よりどりインドネシア

2023年09月08日号 vol.149

スラウェシ市民通信(6):バワカラエン山の守り人、ダエン・マンドン(2007年6月翻訳)(アクバル・アブ・タリブ/松井和久訳)

2023年09月08日 20:23 by Matsui-Glocal
2023年09月08日 20:23 by Matsui-Glocal

バワカラエン山を愛するあまり、ダエン・マンドンは、この南スラウェシ州ゴワ県にある山岳地帯の環境保護に人生のすべてをかけてしまった。インドネシア独立記念日のお祝い気分のなか、筆者は彼にインタビューした。山の守り人の報酬として毎月15万ルピアをもらっていることなど、様々な面白い話を聞くことができた。

●独立記念日の喧騒から離れて

2006年8月17日木曜日の夜。南スラウェシ州ゴワ県マリノの住民は、61回目のインドネシア共和国独立記念日を迎えたこの日まで、お祝い行事を一週間も続けて楽しんできた(訳注1)。

(訳注1)独立記念日を祝う行事は、独立記念日の二週間前ぐらいからほぼ毎日開催される。かつては、本文のような山間部では、遠隔地で交通の便が悪い場合、山間部に散在する集落の住民は、マリノのような中心集落に出てきて、集落ごとに固まってしばら「合宿」し、毎日のお祝い行事に参加するのが一般的だった。

そこでは、インドネシア各地で通常行われるような様々なアトラクションが催された。せんべい(krupuk)食い競争、棒登り競争(panjat pinang)(訳注2)、その他の催し物である。夜になると、歌や踊りの演芸会が開かれた。マリノのサッカー場には縦4メートル、横6メートルの演台が設けられ、毎年のことだが、とても騒々しい恒例行事が行われる。住民は次々に壇上へ上がって歌や踊りを披露する。ポップス、ダンドゥット(訳注3)、ロックを歌う者もいる。もちろん、独立闘争を称える詩を朗読する者や民族歌を歌う者もいる。

(訳注2)油を塗ってつるつるに滑るようにした長い棒の先にお菓子や様々な景品をぶら下げ、それを目がけて競って棒を登りあう競争。独立記念日の恒例行事で、全国各地で一般に行われる。

(訳注3)アラブ・インド系の哀調を帯びた大衆音楽で、体を揺らし、踊りながら歌う形態を採る。歌詞が単純で、インドネシア国民全般に人気があり、飾らない庶民の音楽と受けとめられている。

住民は、このお祝い行事を心底楽しんでいる様子だった。競争に次ぐ競争、催し物に次ぐ催し物、みな笑いと拍手に溢れていた。喧騒のなかで、ときおり、ちょっと乱暴気味な口笛が聞こえたりした。

しかし、そうしたお祝いの喧騒から遠く離れたバワカラエン山のふもとでは、山の自然の静けさのなかで一人の初老の男が黙ってたたずんでいた。あたかも、マリノに集まって独立記念日のお祝いを楽しんでいる他の住民と一緒になるよりも、山から吹き下りる風の音に耳を傾けているほうが楽しいかのようであった。

この褐色の皮膚をした男は、たった一人で、バワカラエン山のことをひどく心配していた。彼によると、わかることはただ一つ、バワカラエン山が今とても危機的な状態にあるということだった。

「村の奴らがかわいそうでならんのだよ。誰もバワカラエン山のことなど気にする者はいない。ところがこの間、大きな地滑りが起こっただろ。また大きな地滑りが起こるのではないかと気になって怖いのだよ」と彼は語る。

●山の守り人、ダエン・マンドン

彼の名はダエン・マンドン。年齢はおおよそ50歳ぐらいであろうか。この30年の間、彼はバワカラエン山の自然環境を守るために人生を捧げてきた。

毎日、ダエン・マンドンはこの古い山の斜面に苗木を植えるのを日課としてきた。彼が植えるのはマホガニー、チーク、その他の硬木の苗木である。植える前に、それらの苗木は彼の家の周辺であらかじめ育てられている。これまでにいったい、何本の苗木を植えたのか、正確に覚えてはいない。おそらく、何千本もの苗木を繰り返し植えてきたことであろう。

この努力の報酬として、彼はゴワ県林業局から毎月15万ルピア(約2,000円)の謝礼をもらっている。これはどうみても十分な額ではない。しかし、ダエン・マンドンによれば、衣服や食料といった生活必需品は、たまたま彼の家に泊まった登山者らがよく置いていってくれるそうである。ただし、生活必需品が急に必要になることもあるので、週に一度、マリノの市場へ買い出しに出かけるということだ。

バワカラエン山の守り人、ダエン・マンドン(Winarni撮影)

苗木を植えるほかに、彼は、その多くが自然愛好家グループに属する登山者たちと話をしながら夜の時間を過ごすことがよくある。彼ら登山者の多くは若者たちだが、ダエン・マンドンは、登山中は環境美化と登山の態度に気をつけるよう、若者たちに助言することがしばしばあった。

毎朝、苗木を植える前に、ダエン・マンドンはランマ谷の最も高い場所であるタルンの頂に登る。そこから彼は、自然の変化が起きているかどうかをみるため、山の尾根の連なりを眺める。「タルンに登れば、バワカラエン山で起こった地滑りの跡をほぼすべて見ることができる。地滑りが起こった方向も見ることができる」という。

32人が犠牲になった地滑り

ダエン・マンドンは語る。2004年3月26日金曜日の昼に起こった地滑りの出来事を決して忘れることはできない、と。

当時、マリノから離れたティンギモンチョン郡マニンバホイ村のレンケセ集落では、100人以上が水田で耕作していたが、そのうちの32人が、突然の地滑りで土に埋まって亡くなった。大量の土砂が数百ヘクタールの水田を覆いつくし、集落の家や学校の建物を埋めてしまった。

地滑りが起こる直前、レンケセ集落の住民はちょうどイスラームの金曜礼拝を終えたところだった。男たちの大半は、礼拝から家に帰るとすぐに水田へ向かった。他の者たちは牧草地に牛を連れて行ったり、家で休んだり昼食をとったりしていた。

住民は水田耕作を待ち望んでいたのだった。実際、それまでの二週間は激しい雨が降り続いていた。だから、久々に晴れたその金曜日を無駄にしたくなかった。収穫期を迎えようとしていたのである。

誰が一体、想像などできるだろうか。この後すぐに、集落や水田や畑や家畜、そして自分の愛する家族や自分自身までもが地滑りで土に埋もれてしまうとは。自然が示す前兆はなかった。いや、実際には兆候はあったのだ。山肌から土が少しずつ落ちていたのだが、そのときにはそれが兆候だとは読めなかった。そして、その数分後、バワカラエン山の山肌から山裾までが一気に崩れ落ち、何もかも、すべてを埋め尽くしてしまったのである。

地滑りで埋まった場所からバワカラエン山を望む(Winarni 撮影)

マニンバホイ村はバワカラエン山の山裾の谷間に位置し、村の左側と右側をジェネベラン川の上流が流れている。ダエン・マンドンは、危険な兆候をすばやく村人たちに知らせることができなかったことを残念に思っている。彼は、早足でマニンバホイ村へ向かったのだが、長さ30キロメートル、堆積の厚さ400メートルにも達した大規模な地滑りの発生で、行く手を遮られてしまった。地滑りが起こる直前に、彼は非常に激しい爆音を聞いた。その爆音はバワカラエン山の山肌の下の部分が崩壊した音のような気がしたのであった。

(以下に続く)

  • たった一人でランマ谷に住む
  • 別れた妻子を思いつつ
  • 訳者による解説
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