昨年末に舅の妹が亡くなりました。
ロンボク島のお葬式では、全体的に悲壮感などはほぼありません。
入口で親族の方にお悔やみを伝え、持参した米や卵や砂糖(日本の御香典にあたる)を渡したあとは、亡くなった方の顔をみて、ごはんを食べ、その場に居合わせた人と故人とは全く関係のない世間話をして帰るだけです。
行商のアイスクリーム屋がピーヒョロロと音を鳴らし、子ども目当ての風船屋もやってきます。
お葬式の脇で
そんなお葬式の雰囲気に、私は長い間なじめませんでした。アイスクリームも風船も非常識だし、ごく親しい人以外は一滴の涙も見せず、なかには笑顔さえ見せる者がいることも解せません。とても故人を悼んでいるとは思えませんでした。
あるとき、義兄に聞きました。「なぜお葬式で誰も泣かないのか。悲しくないのか」と。
「悲しいよ。だけど、神が天に召したんだ。いつまでも悲しみに浸りはしないさ」
義兄は仕方がないと投げやりになっているようすではありませんでした。ただ神の差し出す運命や流れのようなものをうけとめているだけ・・・。
人生はどこまでいっても神の御計らいの連続であり、自分の力でどうこうできることなぞ何もないと、細胞レベルで染み付いている人たち。
それに対して、「目標を設定して、それに見合う努力をし、それを達成すること」を繰り返してきた私。
どうしようもなく異質だなあ。
しかし、ちょっと待てよ。私は、人生は自分で切り開くものだと考えてきたけれど、それでも肝心なときは神頼みをしています(笑)。
生まれる日も、死ぬ日も、今日起こる出来事も、コントロールできません。ロンボクの人々ほどではないにしろ、私も「私にはどうにもできないことがある」「すべては神の御計らいである」ことは、頭ではなく体で感じているのかもなぁ。
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結婚して5年がたった今でも、彼らの考えについていけないと感じることがあります。先日も家族より信仰が大事という話を聞き、はらわたが煮えくりかえりそうになりました。
ですが、その体感を大切にしていくと、あれだけ馴染めなかったお葬式にも、絶え間なく人が生まれ死んでいくことにも、それが(私からみると異常なくらい)自然で日常的な暮らしにも、だんだんと慣れていきました。
そう、たしかに、私の知らないうちにもあらゆる場所で、人は生まれて死んでいくのです。
お葬式で笑顔をみせる義妹
舅の妹のお葬式で、娘や姪たちと一緒に駆け寄って、アイスクリームを買って笑いながら食べたとき、私も少しずつ、ロンボクの人々っぽくなったなとなんだか嬉しく思いました。
(岡本みどり)
読者コメント
匿名
一般公開 義妹さん、いい笑顔ですね。