だ。広場の中ほどにはチョンパンと呼ばれる祖先の霊を祀った場所が円形の舞台のように設けられている。集落の背後にある谷を雲がゆっくりと流れる。文字通り「雲上の集落」だった。
●伝統に生きるワエレボ
ワエレボ集落の伝統家屋
ワエレボ集落では7棟ある伝統家屋のうち、訪問者用の宿泊所としての1棟を除いた6棟で住民が生活をしている。長の家屋に8家族、それ以外の家屋に6家族ずつが住んでいて、あわせて200人近くが伝統家屋に住んでいる。
ワエレボ集落の伝統家屋は1990年代後半までは4棟だった。1990年代末に地方政府が長の伝統家屋を修復した。これは観光のためでもあるが、マンガライ民族アイデンティティの再構築のための色合いが強かったとされている。2000年代に入ると、ジャカルタの伝統文化保存財団の援助で伝統家屋が増設され、現在の7棟に至る。
集落の長の家で歓迎の儀式(略式)が行われる
集落を訪れた観光客など外部の者は、まず伝統家屋のうち一番奥にある集落の長の家に行き、歓迎の儀式を受ける。歓迎の儀式はマンガライ民族古来の風習で、外部の集落から嫁を迎えたり、重要な訪問者があった際、祖先の霊を呼び寄せる伝統太鼓・グンダンなどを演奏しながら執り行われる。一日に何グループかに分かれて訪れる観光客に対しては、その度に簡略化した儀式が行われる。
簡略化した儀式では、集落の長あるいは代理の者が伝統家屋の主柱を背にして客と対座するように座る。家屋の主柱には祖先の霊が宿ると信じられている。現地のマンガライ語で抑揚はないがまるでお経を唱えるかのように長が2分ほど祈りを捧げる。内容は祖先の霊に対して、客が訪問したことを報告し許可を求めるとともに、客の滞在中の安全を祈るものだという。
集落の長の家は7軒ある伝統家屋の中で最も大きく、高さは約10メートルある。内部は入口から居間が広がり、生活場所であると同時に伝統儀式や集落の話し合いが行われる場でもある。円形の建物の中央には祖先の霊が宿ると信じられている主柱が立つ。主柱の裏側には料理のためのかまどがあり、居間やかまどを取り囲むように外壁に沿って部屋が8つある。ここに長の家族をはじめ集落の有力な家族が8家族住んでいる。祖先の霊を中心にその周囲で人々が生活を営む、マンガライ民族の哲学「中心と円」の概念が反映された構造である。
伝統家屋内部。左手前が主柱と竹の梯子。主柱と居間を取り囲むように部屋が並ぶ。
入り口近くの柱の上部には長としての権力の象徴であり、伝統儀式にも使用される太鼓グンダンをはじめ銅鑼など鳴物が掛けられている。また大黒柱でもある主柱脇には直径20センチ近くもある太い竹の棒が立っていて、巨大な竹笛かのように等間隔に穴が開けられている。梯子だった。
ワエレボの伝統家屋は高床式の5層構造で、1階が居住部分、2階は食糧倉庫、3階は長期保存用あるいは緊急時用の食料保存庫で、4階には耕作用の苗や種子が保存されている。建物の最上端にあたる5階は祖先の霊のためのスペースで、鶏の翼の羽などで作られた祭壇にあたる儀礼具が供えられている。同じ儀礼具は1階にもあり、伝統行事の際には供物がここに供えられる。このようにワエレボの伝統家屋は現存し使用されているものとしては、古来からの形態を最も維持したものである可能性が高い。
再建当時の伝統家屋
最上階で祖先の霊に供えられる儀礼具
ワエレボ集落がいつ頃から、またなぜ隔絶された山奥にできたのかなどはいまだ不明で謎の部分が多い。ワエレボの長代理のマルテンさん(55歳)によると、彼らがワエレボ集落の始まりから19世代目にあたると語り継がれているという。このため一般にワエレボは千年余りの歴史を持つとされている。
また成り立ちは、スマトラ島出身のミナンカバウ民族がフローレス島に訪れ、各地を巡った後、この地に定住したのがワエレボの始まりだとする伝説が残されている。しかし、ワエレボ集落の形成予想年代やミナンカバウ民族の歴史的年代などを考えると、この伝説の真偽のほどは不明である。
長代理のマルテンさんによると、一年で最も重要な行事は11月中旬に行われるプンティ(Penti)だという。伝統行事プンティはマンガライ民族では一般的に収穫祭として行われる場合が多いが、ワエレボ集落では11月中旬を伝統的に正月とみなしていて、新年の行事を行うという。
ワエレボ集落長代理の一人、マルテンさん
新年の儀式は正月2日目に行われ、集落の水源や墓地、さらには集落の中心で祖先の霊が宿るとされるチョンパンを順番にまわり供物や祈りを捧げる。二人の男が鞭を打ち合いながら舞う、チャチと呼ばれる伝統舞踊も披露される。各家屋では家族が集まって祈りを捧げ、先祖の霊と神に新年を迎えることができたことと、旧年の収穫物に対するお礼をするという。同時に新年も守ってくれるよう祈願する。続いて各家族の代表者が長の伝統家屋に集まって同じ事が行わる。その後、長の家に集まった人々は一晩中、歌や踊りで新年を祝いながら楽しむという。マルテンさんはこう付け加える。
「新年には、嫁に出た人も含めて、集落外に出ている全てのワエレボ出身者が集まらなければなりません」
ワエレボ集落を含めたマンガライ民族には古くから教訓として「故郷を忘れてはならない」という決まり文句がある。ワエレボ集落の人々にとっても、生まれ故郷であり、先祖代々受け継がれてきた場所を大切に思う気持ちのあらわれのようである。隔絶された地であることがより思いを強めているのかもしれない。逆に言えば、集落を存続させるために子々孫々と培われてきた教訓ともいえそうだ。
(以下に続く)
- 「雲上の集落」の人々
- 「雲上の集落」と「雲下の集落」
- ワエレボからコンボへ
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