シンガポールから最も近いリゾート地として知られ、また重要な工業地域でもあるリアウ諸島州バタム島。同島の最も栄えた商業地区はかねてより「ナゴヤ」と地元住民に呼ばれてきた。つづりも読みも日本の愛知県名古屋市と同じ「NAGOYA」である。単なる偶然なのか、なぜ「ナゴヤ」と呼ばれるようになったのか、その由来を探る。
●バタム島の「ナゴヤ」
バタム島(赤印部分が「ナゴヤ」地区)
バタム島はシンガポールからフェリーで約50分と、わずか20キロの海峡を挟んだ南シナ海に位置する。バタム島とその隣接する島々を含むバタム市は、人口約120万人のリアウ諸島州最大の都市である(州都は同島隣のビンタン島タンジュンピナン市)。シンガポールなどからの観光リゾート地であるとともに工業地域であることを反映して、地元のムラユ民族をはじめジャワ民族、スマトラ島のミナンカバウ族、バタック族、スラウェシ島のブギス族、さらに中華系などインドネシア各地から多民族が集まっている。
かつてバタム島は、シンガポールからの海の玄関でもあるフェリー港を有するバタムセンター地区が中心だったが、1970年代以降、工業地域整備が進むにつれて商業を中心とした繁華街は北西約5キロの地域、現在の「ナゴヤ」に移っている。直接の要因ではないと思われるが、中華系住民が位置の吉凶を占う風水によると、バタムセンター地区はバタム島に横たわる龍の尾や腹に当たり、龍の頭に当たる「ナゴヤ」のほうが縁起の良い地区だという。このためか「ナゴヤ」には広大な中華系の商店街もある。
バタム島「ナゴヤ」地区(リアウ諸島州)
「ナゴヤ」地区に入ると、「ナゴヤヒルショッピングモール」「ホテルナゴヤプラザ」など「NAGOYA」の文字が記された看板が至る所で目に入る。さらには道路標識や乗り合いバスの行き先表示も同様で、日本人にとっては不思議な感覚になるが、明らかにここがインドネシアにある「ナゴヤ」だと認識できる。
ショッピングモールやホテルに掲げられた「ナゴヤ」(NAGOYA)の文字
しかし、実は行政上の地区名は「ルブックバジャ」(Lubuk Baja)で、公式な地図上でも「ナゴヤ」とは出てこない。「ナゴヤ」はあくまでも地区の通称でしかない。それにも関わらず、上記のように地元住民は「ルブックバジャ」よりも「ナゴヤ」を日常的に使用しているのが実情だ。ではなぜ「ナゴヤ」と呼ばれるようになったのか?
●日本占領期が由来か?
「バタムに来て20年になるけど、当時からここはナゴヤだったよ」
「ナゴヤ」の大通りなどで屋台を営む人々に名前の由来を聞いても、皆一様に「分からない」という。彼らの多くはスマトラ島の西スマトラ州などから長年出稼ぎに来ている人たちだった。巨大なナゴヤヒルショッピングモールと大通りを挟んで東側に広がる中華系商店街で聞くと、ある店主がこう話した。
「戦時中、日本軍が来てナゴヤと名付けたと聞いている」
他にも由来について答えられる人の多くが旧日本兵によるものだという。事実、第二次世界大戦時に旧日本軍がバタム島に駐留した記録はあり、敗戦後、10万人余りの日本兵がバタム島の隣、ビンタン島に抑留されるなど、日本軍と関わりの深い地域でもある。
バタム島に進出している日系電子機器メーカーの現地法人社長で、バタム日本人会の地頭仁会長によると、工場建設のため初めてバタム島に赴任した1990年にはすでに「ナゴヤ」が存在していて、当時、地元住民から「戦時中にバタム島に駐留した名古屋出身の日本兵が名付けた」という由来を聞いたことがあるという。
「その地元住民の父親によると、戦時中、すでにナゴヤと呼ばれていたということです」
このように地元住民の間では戦時中、日本兵によって名付けられた由来が大勢を占めている。真偽を決定づける記録がないため断言はできないものの、バタム日本人会会長が聞いた話のように、戦時中にナゴヤと呼ばれていた可能性はあったかもしれない。しかし、現在バタム島で呼ばれる「ナゴヤ」の直接的な由来は、どうやら戦時中に名付けられたものとは別である可能性が高いようだ。それはインドネシア独立後のバタム島の開発と深く結びついていた。
(以下に続く)
- バタム島開発と「ナゴヤ」由来の真相
- 元従業員の証言と一通の手紙から
- 名古屋から「ナゴヤ」へ
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