よりどりインドネシア

2022年10月08日号 vol.127

いんどねしあ風土記(39) 東ティモール独立20年(後編):望郷と逡巡の元民兵たち ~東ヌサトゥンガラ州・アタンブア(西ティモール)~(横山裕一)

2022年10月08日 12:37 by Matsui-Glocal
2022年10月08日 12:37 by Matsui-Glocal

独立かインドネシア残留か、東ティモール独立の是非を問う1999年の住民投票、そして、独立が決まった後のインドネシア併合派民兵による騒乱と大量の西ティモールへの避難民大移送から23年が経つ。独立した東ティモールとの国境近くにあるインドネシア東ヌサトゥンガラ州アタンブア周辺には、今でも多くの元併合派民兵や併合を支持した元東ティモール住民が暮らしている。23年前をいまだ引きずり続ける人々の現在の暮らしとその思いを報告する。

●西ティモールへ

「大量の黒い煙がディリの街で高く立ち上っている。暗い、暗い・・・鼻を突く煙の匂い。ディリがこんなことになるなんて。私は夢を見ているのだろうか・・・いや、神よ、これは現実だ・・・」

これは23年前の1999年9月10日、当時大学生だった元東ティモール人による手記である。同年9月4日、国連による東ティモールでの住民投票の開票結果として独立が事実上決まると、反対するインドネシア併合派民兵が自動小銃や手榴弾を手に街を破壊し始めた。騒乱は当時の中心都市ディリをはじめ東ティモール全土に広がり、1,000人以上の死者を出したといわれている。

手記の筆者は当時、東ジャワ州マランにある大学に通っていたが、住民投票に向けて4月から休学してディリに戻ってきていた。彼の自宅は、父親がインドネシア国軍の陸軍兵士だったことから、当時ディリの陸軍関係者用住宅街にあったが、ここにも民兵が来て住宅を焼き払うと脅したという。このため西ティモールへすでに避難している家族、親戚の元へ避難しようと、ディリの街を移動する際の描写が冒頭の手記である。

「ディリはメチャクチャに荒れ果て、数人の民兵が天に向けて銃を撃っていた。道路沿いの家は焼かれ、炎が燃え盛っていた」

彼は避難民用のトラックがなかなか出発しないため、偶然居合わせた華人夫婦の小型トラックに乗せてもらい、西ティモールへと移動することにした・・・。

騒乱から23年、独立から20年を迎えた現在の東ティモールの首都ディリからは、国境近くの街であるインドネシア領の西ティモール・アタンブア、さらには東ヌサトゥンガラ州の州都クパンへと結ぶ乗合長距離バスが頻繁に通っている。今回、このバスで彼が23年前に避難した行程を辿ることにした。この道のりは前編で紹介した『東ティモールの声』元編集長がトラックの荷台に隠れながら辿ったものと同じルートでもある。

ディリから国境を越えて、インドネシア・アタンブア(赤印)へ(Google Mapsより)

東ティモールの首都ディリを出るとバスは海岸沿いを西へと向かう。約20年前、取材で何度か通ったことがあるが、現在は見違えるほど道幅も広く、綺麗に舗装されている。時折、荷台に人を乗せたトラックとすれ違う。現在でもトラックはかつての避難民の移送時と同じように、時に人の移動手段にもなっている。

ディリから国境へと向かう海岸線の道路

荷台に人を乗せたトラック

冒頭の手記を書いた当時大学生は、東ティモール西部のリキサ地区マウバラまで来た時、併合派民兵による検問を受ける。検問は数カ所あったが、ここが一番厳しかったという。民兵から身分証明書の提示を求められ、彼は高校時代の学生証を手渡した。大学生だとわかると独立活動家と疑われる可能性が高かったため、事前に大学の学生証は靴の中に隠しておいたという。30分近く時間を要したが、無事検問を通り抜ける。各検問所では避難民を運ぶトラックなどが長い列を作っていたという。

リキサ地区の民兵組織「ブシメラプティ」(紅白の鉄)は1999年1月下旬、インドネシアのハビビ大統領が独立の是非を問う住民投票の実施を認めたのち、すぐに組織された。翌2月上旬にリキサで取材した時、民兵たちはまだ弓矢や槍、刀剣といった伝統的な武器による武装のみだった。しかし、その後まもなく国軍から自動小銃などを支給され、独立派に対する威嚇や暴力を強めていった。4月にはリキサ地区の教会に逃げ込んだ独立派住民約200人が民兵の手によって虐殺されている。検問で手記の大学生に対応した民兵2人もそれぞれ自動小銃を肩にかけていたという。

結成当初の併合派民兵「ブシメラプティ」(1999年2月撮影、提供Dinda氏)

リキサ地区を抜けると再び海岸線を走り続け、その後、峠を越えると東ティモールとインドネシアの国境の街、モタアインに到着する。現在は、東ティモールと書かれたモニュメントのある施設で出国手続きをとり、国境には白い橋が架けられていて、インドネシアに入国する。

国境の街モタアイン。国境に架けられた橋(写真上)とインドネシアへ入るゲート(写真下)

2000年、国連の暫定行政機構(UNTAET)が東ティモールの独立まで支援していた時期にモタアインより南部にあるマリアナの国境を取材したことがあるが、そこでは国境の川を挟んで手前に国連旗、橋の向こう側にインドネシア国旗がたなびき、多国籍平和維持軍のオーストラリア兵とインドネシア国軍兵がそれぞれ小銃を構えて見張る物々しさだった。当然ながら現在の国境では兵士の姿を見ることはなく、関所の一つであるモタアインものどかな雰囲気である。

