よりどりインドネシア

2022年10月08日号 vol.127

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第49信:ガドガド・ホラーはイスラームをどのように描いてきたか ~ガドガド・ホラー総まとめ編~(轟英明)

2022年10月08日 12:41 by Matsui-Glocal
2022年10月08日 12:41 by Matsui-Glocal

横山裕一様

前回第47信にてお知らせしたように、9月1日に日本へ本帰国いたしました。これまで一時帰国では時々帰ってきていたものの、日本の実家へ腰を据えるのはちょうど20年ぶりです。まずは転入届や国民健康保険の手続き、続けて部屋の大掃除やらなんやらで、ドタバタしていましたが、ようやくここ数日余裕が出てきました。横山さんのように現地で観たインドネシア映画の最新作をこの連載で論じられなくなったのは本当に残念なものの、その分、距離を置いてインドネシア映画を冷静に見ることができるようになったと前向きに考えたいものです。今後は時間軸と空間軸の双方を念頭に置いて、より長い射程で様々なインドネシア映画を遠く離れた日本から縦横無尽に論じてみたいと思います。

ところで、前回までは自分の原稿に集中するあまり、第44信以降の横山さんのホラーものについての感想や考察に充分コメントしてきませんでした。インドネシア映画を代表する一大ジャンルとしてのガドガド・ホラー論に一区切りをつけるうえでも、遅まきながらコメントを返しつつ、ガドガド・ホラー発展史、さらには総まとめを今回はおこないたいと思います。

実のところ、第47信で言及済みの『悪魔の奴隷2:聖体拝領』(Pengabdi Setan 2: Communion)を本帰国前にジョコ・アンワル監督や出演者たちと一緒に鑑賞、さらに一緒に写真まで撮ってもらうという、このうえない僥倖に恵まれ、しかも作品の完成度が私の予想を上回る素晴らしいものでしたので、本来ならば同作を今回は論じるべきです。しかし、同作は多くの謎を残したままで終わるという、例えるならば『スター・ウォーズ エピソード5 / 帝国の逆襲』のような作品でもあるので、来年以降の『悪魔の奴隷3』公開後に改めてまとめて論じられればと思います。ジョコ・アンワルが以前あるインタビューで語っていた、「『悪魔の奴隷』は前日譚にすぎない」との意味がようやく理解できました。次作への期待はますます高まるばかりですが、さらなる恐怖に備えるためにも、まずはガドガド・ホラーのおさらいをしておきましょう。

『悪魔の奴隷2:聖体拝領』宣伝画像。超絶アクション映画『ザ・レイド』シリーズのギャレス・エバンス監督ほか、各紙絶賛。imdb.com から引用。

横山さんは第46信で、イスラームがホラーものにほとんど絡まない理由や絡んでもそれが便宜的に使われているだけと書かれていますが、これは私がガドガド・ホラー論を進めるうえで大いに参考にした四方田犬彦氏の著作『怪奇映画天国アジア』の主張と一部重なります。中近東のイスラーム圏で映画製作の盛んなトルコ・エジプト・イランにおいて、ジャンルとしてのホラーものは存在しない一方で、ムスリムが多数を占めるマレーシアやインドネシアにおいては事情が異なる理由のひとつは、この地域における文化的多層性が大いに関係しています。現代ジャワ文化を例にとれば、古来の土着的信仰の上にインド亜大陸のヒンドゥー文明が重なり、その後イスラーム文明が到来して古い層との融合が図られ、さらに西欧近代文明が最も上層に乗っている形です。多くの外来者はもっとも上層の表面だけを見てインドネシア社会を理解したつもりになっていますが、実際にはより深い文化的古層が存在するのであり、とくに信仰や思考様式の分野においては最も土着的な古い層こそが過去の遺物ではなく今現在も息づいている、と学術的に説明されています。ガドガド・ホラーも例外ではなく、古来の精霊や呪術への信仰が今なお社会のなかで生きており、魑魅魍魎と善悪入り乱れる精霊たちの跋扈する世界を製作者と観客の双方が信じているからこそ、これだけ多くのホラー映画が量産されているわけです。

ただ、この際問題になるの、はイスラームとの関係を製作者がどう描くか、そして観客がどう受容するかという点です。一元主義であり、世界は唯一絶対的な神アッラーの統制の下にあると解釈するイスラームを信じる人々が多数派を占めるインドネシア社会において、多神教的とも言える目に見えない精神世界に対して、映画製作者たちはどのようなアプローチをとっているのか?

