よりどりインドネシア

2021年01月08日号 vol.85

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第12信:テーマ追求とタイミング、映画のジレンマ(横山裕一)

2021年01月08日 10:47 by Matsui-Glocal

轟(とどろき)英明 様

新年明けましておめでとうございます。大晦日の夜からの大雨で大洪水の正月となった昨年とはうってかわって、今年のジャカルタの元日は青空の広がる気持ちの良い幕開けとなりました。この天気が今年のインドネシア、日本、世界を占うものであってほしいと願いたいものです。

さて、轟さんのスポーツ映画とナショナリズムの関係を興味深く読ませていただきました。概ね私も同じ考えです。とくに『スシ・スサンティ:ラブオール』(Susi Susanti : Love All)は以前も少し触れましたが、鑑賞後、良い意味で大きく裏切られた作品でした。インドネシア初の五輪金メダリストのサクセスストーリーというよりは、あるアスリートを通した中華系インドネシア人差別・迫害の歴史を描いた、とてもメッセージ性の強いものであることは、轟さんも言及された通りです。

スハルト政権時代に国籍証明書(SBKRI)の取得義務化をはじめ、中華文化の禁止など、中華系インドネシア人への差別政策が強められましたが、それ以前のスカルノ政権時代でも国籍を認める代わりに中華名の使用を禁じられたり、商業活動を都市部のみに限定されたりするなど、中華系住民にとってのインドネシアでの歩みは苦難の歴史と言ってもいいかもしれません。オランダ植民地時代に移住し、商業活動を活発に展開した華人に対する、被植民地住民として抑圧され貧困に苦しんだ当時のインドネシア原住民が抱いた悪感情に基づいた、歴史的に非常に根深い問題です。

それだけに、同作品のクライマックスで、主人公のスシ・スサンティが「私は中国人ではなくインドネシア人です」と力強く訴える姿は、轟さん同様感慨深く、同作品のテーマを端的に表した一言だったと思います。ただその意味では私は逆に、轟さんが表現されたような「国家への忠誠を誓った言葉」ではなく、あくまでもインドネシアに既存する一民族としての主張であり、差別を放置する国家に対して非難・告発・是正を求める切実な一言だったのではないかと感じています。

彼女は西ジャワ州タシクマラヤという田舎でインドネシア人として、当地に多数いるスンダ民族と同じように生まれ育ちました。それにも関わらず、血筋が中華系というだけでどうして、社会構造的に差別されなければならないのか。中国語を話すと言っても、それはスンダ民族がスンダ語を、ジャワ民族がジャワ語を話すのと同じではないか。まさに彼女の魂の叫びだったともいえます。同じインドネシア人なのに、なぜ差別を受けなければならないのか。スシ・スサンティと同じ発言は、私もこれまでに何人かの中華系インドネシア人から聞いたことがありますが、大多数の中華系の人々が抱き続けてきた素直な不満だといえます。

こうした国への、社会への批判は、轟さんもご指摘の通り、言論統制が敷かれたスハルト政権が崩壊し、民主化が謳われ言論の自由を手にして20年が経った現在だからこそスクリーン化できたものだと言えます。9・30事件に関連した問題を扱った作品『プラハからの手紙』(Surat dari Praha / 2016年公開)を手がけたアンガ・ドゥイマス・サソンコ監督も公開当時、「民主化になった今の時代だからこそ、過去の事実について発言できるようになった」と制作動機を語っていたことが証明するように、過去には表現できなかった社会問題をテーマにした作品が近年、数多く制作・公開されるようになっているのも事実です。これが、近年のインドネシア映画が魅力あり、業界全体も勢いがある要因のひとつといえるかもしれません。

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ところで同作品では中華系の人々の社会的、日常的な差別が扱われていますが、冷静に観ると、窮状を訴える一辺倒になっているようにも見受けられます。前述のようにそれだけでも十分とも言えますが、轟さんが指摘されたように、もしかしたら差別を正当化し行う側、所謂「悪役」が登場しないために、差別被害の実態を観客に実感として抱かせるには弱く感じた理由といえるかもしれません。テーマを徹底して強調し、主人公をはじめとした中華系の人々への感情移入ができるような演出をするには、差別する側の存在が不可欠でもあります。

この件については私も同感ではありますが、一方で強く感じたのは、この背景には、中華系の人々にある、「窮状を訴える一方での防衛本能のジレンマ」があるためではないかということです。もちろん、民主化、言論の自由をある程度手にした現在、長年受けてきた差別を強く訴えることは必要でありやるべきですが、やりすぎて逆に反発を受けて差別の増大にはさせたくない。劇中に「悪役」を登場させれば、それは当然、華人系以外のインドネシア人とならざるをえない。不条理の現実を訴えたいが、訴える相手は観客の大多数を含めてこれまで差別してきた側なので、刺激を与えすぎたくはない、というジレンマが働いているのではないかと思われます。

1998年のスハルト大統領退陣に伴う大暴動で中華街が襲われただけでなく、1965年の9・30事件後や1980年代の反華人運動など、ことあるごとに中華系住民は焼き討ちに遭う対象となるなど、民族的マイノリティとして守りに徹してきた経緯があります。私も過去に中華系住民への取材で差別について訊くと応えてはくれますが、ある程度のところで「もうこの問題は(報道で)あまり触れないでほしい」と求められることが何度かありました。またかつて調査のために首都圏で民族のアンケートを取った際も、中華系の人々は自分の民族を「中華系」とは書かず、「ブタウィ」(Betawi / 首都圏に古くから定住する住民)と記入する人が多数でした。全てではありませんが、中華系であることを敢えて自ら公にしたがらない人々がいるのも事実のようです。

同作品のプロデューサーは二人ですが、うち一人は有名な司会者でもある中華系のダニエル・マナンタ(Daniel Mananta)氏で、監督のシム・F(Sim.F)氏は情報が極端に少ないため確実ではありませんが、わかる範囲ではおそらく中華系インドネシア人とみられます。華人が作る映画作品として、彼らも制作の段階で「テーマ性の強調と逆効果の回避」というジレンマのなか、ギリギリの検討と選択を繰り返し、その結果ができ上がった作品内容だったのではないかと思います。現在の社会風潮、住民感情を鑑みて、差別是正を訴えることはできるが、差別者を糾弾するまでには至らない。つまり、言論の自由を得てすでに20年が経ってはいるものの、中華系問題においてはまだ20年が経ったばかりということで、現段階でできる中華系制作者が作り得る最大の手法が同作品だったのではないか、ということです。もしかしたら、10年、20年後にはさらに踏み込んだ内容の作品が生まれるのかもしれません。そう考えると同問題の歴史での、解決に向けた過程の一端を垣間見るような気にもなります。

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さて、同じように「ジレンマ」が感じられる作品として、1998年のジャカルタ大暴動とスハルト退陣を取り上げた『98年への回顧』(Di Balik 98 / 2015年公開、NETFLIXで『Behind 98』として配信中)を紹介したいと思います。

『98年への回顧』(Di Balik 98)ポスター。(film Indonesiaホームページよりhttp://filmindonesia.or.id/

同作品は1998年、スハルト大統領退陣の声が高まるなか、学生デモに参加するトリサクティ大学の女子学生を主人公に、同居する姉夫婦と彼女の恋人である中華系の学生の目線からジャカルタ大暴動、スハルト大統領辞任までを描いたものです。

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