西ティモールに入った手記の大学生はその後、アタンブアの北にある海岸沿いの街アタププへ辿り着き、無事親戚とも再会する。当初、彼は数日間の避難と考え、飼い犬2匹もディリの自宅へ置いてきたままだった。しかしその後23年間、彼はアタププやアタンブアのある西ティモールで暮し続けることになる・・・。

東ティモールの騒乱でインドネシアの西ティモールへ移送された避難民は25万人以上いたとされている。東ティモールの中部から西部の住民は陸路でアタンブアなどの境界近くの地域へ、また東部の住民は海路、空路でクパンへとかなり計画的に避難民移送が進められた。騒乱の危険から逃れる者、民兵に脅され強制的に連れてこられた者など様々だったという。そして20年余りが経ち、今もアタンブアなどには多くの元避難民たちが居住している。

●避難民のその後

「現在、公式には避難民はもういないとされています。しかし、市民団体など人権活動家は、避難民はまだいる、と認識しています」

人道支援団体CIS Timor アタンブア支部 アナト・モレイラ副支部長

こう話すのは、アタンブアの人道支援団体で元東ティモール人の難民支援活動を続けている、アナト・モレイラさん(44歳)だ。実は23年前のディリからの避難民として手記を書いた元大学生がアナトさん本人である。

大量の避難民が発生した当初、各避難民キャンプでは武装した民兵による独立派住民狩りが行われ、死者も出したという。このため、アナトさんらは独立派住民を早朝キャンプからこっそりと抜け出させ、トラックや船で東ティモールへ帰す手助けをしたことも何度かあるという。

東ティモール独立翌年の2003年、インドネシアのメガワティ政権は西ティモールにいる避難民たちに対して、インドネシアか東ティモールか国籍を選択する5つのプログラムを実施した。5つのプログラムとは、インドネシア国籍を選んだ者に対しては、①スラウェシ島やカリマンタン島への移住、②東ヌサトゥンガラ州内の西ティモール以外への移住、③西ティモールでの居住、の居住地選択だった。また、東ティモール国籍を選ぶ者は、①帰国か②和解をするというものだった。①の帰国とは独立派住民に対するもので、②の和解とは元民兵など併合派住民が対象で、独立派住民と和解したうえで帰国するという意味が含まれていた。

その後、インドネシア国籍を選択し、西ティモールでの居住を選んだ住民たちのうち、約30%が避難民キャンプのあった場所で引き続き生活を続け、40%が政府や市民団体が支援した居住地に移り住み、残り30%は元実業家や公務員、警察官、軍人といったインドネシア政府機関の従事者だったことから自らの財力で家を建てた。

このように避難民に対して国籍を選択させ、居住地を決めさせたことで、インドネシア政府としては、避難民問題は終了し、「避難民はもういない」という見解を示しているという。しかし、自力で新居を構えた者を除いた残り70%にあたる「元避難民」はほとんどが東ティモール在住時は農民だったため、西ティモールで新たな仕事を得るのも困難な貧困層になっていた。このため実質的に「避難民はまだいる」というのが市民団体など人権活動家からの見解である。しかし難民問題は経済的な問題だけではない、とアナトさんは指摘する。

「問題はインドネシア国籍を選択した避難民のなかに、東ティモールに戻りたいと希望する人が実はまだたくさんいることです」

この問題には東ティモールの独立に賛成か反対かというだけの単純なものではない背景もあるという。それは歴史的、地域的な経緯も絡んでいる。元来、東ティモールとインドネシアとの国境周辺は、東ティモールと西ティモールという区分はなく、ティモール島中部の山岳地域として民族的には文化や言語が共通した地域で、家族や親戚も現在の国境を跨いで各地に分布していた。しかし19世紀半ば、ポルトガルとオランダによって植民地の境界が設けられたことから分断が始まり、インドネシアの東ティモール武力併合で同じ国になったものの、東ティモールの独立で再び国境で分たれることになったという。

また、東ティモールから西ティモールへの避難民は1999年が最大とはいえ、過去には他に3回も大規模な避難があったという。1911年、ポルトガル植民地政府に対する東ティモール人の反植民地戦争時、また1943年の日本軍侵攻時、そして1975年のインドネシア国軍の軍事侵攻時の3回である。過去に避難が繰り返されるなかで、元々同じ文化圏であった地域で東ティモールから西ティモールへの移住も度重なって起きているという。

このため1999年の騒乱時、東ティモールからの避難民の中には、西ティモールの家族や親戚を頼ってきた者も多く、独立後の東ティモールに生活基盤を失って帰るに帰れなくなった住民も多く存在しているという。国境を挟んでの民族的な生活文化圏の存在は、現在の東ティモール国民の中にも親戚などが西ティモールに住んでいる場合があり、独立後も国境を越えて往来する者が多いという状況からも裏付けられる。

しかし、インドネシア国籍を選びながらいまだ東ティモール帰国を望む者が多くいるのはなぜか?アナト氏によるとその答えは、過去の自らの行為にいまださいなまれ続けている元民兵を含めた併合派住民たちの心の中にあるという。

(以下に続く)

  • アタンブア2022、避難民たちは今
  • マンゴーの樹の下で~ある元民兵の想い
  • アタンブアの教会にて
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