ひとつには、イスラームの優位と勝利を高らかに宣言し確認する語り口があります。スハルト政権のイデオロギーとも合致した、1980年代に全盛期を迎えたガドガド・ホラー1.0の諸作品の多くがこの型であり、『悪魔の奴隷』旧版や『黒魔術の女王』旧版、『スンデル・ボロン』などはまさにこのパターンです。呪術や魔術の存在を認めたうえで、しかしそれを上回るパワーを持つのがイスラームという教えなのであり、唯一神アッラーの下に幽霊や悪霊や妖怪たちはひれ伏す。『黒魔術の女王』旧版ではイスラーム導師が政治権力である村長と並んで、『スンデル・ボロン』では同じく治安を治める警察官と並んで、魑魅魍魎に引導を渡します。こうした構図に当時のスハルト政権の在り方が投影されていることは再三述べてきたとおりです。

この型が主流であったガドガド・ホラー1.0の時期にイスラームの劣位と敗北が明確に描かれたことはまずなかったでしょう。どれだけアナーキーで荒唐無稽の極みがスクリーン上で展開されようとも、現実のスハルト反共政権のように、混乱した社会に秩序が回復された様子をラストで見せることこそが、当時の映画検閲制度の最大の目的だったからです。この意味でイスラーム導師を機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)として便宜的に登場させる作品は確かにありました。

しかし、横山さんが第46信で指摘した「『悪魔の奴隷』では物語を終わらせるためだけに、イスラム指導者を最後のシーンに突然登場させた」というのは明らかに同作内の描写に反しています。導師はその前から物語に出てきて父親に警告を発しています。何より『悪魔の奴隷』旧版では前半から中盤にかけて世俗的な主人公家族が呪術に傾倒して問題を解決しようとするもそれらが全て失敗に終わり、最終的にはイスラームが悪魔を倒し、主人公家族が真面目に礼拝してアッラーに帰依することで安心立命を得るというプロットです。導師の出番が少ないため、「とってつけた感」を非ムスリムの横山さんが感じたのは不思議ではないものの、話の筋としてはまごうことなき宣教(ダッワ)ものに他なりません。付言するならば、『悪魔の奴隷』旧版は当時絶頂期にあったダンドゥット歌手ロマ・イラマが主演した歌謡映画の一群と並べて、1980年代インドネシア社会におけるイスラーム復興現象の一例として論ずるべき作品でしょう。無論、今日的観点からこれらの作品内における直截的なメッセージの伝え方そのものを拙いと断じるのは容易いことです。しかし、宣教ものの目的に照らすならば、それらは些事に過ぎないのであり、結局のところ幽霊や呪術、さらには唯一神アッラーを信じるか信じないかという問題に収斂するのであって、「ホラー作品におけるイスラムはとってつけた感が否めない印象」と結論づけるのはやや早計ではないでしょうか。低俗で論評に値しないとかつては蔑まれてきたホラーものだからこそ、細部まで確認したうえで丁寧に論じていただきたいものです。

閑話休題。さて、イスラームに対する別のアプローチとしては、イスラームの存在そのものを物語の最初から無視する型もあります。この場合、物語にイスラーム導師が全く絡まないというだけでなく、画面内にヒジャブを着用した女性を登場させることすら忌避する例も見受けられます。これはスハルト政権崩壊以後、とりわけゼロ年代以降顕著になったパターンです。ただ、私自身この時期の作品を十分には分析しきれてないため、今後評価が変わりうることを前提とし、かつ今のところはあくまで仮の措置として、スハルト政権崩壊以降から2010年代前半頃までの諸作品をガドガド・ホラー1.5と呼んで考察を続けます。

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1.5において特徴的なのは、1.0の定番であったイスラームの優位と勝利がはっきり描かれなくなった点でしょう。呪術或いはジャワ神秘主義が物語に絡むことはあったとしても、それよりも上位の存在かつ正義の教えであるイスラームは物語を進める推進力にも、あるいは全てを丸くおさめる役割としても描かれなくなります。導師が登場しても、彼が事態を収拾させる役割を果たすとは限らず、むしろ初めから存在を無視されているかのように、非常に世俗的なインドネシア社会のなかだけで物語が完結するパターンが多いようです。製作者側に世俗的な若い新世代が参入したこと、スハルト政権崩壊後の混乱した世相においてイスラームが全ての問題を最終的に解決するという単純な物語に観客が共感しなくなったこと、何よりスハルト政権崩壊によって「ハッピーエンド」を強要していた検閲制度が機能しなくなったことなどが、このパターンが主流となった主な理由と推測されます。

