2003年2月、筆者は、日本の大学院生(留学生を含む)とインドネシア人大学生との合同チーム計20人と一緒に、南スラウェシ州ブルクンバ県のある村に行き、約一週間、ホームステイをしながらフィールドワーク研修を行いました。
村の様子を知るために、学生たちは、村のモスクを訪問し、イスラム聖職者から村の歴史について話をうかがいました。
イスラム聖職者は、この村が1950年代後半、大変な目にあったと語りました。二つの軍隊が戦い、村がその戦場になったからです。よその軍隊がやってきたのを、地元の軍隊が戦って、追い払ってくれた、という話でした。
歴史上、この村は元々、地方反乱を起こしたダルル・イスラム側の支配下にあった村で、よその軍隊というのはインドネシア共和国軍であり、地元の軍隊というのは反乱軍のはずです。最終的に、共和国軍が反乱軍を抑えて、戦いは終わったはずです。
しかし、このイスラム聖職者の話では、その両者が混ぜこぜになってしまっていました。この村を守ってくれたのは、イスラムの軍隊(正史でいえば反乱軍)というのです。
インドネシア人大学生の一人が、イスラム聖職者の話を遮るように手を挙げ、「あなたの話は間違っている」と言おうとしました。それを察した筆者は、彼の手を遮り、「まずは話を聞こうではないか」と合図しました。
なぜなら、イスラム聖職者のその話は事実ではないかもしれないけれども、聖職者がそのように話したという事実は受け入れてほしかったからです。
そのとき、ふと、気がつきました。この村が存在し続けている理由を。
通常であれば、この村は反乱軍の村であり、共和国軍が村の住民を全員殺し、火を放って住居などを全部焼き尽くしてもおかしくはなかった村です。仮に存在し続けたとしても、国に刃向かった村として、様々な差別的扱いを受けてもやむを得なかったはずです。
でも、この村は、他の村と同じように、存在し続けています。
そこで想像しました。この村を平定したのは共和国軍だったけれども、誰かがそれをイスラムの軍だと村人に教えたのではないか、と。単に間違えただけなのか、あるいは真実を知っていながら、敢えてわざと村人に嘘を教えたのか、それは分かりません。
ともかく、それが故に、この村は、国に刃向かった村として記憶されずに、現在に至ったのではないか。そんなふうに、イスラム聖職者の語りから想像できたのです。
この広いインドネシアのたくさんの片隅で、もしかしたらこうしたたくさんの「誤解」が村を存続させ、国としてのまとまりを担保しているのかもしれません。正史とは異なる理解をしたからこそ、人々の生活は守られてきたのかもしれない、と思ったのです。
インドネシアの多様性のなかの統一は、末端にいたるまでの寸分たがわぬ正しい理解によってではなく、穴だらけのような、美しき無数の誤解によって、支えられている面があるのかもしれません。そうした現実の面白さに、インドネシアの懐の深さを感じずにはいられないのです。
(松井和久)
読者コメント