よりどりインドネシア

2023年09月08日号 vol.149

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第68信:映画で感じとるジャカルタの庶民風景 ~人情映画の快作『イカした仕立て屋』より~(横山裕一)

2023年09月08日 20:22 by Matsui-Glocal
2023年09月08日 20:22 by Matsui-Glocal

轟(とどろき)英明 様

8月下旬、ジャカルタにLRT(軽量高架鉄道)が開通しました。ジャカルタ中心部のドゥクアタスから南郊外のチブブルと東郊外のブカシの2区間です。当初、2018年のアジア大会に合わせての開通予定だったのが北ジャカルタの路線しか間に合わなかったこともあり、ようやくといった感じです。

首都ジャカルタでの新交通機関といえば、2019年に開通したMRT(一部地下鉄)がありますが、開通以来、現在に至るまでさまざまな映画作品内に登場していることから、LRTも今後映画に登場するようになるかもしれませんね。それ以前都会での乗り物シーンの多くは乗用車に限られ、自動車所有者は中間層以上の経済的に余裕のある登場人物が多数を占めるイメージでした(勿論例外も多くありますが)。MRTの利用者は通勤通学など低所得者層を含めた大衆が主な対象で、大衆を描く幅が広がったことが映画に再三取り上げられるようになった一因かと思われます。

公開順では『べバス/自由』(Bebas /2019年10月公開)がMRTを取り上げた最初の作品だったかと思います。続いての『いつかこの物語をあなたに』(Nanti Kita Cerita Tentang Hari Ini /2020年1月公開)では、主人公が会社帰りに同僚と車内で会話するシーンも登場しました。日本では当たり前の風景ですが、インドネシア映画ではとても新鮮に感じられた日常のシーンでした。映画におけるMRTは首都ジャカルタの新しい都市アイテムというキャッチーな存在だけでなく、大衆生活を描ける重要なアイコンになっているようです。

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そこで今回は映画を通して感じられる、ジャカルタの風景や雰囲気、人情風景について話してみたいと思います。どこに住んでいても、知らぬ間に街は刻々と変わっていくもので、ある時代に街頭撮影した映画作品は制作者の意図のあるなしに関わらず、その時代の貴重な街の記録にもなっています。現在から見て消えたもの、新たに増えたもの様々でしょうが、時にはノスタルジーを感じたり、現在との違いに街の在り方や社会変化を考える参考にもなります。

今回はジャカルタの街を感じられる作品として、Netflixインドネシア版(日本版は不明です)で最近配信され始めた、『イカした仕立屋』(Tampan Tailor / 2013年3月公開)を通してみていきたいと思います。この作品は父子の親子愛と二人を支える人々の人情が描かれていて、個人的には非常に好きな作品の一つで過去に何度も鑑賞しています。

映画『イカした仕立て屋』ポスター(引用:X, Maxima Pictures @MaximaPictures)

主な舞台は中央ジャカルタのパサールスネン周辺です。モナス(独立記念塔)の東わずか1キロに位置するとはいえ、低所得者層を含めた集落が広がり、度々火災に見舞われる伝統市場やジャワ各地への長距離列車の国鉄基幹駅がある地域です。

主人公は優秀な仕立て屋ながら妻をガンで亡くし、その治療費のため店(家)も失ってしまったトパン(俳優:フィノ・G・バスティアン)と、6歳の一人息子ビンタン(俳優:ジェファン・ナタニオ)で、夫婦で使った思い入れの強いミシンも質入れし、二人が路頭に迷ってしまうところから始まります。二人はパサールスネン駅近くに住む従兄弟のダルマン家族を頼り、ダルマンの稼業である長距離列車切符のダフ屋をトパンは手伝い始めます。

ここまでの冒頭シーンだけで、公開からわずか10年ではあるものの、ジャカルタの風景が様々に変化したことが窺えます。路上を走るコパジャやオレンジ色のバジャイ(三輪タクシー)は現在のジャカルタからは姿を消しています。コパジャは白色ボディに緑のラインが入った乗り合いのマイクロバスで、オレンジ色のメトロミニともに、州営バス(トランスジャカルタ)の路線拡大に伴って約3年前、廃業に追い込まれています。けたたましいエンジン音と大量の排気ガスが特徴だったオレンジ色のバジャイも今や天然ガスエンジンの青色バジャイに取って代わっています。

また主人公トパンがダフ屋をするパサールスネン駅も映画内ではオランダ時代からの趣ある姿が窺えます。現在は利用者の増加に伴って駅舎を拡大するために旧駅舎を囲うように近代的デザインの上屋が増設されています。旧駅舎は取り壊されていませんが外観は大きく様変わりしています。