とは言え、例外はもちろんあって、たとえば西ジャワ州クニンガンでの実話を元にした2002年公開『不信心者』(Kafir)は、恐るべき魔力で農村社会を恐怖に陥れる呪術師を最終的にイスラーム導師が打ち破って葬り去る物語でした。ホラーものとしては初の本格的デジタル作品というのが宣伝文句であり製作者は新奇さをアピールしていましたが、実際には同作は1970年代から1980年代にかけて活躍した映画人マルダリ・シャリフが監督したため、内容的に旧世代あるいはガドガド・ホラー1.0の価値観が反映されていました。そのためかヒットには至らず公開を終えています。

『不信心者』(Kafir)ポスター。主役を演じる「インドネシアの竹中直人」スジウォ・テジョの怪演が見もの。filmindonesia.or.idから引用。

旧態依然とした内容の『不信心者』とは対照的に、スハルト政権が崩壊してイデオロギーのくびきから自由になった世代は過去のパターンの踏襲に満足できなくなり、その成果はハヌン・ブラマンティヨ監督の2006年作品『紅いランタン』(Lentera Merah) に最も顕著に表れています。同作は共産主義全盛期にある大学の文芸サークルで起きた忌まわしいリンチ事件の犠牲者が現在の大学キャンパスに幽霊として蘇り復讐する物語です。9月30日事件とその後続いた赤狩りそのものを直接描いたわけではないものの、インドネシア社会が長らく隠蔽してきた、共産主義者及びそのシンパへの超法規的処刑という暗い過去をホラーものの形をとってスクリーン上に蘇らせたハヌン監督の野心的な試みは、見事に成功しています。第37信で私が言及した反共プロパガンダ映画『インドネシア共産党9月30日運動の裏切り』が最恐最長にしてかつ初の政治的ガドガド・ホラーとするならば、『紅いランタン』はそれに対する新世代からの回答です。ある種の悪魔祓い、忘れられた歴史の掘り起こしと無辜の犠牲者の名誉回復の第一歩と評することも可能かもしれません。レフォルマシ(改革)の時代ゆえに本作の製作が可能となったのは間違いのないところでしょう。ただし、共産主義者を弾圧虐殺する側であったイスラーム勢力が画面に姿を見せることはなく、そのあたりが製作当時の表現の自由の限界だったのでしょうか。横山さんは本作を未見のようですので、いずれ鑑賞する機会があれば感想を教えていただければと思います。

『紅いランタン』(Lentera Merah) ポスター。「共産主義者」という幽霊に対峙し恐怖する大学生たち。インドネシアではDisney+ Hotstar 他で配信中。filmindonesia.or.idから引用。

また、ガドガド・ホラー1.5のもう一つの特徴として、恐怖とエロスの結合がしばしば散見される点も指摘できます。ただ、これは1.0の時代から続く傾向でもあり、エクスプロイテーションものであるため、女性を含む広範な観客からは敬遠される原因のひとつでもありました。日本人としては、『タナ・クシルの幽霊』(Hantu Tanah Kusir)や『髪を洗う看護婦2』(Suster Keramas 2)などの作品にアダルトビデオ女優としてインドネシアでは(なぜか)広く知られていた小澤マリアや蒼井そらが出演していたことにも一応言及しておくべきでしょうか。

しかし、こうしたセクシー女優の出演をウリにしただけの安手の作品はやがて観客から飽きられてしまいました。当然と言えば当然で、彼女たちの媚態がどれほどのものであろうとも、アダルトビデオと同等のものを検閲制度のあるインドネシア国内のスクリーンで見せることはもとより不可能なのであり、男性観客の期待を満たせるはずもないからです。別の言い方をするならば、彼女たちの媚態は、妖花スザンナの本気度や妖艶さには到底及ばないレベルだったと結論づけられます。

