よりどりインドネシア

2019年08月24日号 vol.52

藤山一郎さんのインドネシア(脇田清之)

2019年08月24日 15:32 by Matsui-Glocal

歌手で声楽家、作曲家、指揮者でもある藤山一郎さん(本名・増永丈夫、1911 ~1993年。1992年に国民栄誉賞を受賞)は、太平洋戦争中、二度にわたってインドネシア各地で活躍しました。

今年で太平洋戦争から74年が経ちました。当時一番若手と言われた戦地体験者も、すでに90歳代半ばとなりましたが、藤山さんの歌声は今も耳に焼き付いています。

戦時下における歌、音楽による宣撫活動、コミュニケーション・ツールとしての歌の力、効用の大きさを改めて感じます。

慰問団の舞台風景。中央でアコーディオンを弾き歌う藤山さん(出典:藤山一郎南方従軍記 歌声よひびけ南の空に)。

「藤山慰問団」のころの藤山さん(出典:日本経済新聞社「私の履歴書」)。

●読売新聞社主催「南方慰問団」として

藤山さんの最初のインドネシア訪問は 海軍占領地区将兵への慰問のため、1943年(昭和18年)2月から7月にかけて、約6ヵ月の間、ボルネオ(カリマンタン)のパリクパパン、サマリンダ、タラカン、セレベスのマカッサル、ケンダリ、そのあとチモール島のクーパンを経てジャワ島の各地の巡回でした。藤山さんのほか、歌手の菅沼ゆき子さん、浪曲の早川燕平さん、徳川夢声さんの弟子の漫談家吉井さん、奇術師、藤山さんの楽団と約20人でした。

往路は日本郵船の客船・鎌倉丸に乗りましたが、魚雷攻撃を避けながらのジグザグ操船、海の藻屑になるかと覚悟をしながらの危険な航海でした。藤山さんが6月中旬帰国の際、鎌倉丸は、いつまで待っても来ませんでした。すでに4月28日に撃沈されていたのです。一行は他船に便乗して帰国しました。

ちなみに、ちょうど同じ時期、2009年7月に国民栄誉賞を受賞した大女優・森光子さん(1920年5月9日~2012年11月10日)も、1943年7月から約3ヵ月間、慰問団の一員として、マカッサルを拠点に、インドネシア各地を巡回しています。森さんのマカッサル滞在中には、指定されていた防空壕が空襲の直撃を受け、入り遅れて危うく命拾いをしたそうです。マカッサルは、1943年中頃から空襲が激しくなります。

藤山さんの海軍占領地域での慰問の間、サマリンダでは、華僑系の音楽家との交流もありました。現地で流行していた歌「ブンガワン・ソロ」(Bengawan Solo)を教えてもらい、後日、この歌を日本で歌い、たちまち日本でも流行して、日本人に最も親しまれるインドネシアの歌になりました。

将兵の慰問が目的でしたが、海軍当局は、現地の人達との交流は「親善のため役立つ」として尽力してくれたと、藤山さんの南方従軍記に記されています。

●海軍嘱託、海軍少佐(のちに中佐)として再びマカッサルへ

二回目の訪問では、セレベスの海軍民政府から「増永丈夫氏を再度派遣されたし」という要請が海軍省の南方政務部にあり、藤山さんは海軍嘱託として再びマカッサルへ向かいます。南方慰問団の実績が評価されたようでした。慰問団はボランティアでしたが、今度は正式な海軍嘱託(少佐待遇)としての赴任でした。すでに人気歌手として活躍していたので、年俸1800円を月俸と間違うほどの落差でしたが、藤山さんに迷いはありませんでした。

この続きは1ヶ月無料のお試し購読すると
読むことができます。

関連記事

ロンボクだより(24): バヤン地区の手織り布(岡本みどり)

2019年10月08日号 vol.55

いんどねしあ風土記(6): インドネシア映画からみた独立史探訪 〜東ジャワ州スラバヤ~(横山裕一)

2019年10月08日号 vol.55

スラウェシで綿花栽培に挑んだ宮地貫道のこと ~木村達也著『宮地貫道伝 -信念と気骨の明治人-』から~(脇田清之)

2019年10月08日号 vol.55

読者コメント

バックナンバー(もっと見る)