よりどりインドネシア

2019年10月08日号 vol.55

スラウェシで綿花栽培に挑んだ宮地貫道のこと ~木村達也著『宮地貫道伝 -信念と気骨の明治人-』から~(脇田清之)

2019年10月08日 20:19 by Matsui-Glocal

戦前、北スラウェシの主要産業であった椰子栽培業者がコプラ価格の低迷に喘いでいたころ、現地で棉花栽培を試み、事業化を目指して奔走した宮地貫道についてご紹介します。

北海道の開拓事業の現場監督を経験したあと、札幌農学校(北海道大学の前身)を卒業します。その後、東京、上海へ拠点を移し、日本と中国の架け橋として活躍しました。還暦を過ぎてからは本業の農学の技術を生かしてスラウェシで綿花栽培に挑みます。しかし太平洋戦争に入り綿花工場は米軍の爆撃を受けて灰燼に帰しました。

晩年の宮地貫道

●生い立ち

宮地貫道(本名:利雄、1872~1953)は土佐の宮司の家柄を継ぐ下級士族の家に生まれました。一時は軍人を目指し、日頃兵書を読み、戦略を研究するのが好きだったそうです。当時北海道では開拓事業が行われていて、本州から多数の移住民が送り込まれていました。貫道も一家の都合により札幌に移り住み、開拓事業の現場監督の役に就きます。

一般の人達より2~3年遅れますが、1897年に札幌農学校を卒業します。在学中に日清戦争(1894~1895)がありました。この大きな歴史の流れが貫道のその後の人生に大きな影響を与えたようです。

在学中は全期間を通して、当時教授を務めた新渡戸稲造の薫陶をうけました。因みに卒業論文は『北海道における亜麻作と気候および土壌の関係』でした。

●日中の架け橋として

貫道は農学校を卒業してから、東京、上海へと拠点を移します。中国語を学び日・中翻訳事業にも関わっていたようです。1902年(明治35年)頃刊行された『政法類典』の共訳者となっています。

1902年に上海に翻訳・出版を行う作新社を設立し、その社長として、数多くの和書を中国語に翻訳し、出版しました。1914年には上海日日新聞を創刊し、上海における邦字三紙の一つとして、社主として、また自らも健筆を振いました。

1931年(昭和6年)9月には満州事変が、また1932年(昭和7年)には上海事件が勃発します。1931年1月19日の上海日日新聞には、貫道が陸戦隊で支那事情について講演した記事が掲載されています。日支(日本-中国)国民性の相違について、「日本は少しも支那を知らず、且つ知らないことすら知っていない・・・国家的に発達した日本は、個人的に発達した支那の国民性をよく諒解することが緊切である・・・」。意思疎通の難しさ、外交関係改善の方策などを説いています。

しかし戦況が進むにつれて、講演や新聞論説で主張した貫道の主張が国策と合わず、貫道は孤立を深めたようです。貫道の活動も妨害されるようになります。新聞論評の執筆を中止し、講演活動も止めていますが、軍部から何らかの指示があったのかも知れません。

 

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