スザンナについては第41信で徹底的に語りつくしたので繰り返しませんが、彼女がガドガド・ホラー、ひいてはインドネシア映画史において唯一無二の存在だったことを逆説的に証明したのが、エロス要素の濃いガドガド・ホラー1.5の現時点での衰退と減少と言えそうです。

ところで、スハルト政権崩壊からゼロ年代にかけてはイスラーム勢力の政治化や過激化が盛んにマスコミで報じられて専門家も論評し、実際ヒジャブを被る女性が目に見えて増加し始めた時期とも重なります。より正確にはヒジャブ女性の増加に限らず、現実社会の様々な分野で多くのイスラーム復興現象が観察されましたが、どういうわけなのか、スクリーン上のガドガド・ホラー1.5にはそうした現象が直截反映されなかったようです。ホラーもの以外のジャンル、とりわけ恋愛ものにおいては、第27信から第29信まで横山さんと話題にした2008年公開『愛の章句』が典型的なようにイスラーム的価値観が反映された、あるいはより明確に主張する作品がトレンドとなったのですが、ホラーものにおいては管見の限りほとんど見当たらないようです。

スハルト政権崩壊によって1.0のパターンが通用しなくなった理由については先述したとおりですが、日常生活で再イスラーム化が着々と進む現実社会と、そうした動きとは一見無縁のようなスクリーン上のガドガド・ホラー1.5との間のズレは何に起因するのか?

たとえばイスラームの優位と勝利を1.0のように描こうとすると、どうしてもある種の説教臭さからは逃れられません。単純化しすぎた正論をスクリーンでぶっても、グローバル化した世界の中で否応なしに多様な価値観に触れる観客には響かないのではないか。世俗的な多くの映画人がこのような危惧を抱き、作品内でイスラームとの関係を描くことを回避した結果がズレの原因なのでしょうか。

結局のところ、このズレが発生した明確な理由が今の私にはわからないのですが、ゼロ年代後半から2010年代前半にかけての国内映画市場の変化やトレンドの考察は参考になりそうです。

まず、低予算で作られた安っぽいホラーものが粗製乱造された結果、観客に飽きられて製作本数自体が減少しました。そして、反イスラーム的なエロス要素の濃い作品や非イスラーム的な作品は一定数の観客にはアピールするものの、拡大基調にあった映画市場全体の中ではスマッシュヒットがせいぜいで、大ヒットまでには至らない傾向が徐々に明らかになってきました。インドネシア映画データベースflimindonesia.or.id 上の2007年以降の年間観客動員数作品ランキングを見ていただければ私の説明に納得していただけるはずです。とりわけ2013年から2016年においては、ランキング15位までに占めるホラーものは毎年1本か3本に留まっており、上位にランクインしたホラーものは1本もありません。http://filmindonesia.or.id/movie/viewer#.Yyo_V3bP25c

あくまで仮説ですが、ホラーものが興行的に低調だった時期に、映画人たちは1.0とは違う形でのイスラームへのアプローチ、あるいはジャンルとしてのバージョンアップを暗中模索していたのかもしれません。この点に関しては、より詳細に調べる必要がありますので、今後の宿題とさせてください。

『悪魔の奴隷』(2017年)英語版ポスター。imdb.comより引用。

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そして、ようやく現在地であるガドガド・ホラー2.0について、です。1.0と1.5の間に明確に存在した政治的大変動は1.5と2.0の間にはなく、また論者によっては1.5と2.0の差異を認めない立場もありえるかもしれませんが、2017年公開『悪魔の奴隷』新版の大ヒットがガドガド・ホラーという一大ジャンルの大きな転換点になったことはまず間違いありません。同年の観客動員数第1位を記録しただけでなく、前年まで低調だったホラーもの全体を活性化させて同年の観客動員数上位10作品中5本がホラーものとなりました。

『悪魔の奴隷』新版以降の作品群をガドガド・ホラー2.0と私が定義するのは、内容もさることながら、低予算早撮りの安っぽい作りから脱却してちゃんとした予算をそれなりに費やし技術的水準面を向上させたこと、他のジャンル以上の興行的成功を収めていること、これらの結果としてガドガド・ホラーというジャンル全体が盛り上がり全般的にバージョンアップされたと判断しているからです。ただし、イスラームをホラーものの中でどう位置付けるかという課題に対して、2.0の作品群は一様ではありません。

(⇒ジョコ・アンワルは『呪いの地の女』では・・・)

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