よりどりインドネシア

2019年06月08日号 vol.47

オーストラリアに眠る日本人抑留者の知られざる物語 〜新公開のカウラ日本人墓地データベースを試用して〜(脇田清之)

2019年06月08日 11:03 by Matsui-Glocal

オーストラリア、シドニーの西、約320 kmにあるカウラ(ニュー・サウス・ウエールズ州)の日本人戦争墓地には、太平洋戦争中に豪州国内で亡くなられた日本人捕虜及び民間人抑留者 524名の墓があります。桜の咲く毎年9月には、地元市民の主催により慰霊祭が開催されます。

カウラの日本人戦没者慰霊祭(上)と墓地(下) (写真:和田ひとみ)

太平洋戦争中、オーストラリア各地(次の地図参照)に収容されていた日本人は、戦争の経過とともに増え、終戦の1945年には5,000人を超えました。このうち民間人抑留者は最大で4,000人を超えています。

民間人抑留者の内訳は、インドネシア(蘭印)各地から送り込まれた方たちが最も多く1,949人で、民間人抑留者の半数を占めていました。その他、木曜島などからの真珠貝採取関係者 524名、ニューカレドニアから1,124名、ニュージーランドから50名、ニューヘブリデスから34名、ソロモン島から3名とオーストラリア国内居住者でした。

オーストラリア国内の日本人戦争捕虜及び民間人抑留者収容所 https://www.cowrajapanesecemetery.org/jp/camp-related-map/ 

●カウラ日本人戦争墓地の歴史

オーストラリアの抑留者に対する扱いは、ジュネーブ協定(1929年)の戦争捕虜取り扱い規定に則り、扱いは寛大でしたが、捕虜と抑留者のうち500人以上が、1946年に解放されるまでにオーストラリア国内で死亡しました。捕虜の場合は、1944年8月に発生した「カウラ脱走」での死亡者234名が一番多いですが、他の捕虜と抑留者たちの死因のほとんどは高齢や病気でした。墓地も収容所ごとにありました。

1950年代に入り、戦時中に亡くなった日本人の墓をどうするかが日豪両政府にとっての課題となりました。1955年、日本国大使館は日本人の墓の調査を実施しています。最初は遺骨を日本に送還する可能性も検討されましたが、最終的には1962年9月、オーストラリア政府から土地の永久借地権を得て、カウラに戦争墓地を設置することに決まりました。

●カウラ日本人戦争墓地オンライン・データベース

これまで親族の消息を探るために、オーストラリア国立公文書館やオーストラリア戦争記念館などに問い合わせして、情報を探さねばならず、一般の方々にとっては非常に困難でした。

在オーストラリア日本国大使館は、オーストラリア国立大学の田村恵子先生(代表)、クイーンズランド大学の永田由利子先生の協力を得て2016年度(平成28年度)から3年間をかけて、豪州内にある公的資料や文書を調査してきました。

この調査結果をもとに、氏名別のデータベースを構築して、ウェブサイト(日本語・英語)としてまとめ、2019年(令和元年)5月10日、データベースが公開されました。

https://www.cowrajapanesecemetery.org/jp/

このデータベース(日本語、英語)は、誰でも同墓地に埋葬されている方々の諸状況と経緯を閲覧することが可能となるよう設計されています。

筆者らも試験的に使ってみました。若干の慣れが必要ですが、良くできていると思います。たとえば、出身地名、インドネシア時代の所在地などのキーワードを使って、色々な新事実を知ることができました。故郷や家族から遠く離れて、カウラで永眠されている方々の知られざるストーリーをより多くの方々に知って欲しいと思います。

●カウラ日本人戦争墓地にて想う

関西在住の和田ひとみさんは、かねてより大伯父で、戦前マカッサル(現・南スラウェシ州の州都)で和田商店を営んでいた和田治太郎氏の墓地の所在を探していました。

セレベス島で生まれ育ち、当時の記憶も少しある伯母に聞いてみると、「治太郎さんは捕虜になって豪州で亡くなったんよ」という返事。大伯父はオーストラリアで亡くなっており、その遺骨は日本にはありません。

除籍謄本を取り寄せると「南豪州バルメラにて死亡」と記されています。バルメラ・・・バーメラ・・・ラブダイ収容所に移送された様子。おそらくラブダイ収容所で大伯父は亡くなっている。ネット情報を隈なく探し、ついに大伯父の墓の所在を探し当てました。

和田さんは「大伯父が私を呼んでくれている、先人の魂を迎えに行こう」と、2014年9月、シドニー日本人会が主催する1泊2日のバスツアーに参加し、桜が満開のカウラ日本人墓地を慰霊のために訪れて、ついに大伯父の墓と対面することができました。

マカッサルのトコ・ワダ経営者、和田治太郎氏の墓碑(写真:和田ひとみ)

これまで、大伯父の無念さを思っては涙することもありました。やっと見つけることのできたうれしさと、大伯父もよろこんでくれたのか、笑顔の対面。うれしかった、本当にうれしかった。68年も経ってしまったけれど・・・「冶太郎おじいちゃん、初めまして。遅くなりました」。

和田治太郎氏は、1926年頃からマカッサルの海岸近くで和田商店を経営していました。太平洋戦争に入り、事態は急変します。以下では、和田ひとみさんのお話とアジア歴史資料センターによる地方邦人状況報告から、当時の状況を振り返ってみたいと思います。

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