よりどりインドネシア

2017年07月22日号 vol.2【無料全文公開】

首都移転論議、再び(松井和久)

2020年01月18日 22:30 by Matsui-Glocal

インドネシアの首都をジャカルタから他の場所へ移す議論が再び起こっています。ジョコ・ウィドド大統領が首都移転に関する調査を国家開発企画庁(バペナス)に指示したのを受けて、同庁のバンバン・ブロジョヌゴロ長官は7月5日、2017年中に首都移転に関する調査を完了して結果を公表し、2018年に首都移転に関する準備を開始することを明らかにしました。

ジャカルタからの首都移転を行う背景には、ジャカルタの都市機能の低下、とくに交通渋滞の悪化や、過度の人口集中(全人口2億人のうち3,000万人がジャカルタ首都圏に居住)に加えて、ガソリンなど燃料の浪費が挙げられています。

すなわち、ジャカルタ周辺のブカシ、タンゲラン、ボゴール、デポックなどの居住者が毎日ジャカルタ中心部まで車で往復通勤する場合、計算上は、毎年1人当たり65億リッターのガソリンを消費し、計30兆ルピアを浪費していることになります。現在インドネシアは、精製設備の不備から、ガソリンのほとんどを輸入に依存しています。しかも、その輸入量が年々増加し、経常収支を悪化させる要因になる(その結果、通貨ルピアが弱くなる)懸念を強めます。政府は、単なる渋滞緩和や都市としての持続性だけでなく、マクロ経済安定という観点からも、首都移転の可能性を考えていることが分かります。

首都移転は多額の費用を必要とします。バペナスの試算では、年間5〜10兆ルピアを必要とし、それが10年かかると見ています。以下では、これまでにインドネシアでどのような首都移転論議が行われてきたか、振り返ってみます。

●独立すぐにジョグジャカルタへ遷都

実は独立後すぐ、インドネシアの首都は一時的にジャカルタからジョグジャカルタへ移されていました。インドネシアが独立を宣言した後、旧宗主国オランダの再侵攻の脅威が高まったことから、スルタン・ハメンクブウォノ9世の進言を受けて、1946年1月4日、ジョグジャカルタへの首都が移転されました。その後、オランダとの戦いやオランダの傀儡であるインドネシア連邦共和国の成立・解散を経て、1950年8月17日、ジャカルタが再び首都となりました。

●スカルノが夢見たパランカラヤへの首都移転

こうした独立時の混乱期を除くと、ジャカルタから首都を移転するというアイディアが最初に示されたのは、1957年7月17日、中カリマンタン州設立式典でのスカルノ大統領(当時)の演説でした。演説の中で、スカルノ大統領は、「中カリマンタン州の州都パランカラヤを首都にする」という考えを表明しました。

その理由として、(1) カリマンタン島は国内最大の島(注:当時のパプアはまだインドネシア領ではなかった)、(2) ジャワ中心主義をなくす、(3) ジャカルタやジャワの開発はオランダのコンセプトで作られたもの、といった点を挙げました。インドネシア自身のコンセプトで首都を作りたいという意欲が示されたわけです。さらに、ジャカルタのチリウン川のように、パランカラヤにはカハヤン川という大きな川があり、川を生かした水運交通と陸上の道路交通との組み合わせによる都市を構想していたようです。

実際、パランカラヤを含むカリマンタン島の南半分は安定した台地で、海から遠く、火山がなく、地震も極めて少ない場所です。日本と並ぶ地震大国のインドネシアで、地震がなく一定の平地が確保できる場所は、それほど多くはないのが現状で、その意味でも、パランカラヤが首都の移転先として注目されるのは当然かもしれません。

スカルノはソ連から技術者を招聘し、泥炭地の上を走る総延長34キロの道路を建設しました。今でも、この道路は「ロシア通り」とも呼ばれており、建設後50年経った今でも道路状態は良好です。実際に、パランカラヤでの首都建設構想にソ連がどこまで関わったかは不明ですが、パランカラヤ市街地の整然とした道路配置や十分に空間を確保して建てられた建物など、明らかにジャワなどの地方都市とは違う様相を呈しており、ソ連側からの何らかの支援があったことが示唆されます。

●その後の首都移転論議

スカルノのパランカラヤへの首都移転構想は、1960年代前半の経済悪化・国家財政破綻のなかで、実現性を検討することなく、消えていきました。東西対立、冷戦下の厳しい状況の中で、スカルノに代わったスハルトの時代の前半では、中央集権が強まり、首都移転の議論はほとんど見られなくなりました。

そんななか、1989年に、スハルトはジャカルタ郊外のジョンゴル地区に首都を移転する構想を示しました。スラバヤ市の約2倍の面積のあるジョンゴル地区の3万ヘクタールは当時、スハルトの次男のバンバンが所有しており、これが成功すれば、バンバンは国内最大の都市開発企業家となるはずでした。

また、ジョンゴル地区に近いセントゥル地区にも、バンバンのほか、スハルトの三男のトミーや他のスハルト親族が土地を保有し、1997年頃から本格的に開発する予定でした。しかし、これらもまた、1998年の通貨危機で実行不能となり、ジョンゴルやセントゥルへの首都移転の話は消えていきました。

そして、2010年、ユドヨノ大統領(当時)は、トルコやマレーシアでの遷都の例を念頭に、ジャカルタからの首都移転の議論を再開させました。ユドヨノは、(1) 現状維持だが、政府機関を全面的に見直す、(2) ジャカルタを首都のままとしながらも、中央政府を地方へ移転させる、(3) 新首都を建設する、という3つのオプションを示しました。しかし、ユドヨノの在任中に具体的な動きは起こりませんでした。

●言うは易く、行うは難し

現在、政府が構想している移転先は、国土のほぼ中央に位置し、地震のほとんどないカリマンタン島で、なかでも中カリマンタン州の州都パランカラヤが最有力とみなされています。ほかには、東カリマンタン州や南カリマンタン州も検討対象となっています。

他方、国土の中央に位置するという観点から、スラウェシ島にある南スラウェシ州の州都マカッサルや西スラウェシ州の州都マムジュなども、それぞれ移転先候補として名乗りを上げようとしています。

首都移転の論議を行うのは容易ですが、実際に実施するとなると、様々な困難が予想されます。なかでも、首都ジャカルタに務める80万人の公務員をどのように移動・確保するか、首都移転に合わせたインフラ整備をどのように進めるか、移転後のジャカルタをどのように位置づけるか、費用は官民パートナーシップ(PPP)で行うとしているがその資金調達の目途をどう立てるのか、など、様々な要素を考える必要があります。

外の目から見ると、もし首都移転が新首都建設という形で実施されるならば、国内外の建設業界にとっては一大ビッグプロジェクトとなることは間違いありません。首都移転構想の裏に中国がいるのではないかという憶測さえ、報じられています。

(松井和久)

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