パサールスネン駅・旧駅舎(写真上:2017年撮影)と改装後(写真下:現在)

さらに言えば、タイトルバックの映像は大通りに主人公親子二人がカバンを抱えて歩くシーンですが、おそらく絵柄重視で物語に関係なくクニンガン地区とメンテン地区を結ぶ橋の上で撮影されています。現在と比べると高層ビルもまだまばらで、前述のLRTの高架もまだ全くありません。

タイトルバック映像と同場所の現在。右手前のビルや高架は当時なく風景は様変わり。

これら風景の変化は当然と言えば当然ですが、ここ十年、特に直近の5年間はジャカルタの行政主導による公共交通機関整備が大きく進んだ結果で、利用者である大衆の生活様式が変わりつつあることが窺えます。同映画が公開された3ヵ月後には、国鉄の首都圏鉄道も日本の中古車両を利用した大改革を行い、利用者を激増させています。ただ、依然解消されない渋滞に伴う最近の大気汚染の悪化からも、公共交通機関整備はまだ始まったばかりで、現状では不十分であることもわかります。

さて物語に戻ると、トパンとビンタンの親子は一時安らぎを覚えても、再び失意に落とされる繰り返しで苦労を重ねます。仕立て屋に戻りたい夢を持つものの、当面の生活費を稼ぐためトパンはダフ屋を始めますが、警察のおとり捜査で逮捕され、その後は高架道路建設現場で働くなど夢から遠ざかっていきます。従兄弟ダルマンの家に居候していたものの、ビンタンがダルマンの子供と喧嘩したのをきっかけに居づらくなり再び宿無しに戻り、夜間停車中の列車の車両に寝泊まりしたり、駅舎トイレでの水浴びを余儀なくされます。ビンタンも授業料の滞納が原因で小学校へ通えなくなります。

そんな折、ビンタンを通じて知り合ったのが雑貨販売と共に子供を時間制で預かる店の女性店主プリタで、彼女の紹介で親戚がマネージャーをしている衣料縫製会社の職人の仕事を得ることができます。才能を発揮し、現場で評価されるものの、ここでも不幸は訪れます。現場チーフの汚職に巻き込まれ、チーフの讒言でトパンはクビに。仕方なく再度従兄弟のダルマンを頼ると、彼は映画撮影で危険なシーンを演じるスタントマンになっていて、ダルマンの怪我をきっかけにトパンが引き継ぎ、危険を伴う日々を送り始めます。

このように低階層の庶民に追い打ちをかける悲惨な物語であるにもかかわらずこの作品が優れているのは、ジャカルタ庶民の人情を丹念に描くことで観る者の心を動かす仕掛けが設けられ、悲惨さだけでなく希望を持たせ続けている点です。一つ目は逆境にも負けない親子愛です。トパンは厳しい現実に息子のビンタンを傷つけさせないよう優しい嘘をいくつかつきます。ビンタンが「ダフ屋ってなあに」と聞くと「秘密の冒険だよ」と説明し、学校へ通えなくなったことをビンタンに伝える時も「明日から学校は休みだよ!」と表現します。ビンタンも事情は察しているように見えるものの、父親の言葉に喜んで応えます。

一方、ビンタンが居候先のダルマンの子供と喧嘩し傷つけた際には、トパンはビンタンの尻を叩きながら厳しく叱責します。ビンタンが駆け出し、トパンが追いかけると、質屋で母親の形見でもあるミシンの脇で泣いています。怒ったものの子供の不憫な境遇に気づきトパンは抱きしめます。

親子間の思いが強い二人ですが、唯一トパンが投げやりで感情的になるシーンがあります。不可解なまま縫製会社を解雇され、再度路頭に迷った際です。職を紹介してくれたプリタにも理由を説明できないまま一方的に非難を受けてしまいます。トパンは失望からビンタンが大事に抱えていたかつての店の看板を奪い、踏みつけて川の土手に捨ててしまいます。この看板は亡き妻が描いたもので、二人にとって仕立て屋の誇りばかりでなく親子を象徴する証でした。その晩、雨の降るなか二人はあてもなく、かつての自らの店先に戻ってきてしまいます。ビンタンが失意の父親に抱きつきながら泣き声で言います。

「お母さんがお父さんを誇りに思えと言っていた。諦めないで。頑張らないと」

我が子の励ましに謝るトパン。母親を含めた親子愛の原点の再確認とともに、鑑賞者の琴線に触れるシーンでもあります。

(⇒  庶民人情を描いた二つ目は・・・)

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