よりどりインドネシア

2024年01月08日号 vol.157

いんどねしあ風土記(52):ジャワ北海岸、秘められた歴史の街 ~中ジャワ州ラスム~(横山裕一)

2024年01月08日 12:53 by Matsui-Glocal
2024年01月08日 12:53 by Matsui-Glocal

中ジャワ州の北海岸に人口約5万人弱の田舎町がある。州都スマランと東ジャワ州の州都スラバヤのほぼ中間点に位置するラスム(Lasem)がそれだ。小規模な町にも関わらず、中心部など広範囲に今も古い中国様式の家屋が立ち並び、かつて華人街として栄えていたことが窺える。

しかし、不思議なことに現在この町では華人住宅街の規模ほどには華人の姿を見かけることがない。この謎の背景には歴史上、世界を席巻したある交易物の存在があった。ジャワ島北海岸での華人街盛衰史の痕跡をめぐる。

●華人のいない旧リトル・チャイナ

中ジャワ州ルンバン県ラスムは州都スマランから車で3時間、ジャワ島北海岸沿いに東へ向けてクドゥス、パティ、ルンバンに続く場所に位置する。田舎町とはいえ、東西を貫く街道はスマランとスラバヤを結ぶだけに、大型トレーラーやトラックが頻繁に行き来する。

ラスム中心部

地図上赤文字がラスム

ラスムには数多くのプサントレン(イスラム教寄宿学校)があることから、「コタ・サントゥリ」(敬虔なイスラム教徒の街)とも呼ばれている。町の中心部にもそれを象徴するように巨大なモスク、ジャミ・バイトゥルラフマン寺院が聳え立っている。

また、ラスムはジャワ伝統のろうけつ染め、バティック製造でも有名である。商店街にはバティック販売店が何軒かあり、その近くには工房がある。工房では色を染め分けるために布地のデザインに沿ってロウを付着させたり、染め上がった布地を高温の湯に浸けてロウを洗い流す女性たちの姿が見受けられる。薪で炊いた大釜から湧き立つ湯気のなか、女性たちの額に浮かぶ玉のような汗が印象的だ。ラスムのバティックの特徴は、モチーフに海産物、特に海ブドウが多用されていることだという。北海岸の町らしく漁業も盛んな地域であることを反映している。

バティック工房

ラスム・バティックの特徴的なモチーフは海ブドウ

このように、現在でこそラスムは敬虔なイスラム教徒の街、バティックの街として有名だが、かつては「リトル・チャイナ」と呼ばれるほど華人街として発展した町だった。それを裏付けるように街の中心部にある巨大なモスクの南側に広がるカラントゥリ地区には中国様式の住宅街が広がる。特徴的なのはインドネシアの他地域の華人街とは異なり、高い土塀が家屋を取り囲んでいることだ。まるで中国本土の街を歩いているようにも感じる。門には瓦屋根が設けられ、木戸などには縁起の良い言葉が漢字4文字で記されている。土塀越しに奥に見える家屋の瓦屋根の高さなどから、大邸宅であることが想像できる。

カラントゥリ地区の華人街

現在、カラントゥリ地区の中国様式の住宅街は観光用に整備され、石畳の路地や街灯、ベンチなどが施されている。ベンチには観光客だけでなく地元住民も座り、憩いの場として利用されている。現地でよく耳にするのが、「ラスムはジャワで最初に中国人が渡来してきた地だ」ということだ。ラスムが中国人渡来最初の地であるか、歴史的な真偽は定かではないが、そう思えるほど華人街の規模が広大でかつての繁栄ぶりが窺えるからであろう。

街の東西を貫く街道から南へ伸びた商店街の中にも、古い中国様式の大邸宅がある。門には「黄府」(黄邸宅)と記されている。1813年、わずか15歳で中国から渡来したウイ・アム(黄闇)がジャワ民族であるラスムの女性と結婚し、1818年に建設した邸宅だという。その後子孫らはタピオカ販売や馬車業などを営み、インドネシア独立後にはウイ・アムから7代目を数えたと記録されている。華人を含めた共産主義者狩りで全土を揺るがすきっかけとなった9・30事件が起きた1965年以降、この邸宅は空き家が続き、現在はカフェやホテルとして利用されている。家屋内部は当時の様子が保存されている。修復されているが、高い天井や広々とした部屋の造りからも豪邸だったことが窺える。

「黄府」。現在、中庭はカフェ、母屋裏はホテルとして使用されている。

「黄府」のカフェは夜、憩いの場として大勢の地元住民らで賑わう。しかし、客はほとんどがジャワ民族で華人はいない。カフェに限らず、前述の豪邸が立ち並ぶ中国建築様式の住宅街を含め、ラスム全体で華人を見かけることは不思議なことに滅多にない。

カラントゥリ地区の華人住宅街には中華料理店が一軒ある。店内の壁や天井は板張りの中華風の造りである。主人はラスムの地に来て5代目の華人。店を開いて約10年だが、店に来る華人の客は観光客がもっぱらだという。ラスムに住む正確な華人の数はわからないと前置きした上でこう話した。

「多分、華人はもう何百人かしかいないと思います」

スマランとスラバヤを結ぶ街道の北、海岸寄りのガンビラン地区にも中国建築様式の住宅街が広がっている。白塗りの高い土塀や瓦屋根のある門構えなどは同じで、大規模な倉庫も見受けられる。しかし、この地区の建物は塀が崩れたり、家屋の一部が朽ちるなど老朽化が目立つ。言い方は悪いがゴーストタウンのようでもある。カラントゥリ地区の中国様式の住宅街が観光用に整備されているのとは対照的である。

老朽化の目立つガンビラン地区の華人街

この一角にある道端で、ジャワ伝統の冷たいデザートを売る女性がいた。彼女はジャワ民族で近所に住んでいるという。この地区の中国様式の住宅街が荒廃している理由を次のように話した。

「華人はもう皆いなくなってしまったんです。商売のため他の街へ移ったり、残った人も高齢で亡くなったり。あそこの家でも旦那が亡くなって、奥さんは(他の町に住む)子供のところへ身を寄せて移っていきました」

空家の華人住宅前で屋台を開く女性

かつてリトル・チャイナとまで呼ばれ栄えた華人街も、現代に入ったある一定の時期までに華人たちの大移動により荒廃の一途を辿ったようだ。華人住宅の門前でデザートを売る女性は、この家も家主が約10年前に亡くなってから空き家だと話した。門扉の上にある瓦屋根が日陰をつくり、女性と簡易に開いた屋台を強い日差しから守っていた。

このようにラスムでかつて栄えた広大な華人街は華人の流出により、現在は華人街跡の様相を呈している。現在。中ジャワ州でも大都市から程遠い田舎町の一つであるラスム。ここで繰り広げられた華人街の栄枯盛衰の歴史には、実はかつて世界史をも揺るがしたある交易物が大きく関連していた。それはアヘンの密輸だった。

(以下に続く)

  • ラスム華人街盛衰史
  • アヘン密輸の痕跡「ラワン・オンボ」
  • ラスムの華人街にて
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